上の写真は旭川師範学校在学中の父です(後列左)。ところが43歳で死亡
する3,4年前から紙を持つ手が小刻みに震えるようになってきたのです。
恐らくアルコール中毒になっていたのではないでしょうか。
ある時、母に「父さんは、結婚した当時から晩酌をしていたの?」と聞くと、
「いいえ、違うの。父さんはそんなにお酒が好きでなかったのよ」とのこと。
「若い頃の父さんはどんな人だったの?」と再度聞くと、概ね次のような内
容のことを話してくれました。
①新採用教員として赴任してから1年間、毎朝、食事もとらないで出勤し
ピアノの練習に励んでいたので、母が朝食の弁当を届けたこと。
(父は学芸会の時、殆どの学年のピアノ伴奏をしていたし、マンドリン、
クラリネットも上手だった)
②いろいろな研修会があると率先して参加し頑張っていた。だから、水泳
やスキーの指導員の資格もとることができたこと。
③帰宅してからは毎日のように、何か難しい本を読んでいたこと。
④とに角、真面目な好青年であったため職場の女教師が熱を上げたとの
こと。
「飲むようになったきっかけは?」との質問に対して、
①初めて勤めた長橋小学校で、校長にたて突き(反抗的な態度をとったり
逆らうこと)手宮西小学校へ転勤させられたことに不満を持ち、自棄(ヤケ)
になって飲むことがあったこと。
②子どもが4、5人になり経済的にゆとりがなくなってきた時、満州へ行き
たいと言い出し、どうしても行きたいなら私を離縁(離婚)して下さいと猛烈
に反対した。それで夢が断たれた不満から晩酌の傾向が見え始めたこと。
③外地(満州や樺太、台湾など)で勤務すると手当てがつき、生活が楽にな
ると言っていたが、私は旭川市に在住していた母を置いて行くわけには行
かなかったので拒否し続けたこと。(母は親1人子1人であったため)
④派閥によるトラブルでストレスが溜まっていたこと。
⑤終戦まもなく、組合(北海道教職員組合)が発足したとき、役員となり組合
活動に専念したいと言い出した時、また私が強く反対したこと。
などの理由が重なって、あのように酒を浴びるようになったのではないかと
母は説明してくれたのです。
父は養子なので、母に頭が上がらず、母と折り合いが合わなくなると、
「分かった!俺が出て行けばいいんだろう
」と言って、友達の所に数日
泊まって来ることがあったのだそうです。
今の私は、日頃のストレス解消のため酒に溺れていった父の心境が分か
るような気がします。しかし、血便がおり医者から胃潰瘍初期と宣告されて
いたにも関わらず、治療もせず胃の痛みを酒で紛らす父の態度は決して
許すことができないわけです。
今更、亡き父を批判しても後の祭りですが、自己責任についてもっと考えて
欲しかったのです。
自暴自棄にならず自らをコントロールする父であって欲しかった
のです。そういう意味からは、父は意思の弱い男であり哀れな男の1人で
あったと思うのです。天国にいる親父さん!勝手なことを言ってご免なさい
[注釈] 教員仲間は派閥(別称、軍団とか会社とか言われ出身学校別に
作られた同窓会組織)を作り、たがいに切磋琢磨したり、時には利害をとも
なう圧力団体に変身?することもあるのです。同じ職場に勤務する教員で
あっても、「同じ釜の飯を食ったものは可愛い」との意識から、人事面で
優遇したり、時には後輩からいろいろな情報の提供を求めて策を練ることも
あるのです。
また、教員の異動時期になると自校へ優秀な後輩を入れ、学校経営への
協力や推進力になってもらうことを期待したわけです。
父の教員時代は、北海道には下記のような師範学校がありました。
学 校 名 別 称 現 在 名
・札幌師範学校 第一師範学校 教育大学札幌校
・函館師範学校 第二師範学校 教育大学函館校
・旭川師範学校 第三師範学校 教育大学旭川校
三校体制は全国で東京都と北海道のみでした。しかし終戦後は上記三校に
加え、樺太師範学校や台湾師範学校、青年師範学校(教育大学岩見沢校)、
教育大学釧路校があり、それぞれ出身学校別に同窓会組織が結成されて
いたのです。
中でも歴史の古い三校が北海道教育振興に大きな影響力を及ぼし、教育界
の中核組織に優秀な人材を送り込み、時には横暴極まる人事配置をしたり
排他的態度をとる傾向さえ見受けられた時代もあったのです。
現在ある同窓会は
札幌校は北師同窓会(別称①)、函館校は夕陽会(②)、旭川校は六稜会(③)
岩見沢校は青陵会、釧路校は鶴稜会であり、地域によっては更に啓友会、
科挙などの名称で本州の大学出身者や教育大学系以外の出身者が集う
同窓会もあり、派閥抗争も深刻な時代があったのです。今は、同窓会に入
る教員があまりいないと言うことで幹部がなやんでいる時代になったようで
す。また教頭のなり手がいなくなり、教育委員会を悩ませる地域もでてき
ているのです。
父の時代、小樽市は夕陽会(②)が一番勢力があり、次に北師同窓会(①)で
人数の少ない六稜会(③)は無視されがちな状況だったわけです。
ですから、父が教頭になったのも教育長が一期後輩で同郷の人の時であり、
みえみえの人事であったことと、若干39歳であったため他派閥からの風当
たりが可なり強かったようなのです。
祝津小学校に於いても、ある函館師範出身の教員が父が補欠授業から
職員室へ戻ってくると、教頭の席に座り
「○○先生が教頭なら、私は校長であっても可笑しくないよね」と言って、
胸を張りながら煙草をふかしていたとのこと。
また、手宮西小学校に勤務していた時代に研究授業後の批評会で、痛烈な
批判をするのは他の派閥教員であったため、父は帰宅後
「今日は、○○と△△にやられた。今に見ていろ!今度徹底的にやっつけて
やるから」と言いながら、自棄酒(ヤケザケ)を飲んでいたとのこと。だから、
他の先生の研究授業の時でも、猛烈に調べて論戦を張ったのだそうです。
私の現職時代を振り返ってみると同じようなことがあったので、やはり私も
父の子だったのだとつくづく思うのです。血は争えないものです。
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