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2008年10月

2008年10月31日 (金)

あっ!警察だ 寝たふりを!

ペッタンペッタン・・・・聞き覚えのある音が土間(床が土の

玄関)の方から聞こえてきます。隣に寝ていたはずの母の

姿がありません。

寝ぼけ眼で土間に出ると、餅つきをしているのです。

伯父さんと伯母さんが、お土産用の餅を作っているのです。

ぽかぽかと湯気を上げながら・・・。ひと臼が搗(つ)きあがり

母が鏡餅の形にしているのです。

柔らかな餅を口にほお張り満足そうなアポチャンdelicious

荷馬車に揺られながら、遠くの山々を眺めているうちに駅に

着きました。来るときは軽いランドセルでしたが、帰りはずしり

と重いわけです。なんと、米が約3升も入っているのです。

ところが、汽車に乗って4、5時間後、俄かに車中がざわめき

出しました。母も慌てた様子で、

あ、警察だsign01アポチャン、

早くランドセルを背負って寝た振りをしなさい。いいかいsign02

寝たふりだよsign03」と言うのです。

何も悪いことをしていないのに、なぜ寝た振りをするのか

分からないままに目を閉じるアポチャンです。

一体、何が起こったと言うのでしようか。       <つづく>

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2008年10月30日 (木)

でんぷん靴が 米に変身? 

昭和20年の11月頃です。

でんぷん靴が1クラス60人に対して僅か2足sign02配給です。

あきらめていたアポチャンは終わりから数番目に

くじをひきました。ところが当たったのですhappy01

その靴はゴムでできていましたが、表面にでんぷんを付けた

ような白くブチがいたるところある長靴です。

藁沓(わらぐつ)を履いていたアボチャンは、喜び勇んで下校。

ところが、母は良く当たったねsign03と褒めたあと、

その靴、履いてはいけないよsign01」との厳しいお達しです。

なぜ?と疑問に思っているアポチャンは、数日後に理由が

わかったのです。

小樽駅から汽車に乗った母子は、風呂敷包みの中に長靴を

持っていたのです。

石狩川の鉄橋を渡る汽車の音が心地よく眠りの世界へ・・・・。

母に起こされたアポチャンは、深川駅で乗り換え、沼田駅で

下車。もう、日はとっぷりと暮れていたのです。

母方の親戚が沼田町で米作り農家をしていたのです。

親戚では、すでに夕飯が準備されていました。

サングラスをかけたくなるほどの銀シャリ(白米のご飯)ですdelicious

生まれてからこの方、純粋な白米のご飯を食べたことのない

アポチャンは、腹一杯食べたらもう眠りの世界へウトウトです。

                               <つづく>

注釈] 昭和17年(1942)2月、「食料管理法」が制定され

国民に「一般米穀通帳」が与えられました。

これがなかったら米を買うことのできないしくみになっていま

した。しかも、時期や年齢によって買うことのできる量が

決まっていたのです。

終戦時は、成人一人1日当たりの配給量は2合4斥(せき)

即ち、約350グラム程度であったようです。

アポチャンの家は、10人家族(昭和20年現在)でしたので

勿論、米は極めて不足しておりました。従って、物と物を

交換する(物々交換)が一般的な世の中だったのです。

なお、配給は米ばかりではなく、日常生活に欠かせない

生活物資(調味料、魚介類、肉、野菜などなど)も全て配給

制度に組み込まれたので、余分な食料品の入手が極めて

困難になっていったのです。

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2008年10月29日 (水)

教室に 不審者が侵入

晩秋のある日、突然、教室に見知らぬ男が侵入

女教師はえています。

級友も皆、身動き一つせずに下を向いています。

男は一言も発せず、次々と机の天板を開けていきます。

そっと見てみると消しゴムや長い鉛筆などを持っているのです。

アポチャンには長い時間に感じられましたが、

僅か数分後に男は出ていきました。下校時、2、3人の

友達が、靴を盗まれたとかジャンバーがないと言ってweep・・・。

アポチャンはどうやら被害に遭わなかったようです。

この出来事を家で話すと、

チャンコロsign02 みんな気をつけないと、襲われたりしたら

大変だよsign01」と話す母。そして、

「ちぇ、戦争に勝ったもんだから好き勝手なことをしやがってpout

と針仕事の手を休めずに舌打ちする母でした。

戦時中は敵機来襲におびえ戦後は黒人の米兵や

朝鮮人中国人におびえるアポチャンでした。

あげくの果てに、お腹はいつもぺこぺこ状態です。

何時になったら平穏な日々が訪れることでしよう。

[注釈] この「チャンコロ」という言葉は、日本が中国大陸に

積極的に出兵する昭和初期から頻繁に使われるようになっ

たわけです。

当時の日本人には中国人に対する優越意識

あり、また日本と中国が戦争状態にあったことから、

軽蔑的に使われることが多かったため、現在では軽蔑的な

言葉とされ、政治・経済等のの場で用いたら問題に発展

しかねません。

日本に徴用(国家が強制的に動員して労働させること)され

た中国人や朝鮮人が、北海道の夕張市、三笠市などの石狩

炭田の坑内で石炭堀の過酷な労働を強いられたわけです。

終戦になり、彼らが暴徒となっていろいろな事件を起こした

というニュースがよく聞こえてきた時代でした。

なお、連合国の統治下にあった日本では、警察の捜査権

及ばなかったため、米兵の中には暴行事件を起こしたり、

一部の中国人などが今までしいたげられてきたことに

対して仕返しをするという事件

後を絶たない状況の日本でした。

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2008年10月28日 (火)

米兵に追われるアポチャン

手製の旗を両手に持ち、なびく音に誘われて速力を高めながら

走り回るアポチャンhappy01

向こうからジープが近づいてきました。それに気が付いて

様子を窺(うかが)っていた所、ジープが止るではないですか。

顔色を変えたアポチャンは、全速力で隠れる場所

探しています。目は血走っています。

隣の家との隙間に身を隠し、ガタガタ震えて・・・・います・・・。

近くでかん高い米兵の声が聞こえます。ああ、もう駄目だdespair

アポチャンは一体何をしたのでしようかsign02Σ(゚д゚lll)アブナッ !

数分間経ったのでしようか? 米兵の声が聞こえません。

慎重に様子を窺いながら、裏の家の方に出てきました。

「アポチャン!もういないよsign01」「出てきていいよsign03」と連呼の声。

稲葉君とそのお兄ちゃんの声です。

アポチャンは安心して出てきました。

小樽高商(今の商科大学)在学中の稲葉君のお兄ちゃんが

米兵と話をしたそうです。彼らはアポチャンの持っている旗が

欲しくてお願いしようと思ったのですが、あの子が逃げ出した

ので残念です。私達はあの軍艦旗が恐ろしかったのです。

戦争に勝った証(あかし)に、あの旗が欲しかったとのことです

何だ、そうだったのかと胸をなでおろすアポチャンでしたhappy01

[注釈]アポチャンはどうして逃げたと思いますか。それは

そのような教育を受けたからです。旭川の日章小学校へ

転校した二学期の始業式で校長先生がこう言ったのです。

残念ながら我が国は戦争で負けてしまいました。

これからアメリカ兵やイギリス兵などがこの旭川にも

やってきます。彼らは日本人を殺したいのです。

飴やガムをもらってはいけません。中に毒が入っている

のです。近づかないように気をつけましようsign03

との話(訓話)があったからです。

アポチャンは小中学校を通して校長先生の話を覚えて

いるのは三つしかありません。後ほど紹介します。

【小樽港に進駐軍が上陸(昭和20年) 提供北海道新聞社

Photo

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2008年10月27日 (月)

「亀はイヤダ!」 劇の役に抗議

時あたかも学芸会シーズンです。

古巣に戻ったアポチャンは、るんるん気分で登校しています。

『浦島太郎』の劇に出ることになり、いよいよ練習開始です。

舞台中央で、村の子ども達6人が騒ぎながら遊んでいます。

そこへ亀さんが、のこのこ這いながら出てきます。

子どもの一人が「あっ、カメダ!カメダ!」と言うと、

他の子ども達が一斉に寄ってきて、蹴る、乗る、転がす・・・・。

とその時です。

アポチャン亀が急に立ち上がり、

  「カメは嫌だsign03カメは嫌だsign01

        僕は村の子になりたい」との叫び。

先生は「どうしてなの?」と聞くと

「だって、いじめられるのは嫌だもん!」と口を尖らせるのです。

先生は、「これは劇だから本当のいじめではないでしよう」

と説得に努めましたが、頑として拒否するdashばかりです。

村の子に替わったアポチャンはgoodカメ役の坂本君を

楽しみながらいじめているのです。

帰宅し、得意顔で母に報告すると、

亀の方が出番が多くて良かったのに。おかしな子ねsign02

との不満顔pout

母の日頃の家庭教育のツケが、こんな場面に現れたのです。

喧嘩に負けて涙顔で家に帰ると、

「男のくせに負けてどうするのよ(#゚Д゚)y-~~イライラ 

もう一度、喧嘩をしなおしてきなさいpout怒鳴るわけです。

このような「しつけ」が

アポチャンの身体に沁みこんでいたのです。

戦時中の教育の賜(たまもの)なのですね。

<注釈>昭和20年の頃は1学級60人でした。学級定数は

以下のように推移していったのです。

  昭和34年~50人   39年~45人   55年~40人   

このように児童数の多い中で、学芸会の劇や遊戯に出れる

児童はクラスで一種目2~3人程度であり、合唱は10人

程度選ばれる状況なのです。

現在はすべての児童が出場できますのでよき時代です。

でも、劇に選ばれてもセリフの多さで人を比較する風潮は、

昔から変ってはいないようですね。

どの親も主役を期待するわけです。

現在は舞台に出る人やナレーターなど一人一人の児童の

活躍の場を工夫して皆が主役の学芸会をめざしているのです。

  自分の出番や持ち場で全力を尽くし、観客に感動を

  与えることに意義がありそうです。

私は、劇で感動した場面を思い出します。それは

「あっ、あれは何だろう?」との一言が、

体育館全体に響きわたり、観客が一斉に指差す方向に

振り向いた場面です。

「子どもの評価のあり方」に一石を投じた場面でした。

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2008年10月26日 (日)

いじめに バイバイ

転校してから数日後、帰宅途中の私を待ち伏せしている子が

出現coldsweats02長い棒を持って、ここを通さないと言うのです。

無理して通ると追いかけてきて打つのです。

仕方ないので2,3日は遠回りして帰りましたが、悔しいのです。

そうだsign01 礫(つぶて~投げるための石)で脅かしてみようsign03

そう思いついたアポチャンは、学校帰りに小石を数個拾い

ボケットに隠しました。

この作戦が効を奏するかどうか不安でしたが、案の定、

相手は恐れて反撃の手を休めましたhappy01

それから約一月後、二番目の妹が誕生し戦争も終わった

ので小樽へ帰ることになりました。

父や兄弟に会える楽しみより、また、いじめに遭ったら

どうしようと考えていたアポチャンは、

ヤッターと小躍りして喜びました(v^ー゜)ヤッタネ!!

<注釈>

私は一年生から「いじめ」撃退の方法を考えていました。

相手にダメージを与える武具の作製に工夫を

凝らしていたのです。

母に男の子は喧嘩で負けてはいけないけれど、

相手を不具(身体の障害)にしては絶対にだめ

と強く言われていたので、作るのは難しいわけです。

不良が刃物で人を刺したとか、木刀で殴られて死んだとか、

小樽運河に蹴落とされ水死したとかの話を

よく聞いてもいました。

そこでアポチャンは、木刀のつばにカミソリを埋め込み、

刃を2ミリほど出す喧嘩の道具。自転車のチェーンを

30センチ程の長さに切り、取っ手をつけて振り回し易くする

武器などがその一例です。

今思うと、大変なことをしていたわけです。

しかし、今の子ども達は喧嘩の仕方が分からないので

困ります。

教え子の中には、ポケットにカッターナイフを隠し持ったり、

通販で買ったアメリカ製の折たたり式棍棒(こんぼう)

を持って、下級生の腰をぶつなど油断できないわけです。

喧嘩は急所(目、コメカミ、女の乳房など)を

攻めるな、自分より弱い者をいじめるな、相手が「マイッタ」

と言っても手を出したならその人の負けである。

喧嘩は一対一でやることなど喧嘩のルールについて

時間を割き指導してきました。

校内で喧嘩をしている子がいれば、止めさせることに

夢中になる教師が多いわけですが、喧嘩のルールを守って

いるかを観察する教師がほとんどいない状況です。

こんなことでいいのでしょうか。憂う者の一人です。

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2008年10月25日 (土)

終戦そして転入

旭川に疎開して来た翌日が終戦とはweep

運命の悪戯とはいえ、なんでこんなことが・・・・・。

8月15日朝、祖母の家から駅まで散策に出かけました。

わずか500メートル程度の道のりです。

しかし、駅までたどり着いたのはいいのですが、

帰りに、別の道を通って迷ってしまったのです

同じ所をぐるぐる回っているうちに、心細くなってきました。

姉も私も、家の住所を覚えていません(ノ∀`) アチャー

どのくらい時間が経ったことでしょう。

二人で泣きながら家を探していたところ、

「アポチャン、ここだよsign01何処へ行ってたのsign02」と母の声。

安堵の気持ちと同時に、涙が止めども無く出てくるのですweep

しかし、母との帰り道、いたる所で人々が群がり、

私と同様に泣いているのです。

玉音(天皇の声)放送で敗戦を知り泣いていたのです。

それから数日経って、私は日章小学校へ転入しました。

翌日、今度は教室を間違えて座っていました

後で来たその席の人が、席を空けるよう抗議しました。

私は毅然とした態度で、

「僕は昨日転校してきたんだ。先生が君の席はここだ

と言ったので座っているんだ。」と強く訴えました。

何回か言い合っているうちに、教室の入口で、

「○○君!君の教室は隣だよ。早く早く!!」との声。

間違ってゴメンネの一言も発せず、立ち去るアポチャンでした。

<注釈>私は小学校を3校転校しました。道に迷ったり、

教室を間違えるのは当たり前のことです。

この経験から、教員になってからは転入生の受け入れの

一つとして、校内を案内(トイレや水飲み場、体育館、保健室、

職員室など)してくれる友達を募って決めてきました。

転入生の不安感を取り除くためです

この措置は、多くの転入生の保護者に喜ばれました。

教師のちょっとした心配りが大切なことを学んだ

原体験の一つなのです。

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転校?敵機が歓迎とは

入学してわずか3ケ月半のことです。

1学期の終業式の朝、母が

「小樽の町も戦争で危なくなったので、旭川に行くことにしたの。

今日、職員室に行ってきちんと挨拶して来るのよ。」

と告げました。

これまで一度も職員室に入ったことのないアポチャンは、

ドキドキしながら入室し、直立不動の姿勢で言いました。

「僕、旭川に行くことになりました。後でお母さんが来ます。

これまで有難うございました(._.)アリガト」

大好きな奥山先生が、柔らかな手でアポチャンの頭をなでながら、

「大きな声できちんと言えましたねhappy01偉いですよ。」と微笑みました。

るんるん気分で校門を後にしてから、数分のことです。

空襲警報のサイレンがけたたましく鳴りました。

アポチャンは小脇に抱えていた防空頭巾をとっさにかぶり、

木の下のくぼ地に伏せました。

B29の音が近づいて来ます。アポチャンは泣き出していましたweep

しばらくして、敵機の去った青空sunを見ながら

また、元気に歩き出したアポチャンでした。

[注釈]29年間、小学校で学級担任をしてきた私は、

多くの転入・転出児童に出くわしましたが、

保護者が同伴してこなかった事例は一つもありません

私(アポチャン)の父母は、

どうしてそうしなかったのでしょうか不思議です。

父が師範学校(今の教育大学)時代に苦学してきたので、

我が子をも独立独歩でたくましく育つことを

願っていたのだろうと前向きに解釈しています。

転校手続きも、教員であった父が事前に連絡して

処理していたのではないかと推察しております。

なお、旭川への一時疎開は、母と姉と私、妹の4人であり、

小樽には父、兄3人、姉(長女)の5人が残りました。

それにしても、父が35歳で9人家族の長とは恐れ入ります。

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2008年10月24日 (金)

姉と入学式へ

昭和20年。小樽市立長橋国民学校の入学式へhappy01 

庁立女学生の姉が親代わりです。

母は妊娠4ケ月であり、4歳の妹もいたので                   

無理をしなかったわけです。

校門をくぐり1年3組の廊下に自分の名前を発見し(v^ー゜)ヤッタネ!!    

小躍りして教室に入るや、皆の机の上を飛び歩きましたfootfoot

姉は「アポチャン、何しているの!」と怒鳴りましたが、

お母さん達が笑っているので、調子にのって全部の机の上を        

飛んだわけです。

しかし、式が始まってまもなくして、後に参列しているお母さん方      

の中に姉の姿が見つからないのですweep(つд⊂)エーン

入学式が終わり、白のタンキリ飴をもらって                   

喜び勇んで帰るアポチャン。しかし、何故か姉はpout              

家に帰ると、早速、姉は母に今日の出来事を報告したのです。       

母は笑いながら、「アぽチャン!どうしてそんなことを(・_・)エッ....?」       

と聞きましたが 、アポチャン自身も分からなかったのです。

私自身、38年間小学校に勤務していましたが、                

アポチャンのような行動をとった子を                       

見たこともないし、聞いたこともありません。

今思うと、担任は相当手を焼いたことでしょう。            

                                                       

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誕生エピソード ②

生まれたばかりのアポチャンの身に、

大問題が降りかかったのです。

この子を私にくれませんか。大切に育てますからheart

と父の同僚のM先生が懇願したのです。

その気になった父は、母に相談すると

いくら子供が多いからといっても私が腹を痛めて産んだ子です。

どの子も可愛い我が子です。手放すわけにはいきませんpout

と強く拒絶しました。

母に弱い父は、しぶしぶ養子縁組を断ることにしたのです。

母の強い愛情によって難を逃れたアポチャンでしたが、

果たして、その後に寄せる大波を乗り越えて行けるのでしょうかsecret

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2008年10月23日 (木)

私の誕生エピソード ①

私ことアポチャンは、

父が26歳の時に6番目の子として生まれましたheart02

でも、変ですよね。(・_・)エッ....?

師範学校(今の教育大学)出身の父ですから、22歳で卒業し

直ぐ結婚しても計算が合わないのです。

実は、師範学校在学中に級友のA君が、結核性の痔ろう

(肛門の肉が腐り出すらしい)で死んでしまったのですshock

A君の家は、旭山動物園で有名な旭川市の駅前で、

旅籠(はたご~今の旅館)を営んでおり、一つ年上の

姉がいたのです。

旅籠の女将さんは、苦学していた父の存在を我が子から

聞いていたので、早速、学校へ出向き、娘の婿(むこ)に

来てくれるよう父に懇願しました。

父はこの話に飛びつき養子として迎えられたわけです。

在学中(17歳、18歳)に長男、長女が産まれ、

小樽市の小学校に子連れの新卒者として赴任したので、

市内でも有名な人物だったそうです。( ゚д゚)ポカーン

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2008年10月22日 (水)

テスト

はじめまして!happy01

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