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2008年12月

2008年12月31日 (水)

馬の足は?6本

冬休みになると思い出すことがあります。

小学校卒業後、旧制中等教育学校を受験する生徒さんが冬休みにも関

わらず、我が家に来て父から補習授業を受けるのです。当時の進学率は

20%前後でしたので、1クラスに12,3名が茶の間を独占します。ですから

小学1,2年生までの私は、生徒さんが来る日は外で遊んでいるか、茶の間

で静かにしていなければならなかったのです。

ある日の正午近くですが、ストーブの近くに座っていた生徒さんが、うとうと

していました。それを見た父が何かを質問しました。チンプンカンプンな

解答でしたので、再度聞きました。

馬の足は何本だsign02」 「ハイ、6本ですsign01」 皆が笑いました。私もです。

「馬鹿者pout」 父が一喝。 「台所へ行って顔でも洗って来い(# ゚Д゚) ムッカー」

このようなやり取りが冬休み期間中、2週間?ほど続いたのです。勿論、

無償です。このような取組みは父だけではなく、受験学年を持った各先生

方がしていたようです。どの先生方も自分のクラスから何名合格させること

ができるか、競い合っていたようです。

それから見たら、今は、塾の先生方が代わって取組んで下さるので助かり

ます。ただ残念に思うことは、冬休み中、一度も子ども達とのふれ合いの

時間を設けない先生方が見受けられますが、違和感を感じる私です。

[注釈] 1947(昭和22)年まで、小学校卒業後、授業料を納めて中等

学校へ進学する子どもがクラスの五分の一程度いたのです。勿論、経済

的に耐えうる家庭の子でした。

小樽市では、北海道庁立小樽中(道立小樽高⇒小樽朝陵高等学校)、

庁立小樽商業(現:小樽商業高等学校)、小樽市立長橋中学校、庁立

小樽水産(現:小樽水産高等学校)があり、在学期間は5年間でした。

受験は北海道や樺太などの、どの地域からでも受験できました。

各クラスでも成績優秀な人が受験しますので、結構狭き門だったようです。

ある先輩が、「教育は人なり。人は愛なり。愛は無償の奉仕なり。」とよく

言っていた言葉と、父の奉仕の姿が思い出されます。

終わりになりましたが、この数か月、私の拙いブログを見ていただきありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎え下さいませsign03

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2008年12月30日 (火)

頭のパワーアップ 就寝と朝食

文科省が「早寝・早起き・朝ご飯」運動を数年前から提唱しています。

なぜなのか?わかりますかsign02

この運動の提唱者で、小学校教諭時代に「読み・書き・計算」の反復練習

と生活習慣の改善で、学力を向上させた陰山英男・立命館大教授は、子ど

もの就寝時刻と成績についてこのように指摘しています。

即ち、午後8時から9時までに寝ている子どもの成績が一番良く、遅くなる

ほど成績は下がり、午前零時以降だと授業についていくのが大変なほど

低いという調査結果も出ています。

また、文科省が43年ぶりに実施した平成19年度の全国学力調査・学

状況調査と「朝食の頻度と学力テスト結果の関係」は次のようです。

上位5県(秋田、福井、香川、青森、富山)の小学6年の4科目平均正答率

は約76%に対して、毎日朝食を食べる割合は約88%でした。

これに対して、下位5府道県(徳島、大分、大阪、北海道、沖縄)の平均正

答率は約68%で、朝食の割合は約83%%。

この結果から、。朝食を毎日食べることと学力の間には、極めて高い

相関があることが実証されたわけです。

このことは、医学的に見ても明らかなのです。それは、脳を活性化する

エネルギー源は、炭水化物が分解してできる「ブドウ糖」なのです。その

ブドウ糖の1日最低必要量は160グラムですが、そのうち脳の取り分は

120グラムです。

これを供給するには、1日3度の食事が合理的なのです。

従って、朝食を抜くとブドウ糖が補給できませんので、脳の働きが落

ちて集中力も低下すわけです。

どうでしょう。たかが朝食といえども侮(アナド)ることのできない大問題なの

です。保護者の皆さん、頭のパワーアップと就寝・朝食が学力向上の大前

提であることがご理解いただけたでしょうか。

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2008年12月29日 (月)

家事の手伝いと学力

今、どの学校も冬休みに入りましたが、貴方のお子さんはどのような生活

を送っておられますか?どの家庭も年末で慌しいことでしょうが、お子さん

は家事のお手伝いをしておりますか。お手伝いはどうでもよいから、勉強を

しなさいangryと小言を言っていませんか。

そこで今日は、仕事と学力について話してみたいと思います。

アメリカの学習心理学者が中学生に対して、家庭で継続的に取組まなけれ

ばならない仕事のある人とそうでない人について、学力に差異があるかどう

か調査研究をしました。

その結果によれば、継続的に仕事がある子どもは、数学、英語によい

成績を修めていることが判明したのです。即ち、継続的仕事の遂行と

学力向上は高い相関を示すということです。

この結果をもとに、ある学校で追研究をしてみたところ同じような結果が

でたとのことです。

私の友達にもそのような人がいます。

彼は酪農を営む家庭において、朝は牛舎の清掃(糞の始末と寝わら敷き)、

乳搾(チチシボ)りを早朝より毎日行い、学校から帰れば、また、牛の餌や

り、清掃等の仕事をしなければなりません。この友達は、家庭学習をする

時間が一般家庭の子より少ないわけですので、短時間に集中してやり、

北海道で一番知られている国立1期校に合格しました。

また、小樽市の外れに住んでいた他の友達は、水道がまだ家庭に敷かれ

ていなかったので、毎日帰宅後は共同水道から家庭へバケツで水汲み

をするという仕事がありました。この友達も慶応大学に合格しました。

こんな子もいました。

1日1善」の話を学級指導でしました。A子は自宅に隣接している児童

公園のポイ捨てゴミを拾うことを目標に取り組みました。不思議です。

やがて成績が上がってきたわけです。

A子の取組みは青少年育成会主催の『善行表彰』部門で、最優秀賞を

獲得しました。彼女は現在大きな病院で正看護師として活躍しています。

このような事例を挙げると枚挙にいとまはありません。どうでしょう、貴方の

家では、子どもが継続的に取組まなければならない仕事・お手伝いを決め

ていますか。

今の子どもに不足している体験の一番は「家事・家業の手伝い」(61

%)なのです。これは、文部科学省が1994年3月の「学校教育と学校週

五日制に関する意識調査」で明らかになったのです。

冬休みです。この期間から子どもと相談してお手伝いの内容を決めてみて

はいかがですか。子どもの学力も向上してくると思いますよ。

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2008年12月28日 (日)

計算力アップ、アップ 学校の取組み

36+49の計算は(1位数)+(1位数)ができることを前提とします。

ところが、前提学力がそなわっていないため、学習が成立しないというこ

とがしばしば起こります。

基礎基本を確実に定着させておくことが大切です。中でも算数科は系統が

はっきりしていますので、このことが如実にわかります。

ドイツの心理学者エビングハウスが発表した忘却曲線によると、記憶は

20分後におよそ42%を忘れ、1時間後でおよそ56%、9時間後でおよそ

64%を忘れ、その後、少しずつゆるやかになり6日後にはおよそ76%を

忘れてしまうそうです。

完璧に覚えたつもりでも、その後復習しなければ、6日後には24%しか

残っていないということになります。しかし、学習し覚えたことを、忘れる前

に繰り返し反復することで、忘れる確立は大幅に低くなることも証明されて

います。

こんなことがありました。

小学校段階の計算で、一番難しいとされる「異分母どうしの加減計算」の

指導時数を増やして学習活動に取組ませた結果、大多数の子どもが到達

したので喜んでいました。

ところが、1月後に前回のテストをマスプリして再度実施してみたところ、

驚きました。結果は忘却曲線の通り、殆どの子どもの成績が下がったわけ

です。そして、前回70点ぐらいで低迷していた子どもが、補習や家庭学習

をしていたため95点をとれたことが分かったのです。

この結果にヒントを得て、全学年で重点教材のテストを2回分印刷しておき、

1月後に再度同一内容のテスト(把持テストと名付けた)を実施し、忘却曲

線の立証と基礎学力の把持に全校(24学級)で取組みました。

そのような過程を通して、各学年で「これだけ出来れば大丈夫」という計

算の基礎・基本的内容を厳選し、学年別に型分けした内容で配列した自校

ドリル帳を作しました。1年生~3年生は低学年用、4年生~6年生

は高学年用とし、印刷・製本は業者にお願いして、A4版の立派なものが

できあがりました。保護者が印刷費を8割負担してそれぞれが購入しても

らいました。

このドリル帳は、個のつまずきに応じて学習できるし、子どもの前提学力を

高める上からも大変効果がありました。また、教師が計算のプリントを刷る

こともなくなり、労力の軽減にもなりました。

一方、保護者も市販のドリル帳を買う必要がなくなったばかりでなく、学年

の系統もよくわかり、我が子の学習状況をきちんと把握できるようになった

ため、家庭学習の焦点化にも役立ったとの反響を得ました。

このドリル帳は計算の速さを競うのではなく、確実にできることを目標にして

作られておりますので、100マス計算より発展性があります。

利用1年後、教研式学力検査を実施した結果、計算分野が著しく成績が

っていることが分かったので、全教職員で喜び合いました。

このドリル帳が、全国校長会会報に紹介されるや、全国各地から購入依

が殺到し、転校生分の予備がなくなったことを、今でも鮮明に覚えてい

ます。

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2008年12月27日 (土)

無免許運転? 国が認める

学力向上が高らかに叫ばれている昨今ですが、解決には少なくとも三つの

レベルから考える必要がありまいが、今日はまず国レベルで考えてみます。

実は、教育長となってから7回、学力が世界一高いとされるフィンランド

学生と話し合う機会がありました。その中で学校教育について強く心に残っ

ていることを列挙します。

① 小中学校の教員になるには、全て大学院を出なければならない。

② 子どもが、まだ学習不足であったら、本人の申出によって小学校段階

 で、1年間の留年が認められている。(6ケ年間で1回)

③ 学校には補習指導をする専門家が配置されている。

④ 1クラスは大体26,7名で35になれば2クラス編成をしなければなら

 ない。

⑤ 全ての小中学校は教科担任制である。

とのことです。このことを日本と比較してみると違いがよく分かります。

日本では、

① 短大でも教職課程を履修すると教員になる資格を取得できる。

② 子どもが出来ても出来なくても、出席日数が不足さえしなければ進級

 できる。不足していても、校長が認定すれば進級できる。

③ 補習指導は担任に一任されている。

④ 1クラスの人数は40人である。

⑤ 小学校教員は原則、7~8教科の全てを教える学級担任制である

そして、一番の問題点は中学の音楽、美術、保健体育、家庭科の4教科

のうち、どれかひとつ免許状を持っていると、その教科が開設されている

学校に勤めることができることになっているのです。

例えば、中学家庭科免許で小学校に勤務し、担任として全教科を指導

することができるのです。

如何ですか。この実態について知っている保護者はほとんどいないと思い

ます。文科省ではその実態に目をつぶり、教職員の資質能力の向上だと

か指導力を高めるため、教職員の研修を充実させるとのことで、夏期講習

や冬期研修をしております。しかし、効果はあまり期待できません。

先ず、この点を改善しなければ学力の向上を図ることが極めて困難である

と思います。

次の問題点は、中学校の免許外指導です。免許を持っていないのに指導

しているのです。自動車で言えば無免許運転にあたるわけですが、学校教

育の場合、認められているとはどういうことなのでしょうか。

例えば、各学年が1クラスで全校3クラスの場合は、校長・教頭を含めて

9人の教員が配置されます。校長・教頭が授業をしないのが一般的です

ので、残る7人で国語、社会、数学、理科、英語、音楽、美術、保健体育、

技術家庭の9教科を担当することになるのです。従って、二人の教員が

2教科を持たなければ教科指導ができなくなるのです。即ち、持ち時間の

少ない音楽、美術、保健体育、技術家庭の免許所有者が国語、数学、

社会、理科等の教科を指導することになるのです。なぜなら教師一人当

たりの指導時間を平均化することに留意するからです。要は免許を持って

ない教科を指導しているのです。これは、教員定数が法律で定められて

いますので、現段階ではどうすることもできないわけです !(・oノ)ノ

私は現職時代に、教員定数の改善やそれに替わる措置として、音楽、美術、

保健体育、技術家庭の免許所有者は、隣接中学校へにも指導に行くという

システムをとれば、専門性が生かされるばかりでなく、生徒の学力向上を

図ることができると訴えてきましたが、文科省を動かすまでには至りません。

教育予算の不足が問題解決を遅らせているのでしょうsign02

保護者の皆さん、どうぞこの問題について考えてみては如何ですか。

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2008年12月26日 (金)

学力テスト 不正の数々

1950年代から60年代にかけて実施されてきた「全国学力テスト」につい

て、いろいろな弊害が指摘されはじめ、ラジオで関係者の証言が取り上

げられるようになりました。

その当時、香川県と愛媛県が学力のトップ争いをしていたのですが、この

地域の実態が、子ども達や保護者の告白で浮き彫りになってきたのです。

① 担任の先生が、普段、勉強のできない子どもに「明日、休んでいいよ」

 とテスト当日欠席するよう促した。

② 鉛筆は4Bか5Bを使い、書くときには背筋を真っすぐにして大きく書

 きなさいとカンニングし易いようにした。

③ テストの1週間前に座席がえを行い、勉強のできる人の隣にできの悪い

 子どもを座らせた。

④ テスト中に先生が傍に来て、正しい答えの番号を指で示してくれた。

⑤ 計算の間違っているところを指でさし、バツと合図してくれた。

⑥ 先生が傍に来て、分からない漢字を指で書いてくれた。

⑦ テスト終了のベルが鳴ったのに時間を少し延ばしてくれた。

⑧ テストの1月前から宿題や朝自習でテスト形式の練習問題を課すよう

 になった。

などなどの問題が指摘されたのです。その声は香川や愛媛県ばかりでな

く他の県からも同様上がってきたのです。

また、教員側からも

① 子どもが提出した答案を一部訂正した。

② 校長の指示で点数の上乗せをさせられた。

③ 点数の悪い子の答案を破棄し、欠席したように出席簿を書き直した。

などと告白内容が明らかになってきたのです。

その声に耐えられなくなった文部省は、1966(昭和41年)、遂に「学テ」を

廃止したわけです。

[注釈] 昭和41年、学力テストの最後の年です。私は5年生を担任して

いた時ですが、国語の「聞き取り調査」の抽出にあたったのです。

相変わらず反対闘争は続いていました。私の勤務する学校でも多数の組合

員が反対を表明しましましたが、私は実施する方が得策であると訴えました。

「この学力テストは今年度限りで廃止されることになっている。もし、皆の

反対行動によりテストが実施できなくなった場合、当然、厳しい行政処分

が予想されます。そのような事態になった場合、皆さんが私の被る不利益

を一生保障してくれるのですか。・・・・・・・ Σ(゚д゚lll)アブナッ !」

「私は既に学テ闘争で訓告処分を受けている。今回、テストをボイコットし

たら、当然、行政処分がくるであろう。累犯加重(犯罪を重ねて行うと処罰

も更に重くなる)で今度は戒告処分になるはずである。そうなると、昇給が

3ケ月延伸し私が生涯被る損失は計り知れないものがある。どうですか、

あなた達はまだ処分を受けていないからいいでしょうが・・・・・・・・・・。」

と声を荒げangry 開き直って訴えました。お陰で学校班(現在の分会)として

は、阻止行動をとらないことになったのです。

なお、1965(昭和40)年に日本がILO(国際労働機関)の勧告に応じて

条約を批准したため、校長は管理職との位置づけとなり非組合員になっ

ていたものですから、校長から学テへの協力要請が強くあったわけです。

さて、テスト実施日です。早朝から地区労働組合協議会(地区労)に加盟

している国鉄、郵政、電通、役場など公務員共闘の各単産の組合員が、

校門前でピケを張っているのです。担任している子のお父さんが地区労の

議長で先頭です。

その他、クラスの子の親が数名いました。私は平静を装って大きな声で

「お早うございます!ご苦労さんsign02

と言うと、通り道をさっと開けてくれました。中には、私に笑顔で目配せを

してくれる親もいました。

なかなか良識ある行動であったことを思い出すわけです。

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2008年12月25日 (木)

学力テスト 今昔②

「校長!学力テストに協力するのかsign02 我々が反対していることを知って

いるだろうangry

「校長の一存で、返上してもらうわけにはいきませんか?」

「学テ反対! 学テ反対!」・・・・・・・・・・・・・。

などなど、組合員である校長に対して、一定の阻止行動をとったのです。

組合員と校長のやり取りが数分間続き、(゚⊿゚)イラネ 時間を遅らせることで

実質的にテストを骨抜きにする戦術なのです。しかし、校長に対して、

身体に触るなどの物質的な抵抗はしないことにしていたのです。なぜなら、

校長に対する公務執行妨害に当たるからです。

結果的にテストは行われたものの、時間が10分程度遅れて実施したため、

骨抜きにする戦術は成功を収めたわけです。要は、校長も組合員であるた

め、ナレアイ闘争の域を脱していなかったのです。

さて、ボイコットに参加した教員に対して、行政側として処分をしなければ

ならないわけです。数日して校長から「反省書」を提出すると一番軽い処分

に止まるとの話があり、その書き方まで教えてもらいました。

やがて、教育委員会から呼び出しをうけ、学力テストの阻止行動に携わっ

た組合員全員が、文書による「訓告」処分となったのです。この処分が、

私の教員生活で最初に受けた行政処分なのです。

その後、「戒告」処分を3回も受けるとは思ってもいませんでした。

[注釈] 昭和31年から10年間、文部省の指示によって全国の中学2・3

年生を対象に実施された全国中学校一斉学力調査(学テ)において、旭川

市立永山中学校の教師が実力阻止に及んだことにより、公務執行妨害罪

などで起訴されました。

一審の旭川地裁と二審の札幌高裁は建造物侵入罪については有罪としま

したが、公務執行妨害罪については、「学力調査は違憲である」として無罪

とし、共同暴行罪の成立のみを認めました。しかし、双方の上告の結果、

最高裁は、1976(昭和51)年に

・教育権の帰属問題は「国家の教育権」と「国民の教育権」のいずれの主

 張も全面的に採用できない。

・児童は学習をする固有の権利を有する

・教師に教育の自由は一定の範囲において存在するが、合理的範囲に

 おいて制限される。

と判示し、学テは合憲であると結論付けたわけです。

この間、学テ問題は高裁の判例を盾に反対されてきましたが、今は最高裁

の判例がありますので、反対闘争を組まなくなってきました。

なお、行政が行う教員の懲戒処分の種類についてふれておきます。

免職(失職する)、降任(校長から教頭へ、教頭から教諭へ、)、停職

(北海道は最高6ケ月)、減給、戒告、訓告(口頭と文書の二種類)の

6種類です。訓告は注意のみにとどまり実損を伴うこともなく、履歴書

に記載する必要もないのです。しかし、戒告以上は履歴書に記載しなけ

ればなりませんいし、昇給延伸(戒告は3ケ月、停職以上は6ケ月)される

ばかりでなく、勤勉手当がカットされることになっているのです。

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2008年12月24日 (水)

学力テスト 今昔①

今日、二学期の終業式を迎える学校が多いと思いますが、親子ともども

関心事は、やはり成績が上がったかどうかであろうと思います。どの親も

我が子の学力の程度はどうなのか大変心配なわけです。

過日、テレビで大阪府の橋下知事が文科省が実施した全国学力・学習状

況調査(全国学力テスト)の結果の公表についてコメントしておりました。

そのニュースを聞いて、私は48年前の学力テストを思い出したのです。

実は、1960(昭和35)年のことです。隣のある村立小中学校が文部省

の全国学力テストの実施抽出されたわけです。

しかし、日本教職員組合(日教組)が「能力主義による差別・選別を

教育現場に持ち込むものだ」などと批判し、ボイコットなどの反対闘争

繰り広げました。

新採用教員2年目の私は、全校5学級という小さな複式学校を代表して

ボイコットに参加したのです。ボイコットに参加する北海道教職員組合

北教組)の組合員が、数日前から、テスト実施日の行動についてのタイム

テーブルの作成と、当日の具体的な阻止行動について確認し合いました。

さて、いよいよテスト当日です。私は自転車に乗り約4キロの道のりを

急ぎました。テスト開始20分前。控室で阻止行動の再確認をし、その後

テスト実施学年の廊下でテスターが来るのを待ち構えていました。

チャンムの合図で校長(ILO条約批准前なので校長も組合員)がテスト

用紙を小脇に抱えてやって来ました。

果たして、テストは正常に行われたのでしょうか??・・・・・・・・・・・・?

                                      (つづく)

[注釈] 国による全国学力テストは1956(昭和31)年から実施されまし

た。最初は抽出調査でありましたが、1961(昭和36)年から中学2,3

年生全員を対象として(悉皆調査ーシッカイチョウサ)実施されるようにな

ったのです。しかし、この時の調査結果は、「北海道・東北」「関東」といった

ブロックごとの平均点のみの公表だったように認識しております。

なお、この当時は、「警職法反対」「勤務評定反対」「日米安全保障条約

(安保)反対」「学力テスト(学テ)反対」など、とに角、反対闘争で明け暮れ

たような気がします。

よき組合員は よき教師』を信条に闘う教師の姿勢が、組合員から

高い評価を受ける時代でもあったのです。

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2008年12月23日 (火)

漁師町の 七夕祭

北海道の七夕祭は、本州より一月遅れの8月7日に行われます。

私が小学5年生まで住んでいた小樽の長橋町では、提灯(チョウチン)片手

に近所の家にロウソクを貰いに行く程度の祭でした。終戦後まもなくは、

缶詰の空き缶の側面に釘で穴をあけ、手製のカンテラを作って提灯代わ

りにしている人もいましたし、ガマの穂に油をひたして松明(タイマツ)にする

人がいました。

ところが、漁師町の祝津町では2週間前から七夕祭の準備に取り掛かる

のです。社会人の人や中学生のお兄さん達が手ほどきをしてくれたり、

いろいろ指示して山車(ダシ)作りに精を出すのです。また、行灯(アンドン)

も数個作らなければならないので、大変な作業なのです。

山車は垂木(タルキ)で骨組みを作り、側面に白い紙を貼り、そこに絵を描く

のです。山車の大きさは大人2人と太鼓1個が入る程であり、子どもなら

2、3人が寝ることができる広さがあり、高さも約3m位だったと思います。

出来上がった山車はトロッコの車輪をつけた台車に乗せ、子ども達が

ロープで引くのです。

行灯は、手に持てるぐらいの大きさですので、大人が見本を示してくれたの

で簡単に作成することができたのですが、どのような絵を描いたらよいか、

なかなか決めかねたことを思い出します。

さて、七夕祭りの当日になりました。まだ日が沈んでいないのに山車が出発

します。ロープを大勢の子ども達で引き、先頭には行灯を持った男の子ども

達が各家の前で叫ぶのです。

今年や豊漁?七夕祭り、ローソク出せ出せよ、出さなきゃカッチャク

ぞ おまけに クイツクぞsign01

どの家でも、ローソク代ということでお金をくれます。確か50円から100円

程度だったと思います。今の貨幣価値から見ると随分少ないようですが、

当時のお金では結構多い方でした。

祝津町では大きな山車は2、3個だったと思いますが、私達の『沢子ども会』

の山車は、小樽市内でも出来栄えの良い山車の部類に属していたのです。

隣町の漁師町である高島からも、豪華な山車が繰り出されたわけでが、

時には、山車どおしでつぶし合いになることがあります。したがって、頑強な

大人が山車の責任者になり、もめ事を解決するのです。

私は、生まれて初めて七夕祭りの雰囲気に酔い、祝津町から寿司屋横丁の

ある繁華街まで山車を引っ張ったり、行灯を掲げてはやし詞(ことば)を叫び

ながら歩きました。

約12kmの道のりでしたので、帰路はさすがに疲れて山車の中で寝てしま

いました。家に着くと父母が心配しながら起きていました。実は午前1時だ

ったのです。家を出てから約6時間も歩き続けたことになるのです。

翌朝は声も出ません。足も凄くいたかったので泳ぎに行くことを止めてしま

ったのです。とに角、祝津の七夕祭りには強烈な印象があるのです。

[注釈] 小樽でも漁師町の七夕祭りは、今の青森の「ねぶた祭り」に

非常に似ています。ニシン漁の出稼ぎにきた「やん衆」が津軽(青森)地方

の出身者が多かったことから、山車を中心とした派手なお祭りになったの

ではないかと思うのです。

ところで、山車どおしの喧嘩になった時、顔ききの者がいれば相手が引き

下がるわけですので、私達の山車には北小樽では名の通った「北海の松」

と言われていた人が責任者でした。「北海の松」とは、今風に言えばヤクザ

の親分級なのです。

なぜ、私達の山車にヤクザが参画するかは定かでありませんが、山車一山

の稼ぎは、当時の金で5、6千円とのことであり、私達子どもが貰ったお駄

賃は、1本10円のアイスキャンデーが3本。残金は誰が何に使ったかは全

く分かりませんでした。

何れにしても、午前1時まで参加していた私は、父に厳しく叱られ、翌年の

七夕祭りから祝津町から遠くへ行くことを禁止されたわけです。

今はそのような派手な七夕祭りも消え失せたとのことですので、一抹の寂し

さを覚えるのです。

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2008年12月22日 (月)

ハムレットとの出会い

クラス全員で新聞配達をして学校図書を充実させよと頑張っていた6年生

に、新刊図書が数冊入荷しました。その図書を貸し出すことになったので

すが、希望者が殺到し、くじ引きで決めることになりました。

残念ながら、私は外れてしまいました。

数日して図書を借りれた友達に本の感想を聞くと、とても面白いとのこと。

私は何時借りれるのかが気になっていました。

↓<登下校は青山家の前を通るのです。>

Photo_6

数日して私の家の近くにある水産会社を営んでいる家の女友達が、本を貸し

てあげるということで、持って来てくれたのです。

Photo_4

シェイクスピア作の『ハムレット』です。亡き父王の亡霊、復讐のために狂人

をよそおう。愛人オフィーリアの嘆きと投身自殺・・・・・・・・・・・・。

私が初めて出合った小説なのです。文字に親しんでいなかった私。元来、

言語関係に疎(ウト)い私は、この『ハムレット』を読むのに約1週間もかかり

ました。しかし、その感動は今でも忘れることがないのです。

還暦を記念して開かれたクラス会で、本を貸してくれた彼女にお礼を述べ

たのですが、彼女は「そんなことあった?」との返答でした。しかし、私には

忘れることのできない出来事だったのです。

ところで、私が夢中で『ハムレット』を読んでいる姿を見た父は、それから

数か月後に『小学六年生』という雑誌を買ってきてくれました。その扉に

オオカミをにらむ少年」というタイトルで、ミケランジェロ作の彫刻が載っ

ていたのです。まさかこの彫刻が、かの有名な『ダヴィデ(David)像』とは

全く知らなかったのですが、平成19年にフィレンツェに行ってはじめて知

ったのです。

学習雑誌で見てから、実に57年振りに本物に出会えたわけです。

[注釈] 読書離れが指摘されておりますが、良い本との出合いがないため

ではないでしょうか。私は『ハムレット』との出会いから、小説の素晴らしさを

知り、中学、高校時代に何冊かの小説を読みました。少年期、青年期それ

ぞれ思い出の小説があります。

教員になってからボーナスで『世界文学全集』を買い読破したばかりでなく、

むさぼるように??本を読みました。その導火線はやはり『ハムレット』なの

です。良い本は自分の宝物です。今の子ども達に宝物を探させてやりたい

と願っています。

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2008年12月21日 (日)

米を持って? 修学旅行

生まれて初めての修学旅行です。兄や姉が一度も行ったことのない修学

旅行へ私が初めて参加することができたのです。理由は分かりません。

おそらく、小学3年頃から親父の晩酌用の酒や焼酎を毎日買いに行った

お駄賃だったのでしょう??

行先は洞爺湖と登別温泉です。二泊三日の日程ですが、一泊目は

車中泊なのです。小樽駅発19:30の函館本線でスタートしました。

その後、どのような経路で洞爺湖に着いたかは分かりませんが、早朝から

バスに揺られて洞爺湖に着き、昭和新山で記念写真を撮ったことを覚えて

います。

Photo

↑<昭和新山を背景にしたもので修学旅行中のただ1枚の写真です>

バス→汽車→バス という具合でやっとのこと登別温泉に到着です。地獄谷

の熱湯を吹き上げる凄(スサ)まじい音と、鼻をつく強烈な硫黄の匂いに驚い

たわけです。

楽しみにしていた宿泊場所は『第一瀧本』です。

木造の古い部屋に案内され、それぞれが持参した米(2合?)を女中さん

が用意した袋に入れるのです。

その後、男女混浴の大浴場に真っ裸で入り、湯船で泳いだり、逆立ちを

して興じたました。

お土産はきび団子を6本です。なぜなら11人家族ですから、2人で1本、

自分は皆の2倍の1本の計算だったのです。

なお、経済的理由で修学旅行に参加できなかった友達は3人おりました。

でも、お金がなかったら行けないのはあたり前であり、特別、卑屈になる

人もいなかったし、バカにする友達もいなかったような気がします。

今は格差社会と騒がれていますが、当時も格差が歴然としてありました。

しかし、働ければ食っていける社会であり、働き場所もいくらでもあったわ

けです。生活程度が低くても、努力次第で夢に近づけるという期待感の持

てる社会であったような気がします。

[注釈] 小中学校の修学旅行は、各市町村教育委員会が定めた「修学

行の実施基準」に則り実施されるわけです。小学校は1泊2日、中学校

は3泊4日以内となっているのが一般的です。就学援助を受けている児童・

生徒は各市町村の財源で賄われます。

道内の各小学校はバス利用による修学旅行であり、学校→目的地→学校

という具合に大変便利で効率くよく見学することができるように計画されて

います。

なお、温泉に入る際にパンツやトランクスを脱ぐのを嫌がる児童が増え、

教師が率先して脱いで見せ、児童に「早く脱ぎなさい」と強く促すようになっ

てきました。それは銭湯に行った経験のない子であり、家庭で風呂が整備

されてきたためです。最近では、水着を着て入浴することを認めているホテ

ルもあります。男女混浴はなくなりました。

だって、身体検査の胸囲測定で女子に胸を出させたら、直ぐクレームのつく

世の中になったのですから・・・・・・・・・・・・・。

そうそう、なぜ米を持って修学旅行に行くのかを説明してませんでしたよね。

米はまだ統制されており、旅館やホテルなどは特別配給があったようです。

しかし、希望通りの量を手に入れることができなかったため、宿泊者から

米の提供を求めていたのです。私が小学校教員になり、初めて引率して

いった修学旅行(昭和37年)も米持参だったのです。

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2008年12月20日 (土)

朝鮮動乱 勃発? どうしよう!

朝刊を見ていた父が、

「大変だsign03朝鮮動乱が始まったsign01Σ(゚д゚lll)アブナッ ! 」と言うのです。

小樽から船で真っすぐ進むとウラジオストック(ロシア連邦)で、その直ぐ南

側に朝鮮があることを知っていた私は、対岸の火事(自分には直接の利害

がなく関心のうすいこと)として黙ってみているわけにはいかないと思ったの

です。

やっと、第二次世界大戦が終わり、世の中が落ち着きを取り戻し、食料難

も解消されつつあるのに、また、日本も朝鮮動乱に巻き込まれ、自分も兵

隊として戦地に赴くハメになるのではないかと、とっさに思ったのです。

なぜなら、二番目の兄が小学校卒業と同時に新潟の陸軍少年飛行兵学

校へ行き、終戦があと数ケ月遅れていたなら戦場の露となって消えてい

ただろうし、一番上の兄も大学在学中に群馬県の飛行場へ勤労奉仕に

駆り出され、爆撃を受けて九死に一生を得たわけです。ですから、この

朝鮮動乱が長引き、日本も戦わなければならなくなったら、来年から中学

生になる私達も兵役につくようになりはしないかと心配したのです。

新聞には毎日のように朝鮮動乱の戦況が報道され、北朝鮮(今の朝鮮

民主主義人民共和国)が物凄い勢いで、南朝鮮(今の大韓民国)の釜山

周辺まで侵攻したとか、中国が北朝鮮に肩入れしているなどとの報道が

あり、気が気でなかったのです。

しかし、担任の先生が、「我が国には新しい憲法があり、他国と戦争を

ることを禁じているので、皆が戦争に行く心配はない」と教えてくれた

ので安心したことやhappy01、休戦協定が結ばれた板門店(ハンモンテン)を

イタモンテンと呼んで、父に読み間違いを指摘されたことを思い出します。

[注釈] 朝鮮動乱、後に朝鮮戦争と呼ばれましたが、1950(昭和25)年

6月25日に、北朝鮮軍が南朝鮮に侵攻。国連安全保障理事会が北の

侵略と宣告し米国参戦。6月27日にソウルが陥落し、釜山を臨時首都と

するなど、戦局が混沌としておりました。

この動乱は、1953(昭和28)年7月27日の休戦協定署名まで続きまし

た。マッカーサー元帥が中国参戦に対して原子爆弾を投下する考えを示し

たことにより、当時のトルーマン、アメリカ大統領はソ連を刺激することを

恐れて、マッカーサー元帥を解任したという話を聞いた記憶があります。

この朝鮮動乱のきっかけを北朝鮮が侵攻してきたという新聞報道に対して

南朝鮮が先に挑発したのが原因であるということを中学の社会科の先生が

説明し、資本主義の国々を有利にするための一方的な情報であるので、

惑わされないように気をつけなければならないと説明した教師のあり方に

疑問を抱き、抗議した私でした。

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2008年12月19日 (金)

浜のルール パート2

もぐり方を覚えた私は、友達にホッキ貝の獲りかたを教わりました。

水深2メートルぐらいの砂浜に、割箸の太さぐらいの小さな穴が二つ、陽光

を浴びてやや金色に光って見えるのです。穴の間隔は1センチ程度で、

穴が大きいほど貝も大きいのです。

↓<ホッキ貝の獲れた浜>

Photo_2

ところが、穴を見つけて潜っていくと、海底から4、50センチぐらいの所で穴

が見えなくなるのです。穴のあった所を見当つけて10センチほど掘っていく

と貝に出くわします。しかし、穴の真下を掘ると、貝に挟まれて指を切る

ことがあるのです。ですから、穴の位置から数センチ横を掘ると切られる

心配はありません。

獲った貝は立ち泳ぎをしながらフンドシに入れ、また、潜りはじめるのです。

午前1回、午後2回潜って約3、40個獲りますが、

   大きさが三寸(約9センチ)以下の貝は海に戻してやる

というルールなのです

小さな貝は大きくなるまで獲ってはいけないことになっているのです。

漁師の子ども達は、親から教えられていますので、このルールは絶対に

守ります。

ニシンやスケソウタラ、ウニやアワビなどの魚介類が沢山獲れた時代の

ルールですが、それにしても羨(ウラヤ)ましい時代でありました。

[注釈] この時代はまだ冷蔵庫がありません。獲ったホッキ貝はお汁に

入れたり、カレーライスの具にしたりしました。刺身にするということを知ら

ないため、食べきれない貝は土に埋めて肥料にするわけです。

本当に贅沢ですよね。

なお、浜の子ども達は焚き火で焼いて食べました。1人3個も食べれば結構

腹が一杯になりました。従って、昼食のため帰宅しますが、ご飯を1膳食べて

から昼寝をし、また、潜りに行くという毎日が多かったわけです。

このような夏休みの過ごし方でしたから、身体は黒びかりで皮が2回むけ

る友達もいました。いずれにしても、学習塾もなくお稽古事のない時代

でしたので、子ども達は実に伸び伸びと過ごし、「いじめ」という言葉を聞い

たこともなかったです。

その点、今の子ども達は可哀想です。子どもらしさが失せるのも当たり前

ではないでしょうか。

 子ども同士が、群れをなし外で元気に遊ぶ姿を取り戻したい

と思う昨今です。

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2008年12月18日 (木)

浜のルール パート1

私は25日間の夏休み中、雨の日以外は毎日泳ぎに行きました。

浜では、イカをスルメにするため、すだれのようにびっしり干してあるのです。

それを子ども達が勝手に取ってきて、焼いて食べるのですが、その様子を

見ている漁師の人達は、一度も咎(トガ)めません。盗みなのに特別怒りも

しないのです。私は不思議だなあ (・_・)エッ....? と思っていました。

ところがある日、友達の親戚の子が遊びにきて、生干しのイカを数枚とり

食べ残しを砂浜に捨てたのです。すると、どうでしょう。これまで怒ったこと

のない漁師の1人が、物凄い剣幕で怒るではないですかangry

「こら、お前 (# ゚Д゚) ムッカー 食べ物を捨てるとは何事かsign01 オラが命を

かけて獲ってきたイカを粗末にするヤツがあるかsign02 自分の食える

だけ取って食え (・A・)イクナイ」・・・・・・・・・・・・・。

のんびりとした浜の風土と、あまり細かなことに口を出さない肝っ玉の太い

漁師でも、一線を越えたなら厳しく指導するわけです。この姿に驚いた私

でした。

[注釈] 教育力を大別すると ①学校の教育力 ②家庭の教育力 

③地域の教育力 になります。漁師町の大人たちは要所、適所で適時に

子ども達を指導していたのです。七夕祭りの行事や磯での遊び、磯舟と横

波の関係、浜の清掃、大波を泳ぎきる方法、潮の流れと底波、飛び込み方

(棒とび、水の底に沈まない飛び方、ジャックナイフなど)も高校生や社会

人(当時中学校を卒業してすぐ社会人になるのが一般的でした)などの異年

齢集団から学んだのです。

昨今は少子化で異年齢集団が群れをなして遊ぶ、いわゆる「群れ遊び」の

姿を見ることがありません。したがって、子ども達の体験不足が指摘されて

いるのです。

また、目に余る子どもの行動に対して、厳しく咎めたり、注意を促す大人が

少なくなってきました。少なくても居住している町内会で子どもとのふれ合い

活動を通して、いろいろ指導することも必要ではないでしようか。

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2008年12月17日 (水)

海をあなどるな! 校長の話

昭和25年7月Ⅹ日。1学期の始業式。小笠原校長が大きな声で、

「祝津小の子は海の子です。

海を恐れてはいけませんsign01しかし海を侮(アナド)ってもいけませんsign03

とすごく短い言葉での訓話(教訓になる話)。

侮るという言葉の意味が分からないので父に聞くと、「ばかにするな」という

ことでした。海をばかにするな?海を侮るな?ということは具体的にどのよ

うなことなのか、よく分からないまま夏休みを過ごしていましたが、やがて

はっきりしてきました。

・岩場で滑り大怪我をする  ・潮に流され救助隊が出動する

・酒を飲んで泳ぎ心臓麻痺を起こし死亡  ・荒波に飲まれ溺れる

・荒波で岩に叩きつけられ全身強打で大量出血

・沖に向かって泳ぎ、岸に戻ろうとしたが力尽きる

・食後直ぐに泳ぎ体調を壊す 

・岩場でウニやアワビ捕りをし、急いで上がろうとして突き出た岩に頭を

 強打し大怪我するなどなど・・・・・・・・・・。

Photo

↑ <この写真は現在、水族館施設の一部となり、トドやペンギン、

オットセイを飼っており、特にトドの豪快なジュンピンクのショーが観られる

場所です。私達が泳いだ頃は、自然のままの岩場であり、ウニ、アワビ、

ナマコ、モズク、コンブなどの宝庫でした>

1シーズンにどざえもん(水死体)が2、3体あがるのが普通とのこと。

海水浴場で有名な蘭島(ランシマ)海岸(余市町)では、毎年7、8人水死

していましたが、ほとんどの人は海の無い地方に住んでいる人だったの

です。

70歳になった私は、僅か4年間という短い期間しか住まなかった祝津の

海でしたが、実に多くのことを体験的に学んだことを、今静かに思い出し

ているのです。

[注釈] この入江はミナヒトマルと呼ばれており、私の所属する「沢子ども

会」が安全管理の仕事の一部を任せられていたのです。海開きの前に

海岸の清掃をしたり、ガラスビンの破片が無いかどうかの点検。焚き火を

した後の火の始末がきちんとされているか、勝手に磯舟に入っていないか

などを点検し、マナーの悪い人には注意を促すのです。

もし、注意に逆らった人がいれば、駐在のおまわりさんに通報する

システムがとられていたのです。

海開きの2、3日前に新聞記者が来られ、注文に応じて泳いだり、飛び

込んだりして撮影に協力したこともありました。

子ども達が責任を持って「浜を守る」という行動を通して、自然保護や

自然愛護の精神が培われてきたような気がします。

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2008年12月16日 (火)

死ぬ目にあった 海浜学校

「青い 青い 海を真下の学校に・・・・・・・。」notenoteで始まる校歌。水族館や

灯台のある漁師町の学校。この祝津小学校では海浜学校というのがあっ

たわけです。期間は夏休み前の一週間です。

子ども達を三班に分けます。50メートル以上泳げる人。10メートル程度し

か泳げない人。それから、全然泳げない人の3グループです。

私は、長橋中学校のプールの水を取り替える時に、背の立つ深さで練習して

1,2回息をしてやっと10メートル程度しか泳げないのに、格好つけて、

泳げる方に手を挙げてしまったのです。

正しい息の仕方、平泳ぎの足の正しい蹴り方、クロールや背泳ぎ、

立ち泳ぎ、水面に仰向けに浮ぶ方法、飛び込みの方法などなどを

教わるわけです

ところが、海浜学校の最後の日に遠泳があるのです。

Photo ←<遠泳の行われた

場所>

船着場から、向かい側

の防波堤で、水深が

4,5メートルあるのです。

これまで、こんな深い所

で泳いだ経験がありま

せん。しかも、ここを往復するわけです。

グループの友達が、次から次へと飛び込んで行きます。尻込みしてい

るのは僅か数人です。私と女子3人が躊躇(チュウチョ)しています。

私は女子に負けてなるものかと思い、飛び込みました。平泳ぎです。

やっとのことで、防波堤まで泳ぐことができました。

さあ、帰りが大変なわけです。

学校側では、溺れた子を助ける磯舟を用意してくれましたが、誰一人と

して乗っていません。数十分休んでまた、船着場に向かって泳ぎだしました。

途中で女の友達が救助されたのを目撃した私は、

「先生、助けてsign03」と声を出そうと思ったのですが、男が女に負けてなる

ものかとの母の教えがよみがえり、死に物狂いで泳ぎ切ったわけです。

でも、その時はこれでもう死んでしまうのかと思うくらいでした。水の恐ろし

さと泳ぎの大切さを痛いほど分かった海浜学校でした。

注釈] 毎年、祝津海岸で大人の人が3、4人溺死するのです。海につい

ての知識と泳ぎの技能が不足しているわけです。漁師は泳げなければ

生きていけません。海の子ども水難事故に遭遇する割合が多いのです。

従って、海浜学校でいろいろ教わることは、今風に言えば「生きる力」の

育成に直結するわけです。

昨今、総合学習が展開されておりますが、活動時間が1、2時間程度の

細切れでは計画化も大変ですし、実践効果もあまり期待できません。

やはり、地域ならではの教育活動を展開し、そこで学んだことを他教科や

道徳・特別活動に反映させることが大切ではないかと常日頃思っています。

Photo_2  

←<海浜学校の

1スナップ>

背を曲げて指導に勤しむ

父(指導員)の姿。

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2008年12月15日 (月)

井戸水 汚染

これも小学6年生の春のことです。

我が家の井戸水が急に臭くなったのです。父がよく調べてみると、公宅の

二軒隣にある長屋の共同トイレが公宅の井戸の直ぐ近くにあったのです。

そのトイレに春先の雪解け水が入り、漏れて出た汚水が地下に浸透し、

公宅の井戸が汚染されたわけですangry

結果的に、我が家の井戸は使用できなくなったので、近くの共同井戸から

水汲みをするハメになったのです。

初めは一つのバケツで汲んでいましたが、水がめに一杯汲むのに結構な

時間がかかります。お風呂ならその何倍も時間と労力を費やすのですcoldsweats02

長屋や近くの友達は天秤棒(テンビンボウ~両端に荷物をかけて運ぶ棒)

で上手に運ぶのです。その様子を見て、私も天秤棒を買ってもらいました。

ところが、天秤棒の両端にバケツを吊(ツ)るして歩こうとしても、身体が

前後左右に揺れて酔っ払いのような姿なのです。千鳥足で玄関先まで

来たときには、バケツの水が半分位に減っているのです。

それよりもバケツからこぼれた水が長靴のなかに入ってしまい、足が凄く

冷たいのです。

このような失敗から、2回目からはバケツに入れる水の量を半分にすると、

身体のふらつきが少し解消されましたが、その代わり時間が可なりかか

るのです。

5,6回運んでいる時、友達の1人が、

お前、棒立ちになって運んでいるべさー (ノ∀`) アチャー 足と腰をこの

ようにかがめて(曲げて)運ぶと上手くいくぞsign01」と助言してくれたわけです。

教えられた通りにやってみると、リズミカルに歩くことが出来るし、バケツの

水もこぼれないのです。

私は、漁師町の祝津へ来て、長橋小学校時代に味わったことのない数々の

体験をし、同じ小樽市内でも住む場所によって、こんなに生活様式が違う

のだといえことに気づきました。

振返ってみると、人間、

生きていくためには「足腰を丈夫にしなければならない」ということを、

体験的に学んだ水汲みでした

[注釈] 私は中学3年まで祝津町に住んでいましたが、その間、水道は

まだ敷かれていませんでした。昭和30年前後にニコヨン(日雇い労働者~

1日240円の報酬からそのように呼ばれていた)が水道を通すための穴堀

をしていたのを思い出します。社会基盤整備が随分遅れていたのです。

勿論、道路も未舗装です。

今は、ひねるとジャーと水道水が出る社会ですが、海外旅行をすると水の

有り難さがよく分かります。飲料水をスーパーで買う時に、私は小学6年の

時の水汲みを思い出すのです。

また、教員時代には、子ども達が水道の蛇口を一杯に開けて使っている

様子を見て、学校の水道を使う時には、

鉛筆の太さぐらいに水を出しなさい」と指導してきました。

水資源の大切さを自分の体験談を交えて話してきたのです。

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2008年12月14日 (日)

小6の新聞配達 義務化??

6年生になった私は、今日から新聞配達をしなければならないのです。

学校では4つの子ども会を編成し、「沢子・浜中・中央・谷地」子ども会と呼んでいました。私は一番人数の少ない「沢子ども会」に所属。

朝、7時?に販売店へ行き、配達する約20軒分を揃えて小脇に抱えスタートします。順調にいけば30分足らずで終わるのですが、犬がほえ噛み付きそうな家の前で時間を費やしてしまいます。

家の人が出て来てくれる時や犬小屋で寝ている時は助かるのですが、直ぐ傍まで近づいて来ると恐ろしくて前へ進むことができません。

配達が終ってから、朝食をとり、急いで登校するのですが、その日によって遅刻することあります。しかし、新聞配達の当番の時は許されます。

私達の当番は5日毎なのですが、雨、風、吹雪の日などは大変です。それを1年間継続しなければならないなんて、多少不満angryを持っていましたが、友達の誰一人として文句を言人はいないのです。

漁師の家は一家総出で仕事をするのが当たり前でしたので、1週間に約1回程度の新聞配達は、特別苦にならなかったようです。

ところで、どうして学校では、子ども達に新聞配達をさせたと思いますか。不思議ですよね ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

[注釈] 小樽市立祝津小学校は昭和23,24年頃まで図書室が有りませんでした。それでつくることにしたのですが、市からの教育予算では無理だったのでしょう。

結局、職員やPTAが知恵を絞った結果、子ども達に新聞配達をさせ、その収益で図書揃えようということになったのだそうです。

従って、6年生全員が当番を決め配達するようになったのですが、初年度の配達料は国語辞典や図鑑類の購入に当てられました。

昭和25年度から読み物を数冊ずつ購入していったのですが、学年の発達段階に応じて買うものですから、私達6年生の場合は、年間に10冊程度であったように記憶しています。

現在は、文部科学省で平成5年度に「学校図書館図書標準」を設定し整備目標を示しましたが、標準に達している割合は小学校で約40%、中学校で約34%(平成18年3月末現在)でまだまだ不十分です。

国の財源措置が不十分であることと、各地方自治体の財政状況が極めて悪い状況ですので、図書購入に当てる教育予算が減額されている結果なのです。

参考までに各学級数と蔵書冊数はこのようになっているのです。

3~6学級の場合は 3,000+520×(学級数-2)

7~12学級は    5,080+480×(学級数-6)

13~18学級は   7,960+400×(学級数-12)

しかし、残念なことに図書を充実させても児童・生徒の読書離れが著しいため、朝の読時間を設定している学校が増えつつあります。私の小学校時代とは余りにもかけ離れた状況です。 

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2008年12月13日 (土)

手がカジカム 岩のり採り

2月から3月にかけて祝津では岩のり採りが行われます。勿論

子ども達の仕事です。

Photo 場所は昔、造船所の

あった所(写真の白い

建物)の左横の岩場

です。

写真のようなベタ凪

(波がない状態)の日

に採取します。氷の中に手を入れたような冷たさなので、直ぐ

かじかむ(寒さで手が動かなくなる)のです。

岩に張り付いているのりを素手で少しずはぎとります。冷たさと

持続力の根気くらべです。10人家族(長女が嫁いでいた)の

1回分の味噌汁にする分量を採るとなると並大抵ではありま

せん。

採集した岩のりは、夕飯のお味噌汁に入れると、黒い色から

数秒で緑色に変るのです。香りよく歯ごたえも抜群です。

やはり採り立てはいいなーーと思いながら一家団欒(ダンラン)

の楽しいひと時なのです。

[注釈] 海産資源の豊富な時代です。磯に打ち寄せられた

ニシンの大群を八番線という太い針金にヒモを付け、海にめが

けて放り投げると、捕獲することができた時もありました。

ニシン漁が終わるとスケソウタラの時期です。浜では「ミンタイ」

「メンタイ」などとも呼んでいましたが、寒の潮風で乾すのです。

とに角、何でもよく獲れた時代ですから、岩のりを採っても誰も

咎(トガ)めることがなかったのです。今では、一般人がそのよ

うな行為をしたら密漁ということで検挙されるわけです。

家内がスーパからモズク(糸状の海藻)や岩のりを買ってくるこ

とがありますが、新鮮さに欠けるためか、保存料や調味料の

せいか分かりませんが、食感や味がまるで違うので私はあまり

口にしません。

本物の味や食感を知らなければ、食の安全・安心をチエック

することができないような気がします。

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2008年12月12日 (金)

うさぎ美味し? かの山

スキー授業シーズンが終ると、宮沢賢治の『雪渡り』の世界。

「堅雪(カタユキ)かんこ、凍(シ)み雪しんこ」・・・・・・・・・・・・。

いつもは歩けないキビの畑の中でも、すすきで一杯だった野原

の上でも、すきな方へどこ迄も行けるのです。・・・・・・・・・・・・。

登校すると、「今朝、獲れたか」と男子数人が話しているのです。

魚釣りでもしたのかと思っていたら、実は兎を捕ったかと言う

話題。昨日の朝かけてきたトラバサミ(鳥獣の捕獲道具)など

に兎がかかっていたとか、いなかったとかの話なのです。

そんな経験のない私に、友達が絵に描いて説明してくれました。

それから数日して、父が兎をぶら下げて帰宅したのです。6年

生の児童が捕獲したとのこと。それを貰ったわけです。父は

「今日は肉鍋だぞsign01」と言って、早速、さばき(処理)始めました。

そして、最後に

「よーし終わった。アポチャンこれ裏に捨ててきてsign03

と言うのです。兎の足、耳、どこかの骨なのです。恐る恐る持っ

て捨ててきましたが、気味が悪くてどうしようにも・・・・・・・・・・。

いい匂いと共に夕飯の準備ができました。食卓につき皿に盛

られた肉料理は美味しそうですが、兎の耳や手足が瞼に浮ぶ

のです。もじもじしていると、どうして食べないのかと問い詰めら

れ、気持ちが悪いと言ったところ、

何を言っている。豚でも鶏でもみんなあのように、さばいて

いるんだよ。ありがたく思って食べなさい」と催促され、目を

つぶって肉の一片を口にしたところ、本当に美味しいのです。

軟らかいのです。

あの味は、約60年経つた今でも懐かしいのです。

[注釈] 昭和25年頃は、やっと自由にヤミ米や細切れ肉が

手に入る時代になりました。終戦から5年も経っているのです。

我が家では直ぐ上の兄と私の誕生日が同じなので、その時は

カレーライスを作ってくれるのです。

教員になってからも、下宿の小母さんに、誕生日だからカレー

ライスを作ってと要望するほど好きなのです。

屠蓄場(トチクジョウ~牛や豚、馬などの家畜を殺して解体し、

食肉に加工する施設の法律上の名称。昔はトサツバとも言っ

た)に運ばれて来た豚が嫌かって前足を突っ立って、拒絶する

姿を見たことがありますが、畜生といえども分かるのです。

その命をいただいているのが私達人間ですので、感謝して

食べなければいけないと思っております。また、そのような

教育も大切にしたいものです。

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2008年12月11日 (木)

授業中断 ハイ下校?

確か、2時間目か3時間目のことです。外からガーン、ガーンと

半鐘(昔、警報や合図に用いた小型の釣り鐘)の音が聞こえる

のです。子ども達は慌てて勉強道具をしまい始めました。

辻先生が、「はい、それでは授業はオシマイsign02 早く帰って

しっかり働けよsign01」とのこと。何が何だか分からなく戸惑っている

私に、友達が「船がきたから手伝いに行くんだよ」と教えてくれ

ました。クラスの三分の二以上が漁師の子でしたので、みんな

一斉に下校しました。

すると一人の友達が「お前も浜に出て手伝えsign01」というのです。

何をどう手伝っていいかわからないので困っていると、

「何ぼやぼやしている。ヤット アベ」と言う。意味不明です。

「ヤット!ヤット!」と急いでいる様子から、「ヤット」とは「早く」と

いう意味であることが分かったのです。「アベ」とは「行こう」なの

です。

前浜は何艘(ナンソウ)もの磯舟が波打ちぎわに着いているの

です。Photo_4

←<祝津の前浜>

「フネッコあげるから

ヤット手伝え」と催促

され、ついて行くと

「この棒っこ押すん

だ」と言われ、

数人でゆっくりゆっくり押しました。すると、磯舟が少しずつ

岸に上がってくるのです。

Photo_5 ←<船を引き上げる

仕組みの一部>

今はパイプを組んで

一定の力で上がる

ようにセッテングされ

ています。

Photo_9

←<仕組み2>

今は動力でワイヤヘ

を引きます。

当時は、パイプの使

用ではなく、枕木の

ような木の上に、コロ(重い物を動かすために、下に敷く丸い棒)を

敷き、てこの原理を使って人力で上げたのです。

船が岸に上げられると、網からニシンを外したりモッコに入れ

て仕事場まで運ぶなどの仕事があるのです。

お手伝いが済んだので、帰ろうとしたら、友達のお母さんが

ニシン持って行けsign01」と言い、バケツに山盛りくれました

とに角、浜は活気に満ちていたのです。

[注釈] ニシン漁は昭和26年頃まで大漁でしたが、その後、

不漁続きになり次第に衰退していったのです。最盛期はネコの

手も借りたいぐらい忙しく、学校では「生業繁忙休暇」という

制度に基づき、授業せずに仕事の手伝いをすることができたの

です。農村部は「田植え」や「稲刈り」の時に、約1週間休みに

する学校が多かったのですが、学力向上の声が強くなったのを

きっかけに取りやめた学校がほとんどでした。

今は農家の子であっても、一切、野良仕事を手伝うこともなく、

どのような仕事をしているか知っている子もあまりいないのです。

機械化されたため、子どもが側に来ること事態、危険なのだそう

です。何も仕事がないのに、学力はさっぱり上がりません

変ですね??・・・・・・・可笑しなものですねhappy02 

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2008年12月10日 (水)

スキー授業の今昔

転校して間もなく、スキー授業がありました。講師は父??

父はスキーの指導員資格を持っていたのです。

場所は、学校の裏山にある下赤岩山(東赤岩山~標高278m)。

Photo_3 

←<今の祝津小>

隣にある上赤岩山

(西赤岩山)は

北海道の

ロッククライミング

の名所なのです。

この時代はどのスキー場にも、まだリフトがありません。

昼食後、約50分程度かけて登るわけです。斜めに登り、ターンしてまた反対方向へ斜めに登るのです。

スキーで踏みつけた跡が「くの字」に見えるのです。全身に汗が出てきます。

Photo_2 ←<ホテルのある場

所が下赤岩山の

山頂>

中腹ぐらい登った所

から滑降の仕方を学

ぶわけです。

今のようにプルークボーゲン、シュテムターン、パラレルターン、ウェーデルンなどと言う言葉はありません。

全制動、半制動、横滑りの練習後、ストックを脇に挟んでブレーキをかけ回転する方法や目前に木立があったなら、股にストックを挟んでお尻をかけるような姿勢でブレーキをかけると止ることができるなど、つまり「一本杖(ツエ)スキー術」なのです。

当時は今のように踏み固められたゲレンデではなく、自然の山野を滑る技術でしたので、今とは随分違っていました。滑るスタイルも格好よさではなく、安全・確実に滑るのを目標にしていたのです。

このような指導を受けながら、山を降りてくるのですが、それだけで5、6時間目が終ってしまうのです。随分体力が消耗する授業です。

3月の初めに全校スキー大会が開かれましたが、種目は登滑降(登って降りる)と直滑降(真っすぐ滑る)、回転の3種目です。私が入賞すると父は大変喜んでくれました。

スキーが上手でなければ道産子(ドサンコ~北海道の人)ではないと言われるほど、スキー授業を大切にしていたのです。

[注釈] 北海道のゲレンデはスノーボード・ファンに圧倒されています。しかし、どのスキー場も人出が今一です。子ども達がスキーをあまりしなくなったからです。家に閉じこもってゲームに夢中になっているらしいのです。

ある中学校で全校スキー授業のため、貸切バスを借りて有名なスキー場に行くことにしていたのです。ところが当日、欠席届けの電話が殺到し、バス1台が不必要になったそうです。風邪を理由にスキー授業をサボルのです。

また、こんな出来事もありました。PTA総会の席上、ある保護者が、「3学期のスキー授業は止めて下さい。もし、子どもが骨折したら受験に支障をきたしますし、スキー用具やウエア結構な値段ですのでかないませんsign01」と主張するのです。

ところが驚いたことに、その意見に同調する保護者が多かったので、その中学校は3年生のスキー授業を中止したわけです。

しかし、話はそれで終ったわけではありません。

「北海道に住んでいて、スキーを上手に滑れないとは何事か」ということが議会で問題になったそうです。教育課程(学校で教える科目や内容・時間数を学年別にわりあてたもの)の編成権は学校にあるわけですが、一部保護者の意見によって変更するという事態は好ましいことではないのです。

もし、そのような事を頻繁に許していると、教育が一部の人達に牛耳られることになるわけです。偏った思想や教育を利用しようと企(タクラ)んでいる人達に対しても、教育は中立でなければいけないわけです。

戦争中、軍部が教育に介入し軍国主義の道へ突進しいったという歴史的な事実があるわけです。

さて、話を戻しますが、スキー授業については、「学習指導要領」の中学体育では「自然とのかかわりの深いスキー、スケートや水辺活動などの指導については、地域や学校の実態に応じて積極的に行うことに留意するものとする」となっています。

この文言をどう受け止めるかです。教育は地域の自然や文化を素材・教材とした「地域ならではの教育活動」の推進も重要であると思うのです。如何ですか?

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2008年12月 8日 (月)

めかけの家が 公宅

小樽市立水族館や日和山灯台のある祝津(シュクツ)町に引越。

父が年度途中で教頭に昇任したのです。父39歳、私は小学5

年生。時は昭和25年1月の冬休み・・・・・・・・・・ヾ(.;.;゚Д゚)ノ

「ええーーsign02、またー」と不満を言ってもどうにもなりません。

またしても転校なのです。

小樽長橋小→旭川日章小→長橋小→小樽祝津小なのです。

Photo_2

学校は海を見下ろす

高台にあり、木造平

屋で各学年が1クラス

しかない小規模校で、

校歌もないのです。

公宅は、明治時代に栄華を極めた小樽三大網元であった白鳥家の

(メカケ~正妻のほかに愛し養っている女)が住んでいた家を

市が買取ったものだそうです。間取りは10畳1間、8畳2間、

6畳3間で、みんなで六つもあるのです。風呂場と台所の流し

台はタイル張りで、書院造の部屋はシャンデリア照明なのです。

しかも、石畳(御影石)の敷かれた通路を進むと表玄関、左横

に裏玄関があり、表玄関は二つに分かれていて、踏み台側を

中玄関と読んでいました。勿論、一枚ガラスの入った戸なので、

もし、割ったら大変なことになるなと思ったのです。

まるで、『浦島太郎』が行った竜宮城ではないかとイメージの

膨らむほどの豪華さなのです。

金さえあれば何でもできるのだなあと思った幼稚な私でした。

[注釈] 小樽の三大網元とは「青山家」「茨木家」「白鳥家」

です。青山家の別邸は現在「小樽貴賓館」と名称を変え観光の

名所の一つとて残っています。

本邸の一部は「北海道開拓記念村」に移設されています。

茨木家も現存しています。

Photo_3 <茨木家>Photo_4

<青山家>

祝津小学校のグラン

ドの側に位置し、

野球のボールが

塀の中に入り裏木戸

から貰いに行った

ものでした。白鳥家のニシン番屋は今でも祝津にあります。

2月から4月頃まで、「やんしゅう」と呼ばれていた季節労務者が

青森県や秋田県方面からやって来ますので、一時期は昼夜を

問わず賑わっていた祝津町も、今は閑古鳥が鳴くほど寂れてい

ます。小学校も少子化の波にさらわれ、1・2年1クラス、3・4年

1クラス5・6年1クラスの複式3学級になってしまいました。

ちなみに、私が在学していた時は1クラス43名おりましたが、

今は、全校生徒が17,8名前後になったそうです。しかし、

学校の施設は目を見張るほどであり、パソコンを1人1台使用

できる教室を初め、いろいろな楽器のある音楽室などの特別

教室もあります。高齢化社会に対応した生涯学習活動の拠点

施設を念頭において、昭和63年に建替えられ、地域に密着した

教育活動が展開されております。

また、市内で初めてのオープンスクールなのです。

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2008年12月 7日 (日)

火傷でも 病院へ行けず

小学4年生の冬休み中のことです。暗くなるまでスキーで遊び

お腹がぺこぺこ状態でした。家へ帰ると、姉が料理したばかり

のキャベツの油炒(イタ)めが出窓の上にあるではないですか。

私は、出窓に尻をかけ、鍋(ナベ)の蓋(フタ)を取り横に置こうと

した瞬間にバランスをくずしてしまいました。床に落ちたはいい

のですが、鍋も一緒に落ち、私の右頬(ホホ)から耳の部分が

炒め物で覆われてしまったのです。

「熱いsign01熱いsign03」とわめきちらす私を、長女が台所へ連れて行き

杓(ヒシャク)で水を汲み、何杯も何杯もかけるのです。痛いやら

冷たいやらガタガタ震えながら泣いていました。頬も耳の裏も

水ぶくれです。母が味噌を患部につけ油紙で押さえてから包帯

をしてくれました。しかし、震えがとまりません。

数日間、熱があるため食事がとれません。枕元に小さなミカン

箱が置かれているのですが、それを食べる気力もなかったの

です。妹達が私のミンカを盗みにきても、文句も言えずに寝て

いるだけです。数日して、父が医者からもらって来た薬を塗る

ようになってから、病状も好くなりましたが、3学期の始業式

から3日間も病欠です。

この火傷の後遺症は、その後10年間もあったのです。吹雪に

あうと耳の裏の皮膚が剥(ム)けるのです。

この経験は、火傷に対する危機意識を強め、鍋の置く場所や

ヤカンや蒸発皿、浴槽などに対する危険防止について厳しく

指導するようになったのです。お陰で、我が子や教え子を火傷

させずにこられました。

[注釈] 火傷に対して家庭でできる応急処置は、まず、冷たい

水で冷やすこと(冷却法)だそうです。従って、姉のとった処置

は正しかったのです。ただし、母が処置した味噌を塗ることは

逆効果だそうです。火傷も深さによって1度から3度まである

そうですが、素人治療をする前に医者へ行くことが先決です。

私の場合は、経済的理由で行けませんでしたが、父が家庭

教師をしていた家が医者であったので、薬や処置の仕方を

教えてくれたので救われたわけです。

現在は、経済的理由で病院へ行けないということはありません。

経済的に困っている場合は、教育委員会準要保護の申請を

し認定されると医療費が援助されるのです。

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2008年12月 6日 (土)

妊産婦を たらい回しの実態

二学期が始まって間もない、暑い昼下がりのことです。

下校途中、うつむきながら歩いてくる母に出会いました。

「お母さん、どこへ行くの?」と聞いたのですが、かぼそい声な

ので聞き取ることができません。

母は病院からの帰り、バスの中で大量出血をしたのです。

恥ずかしいやら、ビックリするやらで、家に直ぐ戻り、着替えを

して、再び病院へ向かう途中だったのです。

母は前置胎盤(ゼンチタイバン)で緊急手術が必要になったの

です。本来、子宮の上部にできるはずの胎盤が、内子宮口に

位置してしまう状態なのです。妊娠後期には警告出血と呼ば

れる突然で無痛性の出血が起こり、大量出血のときは

帝王切開となるそうです。

大量出血のため輸血が必要となり、一番上の兄が会社の人に

頼み人数分の血を確保しました。当時、血は大変高額。

小樽市立病院の医者は、

母子共に危険なので親戚や必要な人に知らせた方がいい

と父に告げました。

手術は氷で腹部を冷やし、麻酔なしで切開した??そうです。

帝王切開は当時として珍しい手術だったため、十数人の医大生

が回りを囲み、医者の説明をメモしながら行われました。

その時の様子を母は、

地獄の苦しみと、さらし者になったような気持ちで、こんな

いは二度としたない」と言っていました。

取り出した子どもは、仮死状態です。産声をあげないのです。

医者は、赤ん坊を水とお湯に交互につけたり、逆さに振り回し

たりしました。そのような事を繰り返し行ったところ、

「オギャーsign01」と産声をあげたのです。その声を聞いた父は、

「困ったー??」と言ったとか。

術後、兄が母に「母さん、どうしてこんなになったの?」と問うと

母は「同じ機械も20年以上使うとガタくるしょsign02」とのこと。

昭和24年8月20日。予定より2ケ月早く妹(6女)の誕生です。

体重450匁(モンメ~約1,700グラム)の未熟児です。

これで我が家はまた11人家族になったのでーーす。

[注釈] 生きている妊婦に帝王切開手術を行うようになったの

は、世界では17世紀後半からだそうです。けれども母子共々

助かる確率は少なかったようです。我が国では華岡青洲の

乳癌手術から5年後の1852年に埼玉県において、難産で既

に胎児が死亡した母親の腹を切開したのが最初なのです。

驚いたことに、この時代は難産の苦しみがあまりに酷(ひど)か

ったので、手術は麻酔なしで行われていたそうです。

母の場合は、医者によると小樽市における帝王切開第1

とのことでしたが、術後、1年位体調が悪く、出血が続いた

ので病院へ行くと、手術の時の小さな器具か、ガーゼか何か

が体内に残っているということで、再度、少し切除してくれたら

スッキリしたとのことでした。今なら医療ミスで訴えることもでき

ますが、そんな行為をする人がいない時代でした。

現在は医療技術も世界に誇るほどの進歩を遂げ、病院や医者

の数も多いと思います。

しかし、救急妊産婦受け入れを拒否する病院が多いとの

ことですが、私は理解に苦しみます。

札幌市内の未熟児が七病院に受け入れられず、新生児集中

治療室(NICU)がない病院へ運ばれた後に死亡したのですが、

通報から搬送まで1時間半もかかったとのこと。消防側と医師

側の考えの違いによりこのような悲劇が起きたようです。

北海道の場合、救急搬送中の産婦人科患者の受け入れを医療

機関に断られたケースが、2007年一年間で127件なのです。

理由は、設備不足などの「処置困難」や「専門医の不在」が多く

深刻な現状が浮き彫りになったのです。

救急車もなく、大量出血しても木炭で走る乗合自動車(バス)で

病院へ行かなければならなかった時代に、必死で処置(手術)

する医者の行為は崇高なものです。昨今は医療に携わる人々

が「人の命」より「病院経営」に力点が置かれているのではない

かと錯覚するほどの行為もあります。技術進んで心が失せる

一部の人達に反省を促したいと思うのは私だけでしようか。

日本医師会をはじめ医療行政に携わる人達が、早急に改善策を

打ち出すことを強く望みます。「医は仁術なり」とも申しますが

医療現場の実態は悲惨な状況を呈しているそうです。

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2008年12月 5日 (金)

チンチンを出す ルールー?

アポチャンの家から徒歩7,8分の所に長橋中学校がありました。

ここには小樽市で三つしかない市営プールがあ.るのです。

石とコンクリートで作られている5段の観覧席が設置されており

飛び込み台もありましたから、中体連の全道大会がよく開催さ

れていたのです。

このプールの管理は学校側が行っており、水泳授業で使用中

以外は小学生の使用も黙認していました。

しかし、一番浅い所で1m30~40cm程度の深さでしたので、

小さな小学生では背がとどかないわけです。ですから、小学生

で泳いでいる子はごく僅(わず)です。

ところが、面白い使用規定が??・・・。勿論、非公式な規定

ありましたが、一般化されていました。

泳げない者はフンドシをしてはいけないsign02というものです。

まだ水泳パンツ(水着)のなかった時代ですので、みんな

フンドシです。6尺(約1.8m)のサラシ木綿の布なのです。

赤、黒、白色の三種類があり赤色だったら、「赤フン」と呼んで

いました。

アポチャンは兄達にフンドシの仕方を教わった後、兄のフンドシ

をこっそり借りて得意顔でプールサイドを走り回っていました。

すると、二、三人の中学生が近づきアポチャンの身体を軽々と

担(かつ)ぎ上げ、プールの中に放り投げたのです。

さあ大変 アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!! 

泳げないアポチャンはアップアップしながら水を4、5杯飲んで

いるのです。手足をバタバタしている様子に気づいた中学生が

慌てて助けに来てくれたので、難を逃れることができたのです。

泳ぎもできないのにフンドシをした罰が当たったわけですね。

[注釈] 現在、ほとんどの小中学校にプールが設置されてい

ます。夏季期間のみしか使用できません。プールの維持管理

教育委員会の仕事なのです。ところが財政赤字で四苦八苦

している中で、利用者が1日に3,4人という時もあります。

維持管理のため、人を雇っていますし、プール内の照明、水を

循環させるモーターの動力にかかる電気代、水道代など経費

が随分かかるわけです。「何時でも、誰でも、自由に」使える

ことはいいことですが、利用者のいない中で経費だけが飛んで

いく実態があるのです。

この経費は税金の形で住民に跳ね返ってきます。改善策は

利用期間や時間の短縮、安全監視人のボランティアなど工夫

の余地はあるのです。学校プールの場合はPTAの協力により、

プール清掃、安全監視人は保護者がして下さり、学校側も

水泳授業を集中することによって経費削減を図ることが出来た

わけです。私達も行政のムダについて身近なところから指摘し

改善させる意識を持つことが大切ではないでしょうか。

それにしても、市営プール施設は素晴らしくよくなりました。

幼児用、車椅子でも利用できる障害者用もあり、温水、サウナ、

トレーニングマシンなどなど。

水着も変りました。男子はフンドシからトランクス。女子は上下

つながった水着からビキニスタイルへと。

チンチンを出して水遊びをしている姿も珍しい時代になりました。

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2008年12月 4日 (木)

犬の殺処分の恨みで 殺人を??

アメリカの大自然の中、少年ジョディと牡鹿フラッグ、父と子の

愛。開拓期の厳しい生活と子どもの生活。少年の悲しみを乗り

越えて成長していく姿に共感を覚えた映画「小鹿物語」。

昭和23年、私は小学4年生です。映画観賞ということで、初め

て入る映画館。そして天然色の美しさと自然美。この映画は

私の脳裏に深く刻まれています。

今思うと、終戦から4年目にして映画観賞に出向くとは、世の中

が落ち着きを取り戻し、心に「ゆとり」が出てきたのでしよう。

それにしても、当時の先生方は子ども達に何を感じとって欲し

かったのでしようか。厳しい環境の中でたくましく生きていく

姿なのか、少年期に抱いた夢が少しずつ消えうせ、成長し

ていくことを訴えたかったのでしょうか。

何れにしても、多くの感動を与えてくれたこの映画と、観賞の

機会をもうけてくれた当時の先生方に拍手を送りたいのです。

少年期の感動経験」は生きるバネになると思います。

ブログを読まれる皆さん、皆さんはどのような感動経験があり

ますかsign02 

[注釈] 元厚生次官ら連続殺傷事件の犯人の供述を報を聞い

て「小鹿物語」を思い出したのです。飼い犬のチロが殺処分され

た恨みが動機?と言う。小鹿物語のジュディ少年は可愛がって

いた牡鹿フラッグを自ら銃で撃たなければならなかったのです。

そうしなければ生きて行けないという、ぎりぎりの状況下に

おける決断なのです。このジュディ少年と「飼い犬のあだ討ち」

とは簡単に比較することは出来ませんが、精神的な幼稚さ

よる事件などに戸惑う大人達は、その現象から何を学び、

子ども達をどう育てるべきなのか、真剣に考えていかなければ

大変な世の中になっていくのではないでしょうか。

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2008年12月 3日 (水)

高校寮に喫煙室?

愛知県の私立黄柳野高校の寮に「禁煙指導室」として、生徒が

たばこを吸える部屋が設けられていたことが判明し、県警が家

宅捜査をしたというニュースを新聞で見たました。

どの時代も「たばこ」にまつわる話は尽きません。

私は小学1年の時に、イタドリ(植物)の葉を100枚採り乾燥さ

せて学校へ提出したのです。これが宿題??兵隊さんの煙草に

するとのことでした。

3、4年生になると親父のために乾燥させたイタドリの葉を薄い

紙に巻いて自家製の「葉巻煙草」を作りました。

兄達はコンサイスという英語辞典を一枚一枚破り、それを使っ

て作りながら、これを吸うと単語がよく暗記できると(・_・)エッ....?

勿論、この時代は煙草も配給だったのです。

さて、教員時代の昭和59年のことです。5年生のある男子

児童が非行の常習犯だったため、更正施設に入所させること

にしました。しばらくして、校長と担任が見舞いに行ったところ、

その子は開口一番(一番初めに言ったこと)、

先生、タバコ持ってないsign02」と聞いたわけです。煙草による

禁断症状が出ていると所長が話していたとのことでした。

教頭時代では、小学3年生の子がお小遣の大半を煙草代にし

ていたのです。手の指が黄色になっていました。その子が友達

に吸い方を教えていたところを、他の子どもたちに目撃され分

かったのです。この子は母子家庭で母も高校生の兄も喫煙者

でした。母がこの子に注意しても「母さんも兄ちゃんも吸ってい

のに、どうして僕が吸っちゃあいけないの?」と言って止めな

いとのことでした。

隣の小学校の教頭は「校内巡視で一番重視しているのはトイレ

です。煙草の吸殻で火災になったら大変なのでsign01」とのこと。

毎日数本の吸殻を発見しており、学級指導の徹底を呼びかけ

てきたが、余り効果は見られないと悩んでいました。

ところで、教育長時代に毎年フィンランドの学生(専門学校)と

懇談する機会がありました。まだ18歳の彼女等が煙草を美味

そうに吸っているのです。この国では18歳から喫煙してもよい

ことになっているのです。そこで実態を聞いてみると、子ども達

の中には、中学生から吸っている子もいるとのことです。

この国が世界で一番学力が高いので驚きです。

黄柳野(つげの)高校長が「寮内でぼやがあったことなどから

やむを得ず指導室内での喫煙を認めていた」といい、「今後は

絶対喫煙しないよう再び指導を徹底する」とのことでしたが、

私は校長の苦悩がよく分かります。

この高校は不登校や高校を中退した生徒を受け入れる全寮制

の高校です。しかも、生徒の約1割は成人だそうです。少子化

で私学の存続自体が危ぶまれている時代です。経営の根幹

関る問題をはらんでいますので、処分を含めた決断は大変だっ

たことでしょう。文科省の大臣は厳しく批判していますが・・・・。

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2008年12月 2日 (火)

2度使う トイレットペーパー

「お母さん、汚いでしようsign01ちゃんとテッシュがあるでしようsign01

と96歳になる母を長男がとがめているのです。

実は、義母が日めくりカレンダーで鼻をかみ、それを二度使う

積りで紙箱に入れてあったのです。

この話を聞いたアポチャンは、一時疎開した旭川の祖母のこと

を思い出しました。彼女はトイレで使ったちり紙を乾して、二度

使っていたのです。明治生まれの祖母にとって、紙は貴重品

だったのです。ですから、鼻紙やトイレ用の紙は、新聞紙を手頃

な大きさに切って使っていたのです。そのまま使うとお尻が痛い

ので、よくもんで使うのです。

所で、アポチャンは書き終わったノートのページを鼻紙に使って

いたものですから、ノートは絶えず薄くなり最後は1枚しか残ら

なかったのです。先生も父母もノートを見ることがなかったので

気づいていませんでした。

鼻紙が無い時は、服の袖で拭くものですから右手の袖下は、

いつも乾いた鼻汁でテカテカに光っていたのです。母によく叱ら

れましたが、このような子どもは他に沢山いたような気がします。

[注釈] 50年ほど前まで青っ洟(ぱな)と水っ洟を垂らして

いる子どもがをよく見かけました。それは医学的な根拠があっ

たのです。

東京都大田区中馬込にある高橋クリニックの院長さんの話に

よれば、青っ洟の正体は白血球でいわゆる膿なのだそうです。

栄養状態が悪いと、免疫抗体の原料であるタンパク質を十分

に摂取できていないため、風邪ウイルスを撃退する免疫抗体

の代わりに白血球が動員されますが、白血球にはウイルスを

殺す力がないのにも関らず、無駄に大量生産されて青っ洟に

なったそうです。ですから、栄養状態の良かった裕福な家庭の

子には「アオッパナ」は少なかったようです。

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2008年12月 1日 (月)

「でもしか先生」奮闘記

函館本線()、室蘭本線、根室本線、・・・・、宗谷本線・・・・・・・。

黙々と板書(黒板に書くこと)する先生。チクプンカンプンな私?

小学校4年生の社会科の時間です。北海道の鉄道本線や

支線名を黒板に書いている授業風景です。

私の関心事は違うのです。「先生はよくあんなに漢字を知って

いるなsign02」 「よく真っすぐ書けるな?」とポカーンとしながら眺め

ているのです。そんな様子に気づいた先生が、

「アポチャン、どうして雑記帳(ノート)に書かないの」と聞くのです。

「だって読めない字ばっかりだものsign01書いても読めないから書か

ない。」と主張する私です。しかし、そんな抗議に目もくれず

「いいから、書きなさいsign03」と迫る先生ですが、そんな言葉は

何のその、口を尖(とが)らせている私だったのです。

この思い出は昭和23年のことなのです。当時の北海道は鉄道

路線が網の目のように張りめぐらされていました。

私は函館本線が家の直ぐ近くを通っていたし、小樽から旭川へ

一時疎開した経験から知っていました。また、二番目の兄が

6年生卒業と同時に新潟の陸軍少年飛行兵学校に入学する時、

父が函館まで行き、青函連絡船に乗船する我が子の姿を見なが

ら、もう二度と戻ってこないのではないかと思い、涙ながらに

見送ったということを母から聞いていていたからです。

不思議です。岩田先生(女教師)の授業は、何故か鮮明に覚え

ているのです。人間の脳は一体どうなっているのでしようか?・・。

[注釈] 終戦後間もなく、国定教科書もなく各学校が独自の

指導計画を作成して授業に臨んだと思いますが、今のように

学習指導要領で指導内容が明確に示されていなかった時代の

ことでもあり、大変だったと思います。

また、1年間に代用教員(免許のない臨時の教員)が3人も変

ったことがあったので、異常な指導体制であったのですね。

私は、小学校の入学時と卒業時の担任名は覚えているのです

が、後は上記の岩田先生とY先生以外は覚えていないのです。

他の先生の印象は全くないのはどうしてなのでしようか。

ただ、若い女の先生方は、結婚を理由に別れて行ったこを

知っているのです。

今思うと、給料の安い教員に見切りをつけ、辞めていった

先生も多かったのではないでしょうか。だった「でもしか先生

という言葉が生まれる程、魅力度1,2だったのでしょうね。

なお「でもしか先生」とは、「先生にでもなるか」と言った形で

教職に就いた先生や、先生にしかなれなそうな先生をあざわ

らう時に使った言葉で、1970年代後半にもっとも普及した

言葉なのです。

現在は一端教員になったら余程のことがないと辞めない時代

となり、資格を持っているのになかなか教員採用されない

という困った時代になってしまったのです。

非常勤講師諸君、この矛盾を声高らかにアッピールして、教育

行政側へ善処するよう運動を起こしていいのではないですか。

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