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2009年2月

2009年2月28日 (土)

高校入試 思い出の難問 

昭和29年3月、高校入学試験。9教科を2日日程で行はわれ受験会場は自校で

す。従って特別緊張せずに取組むことができたのです。私の志望校は小樽桜陽

高校普通科であり、合格ラインは100点満点の60点です。普通科の受験者は

1クラス50人中6人です。前年度は不合格者が1名だけでしたから、学校の進路

指導が徹底していたのではないでしょうか。

私は社会、数学、音楽しか得意科目がなかったので、この3科目の得点を取りこ

ぼせば大変なことになるのです。ところが、一番得意であった数学で1問難問に

ぶつかってしまったのです。このような問題です。

10%の食塩水100グラムと20%の食塩水200グラムを混ぜると何%の食塩水

できますか。

この種の問題を今まで取組んだことのない私は、他の問題の解答を確かめること

もせず多くの時間をこの一問に費やしてしまったのです。しかし結果的に間違えて

しまい15点満点中14点だったのです。がっかりです。何故かと言えば、他の科

目で高得点をとることはあまり期待できなかったからです。

2日目の試験が終わり、帰宅後、疲れが出て夕食も食べずに寝ていますと、大学

から戻った兄(次男)に無理やり起こさてしまいました。

「出題された問題を教科別に言ってごらん。そしてどのように解答したのかもsign02

と問いただすのです。私は、問題を順番に話しどのように解答したかも報告しまし

た。すると兄は、

問題を言えたから心配ないsign01 よし、安心して寝ていいぞsign03」との声。

私は、合格発表まで心配でした。浪人は許されないし、もし不合格なら就職につか

なければならないと決意していたからです。試験が終って数日後、担任がホーム

ルームの時間に受験生一人ひとりを教卓の前に呼びよせ、何点ぐらいとれたか

事前に知らせてくれたのです。

最初に呼ばれたのが私。私の家庭状況を知り尽くし心配してくれていたからです。

「○○さん、何点ぐらい取れたと思うの?」との問いに「70前後だと思います」と答え

ると「うん、72点でしたから心配ありません。昨年度の最低点は58でしたから安心

しなさい」とのこと。

帰宅後、母や兄にそのことを報告するとみんな喜んでくれたことを思い出すのです。

ちなみに、今回の最高点は98点で女子です。その彼女が入学生を代表して入学

式に挨拶したのですが、クラスに戻ると彼女が私の左隣の座席なのです。背筋を

伸ばし色白で目がパッチリとした理知的な美人です。しかし、近づき難い存在でし

たので会話を交わすことはなかったのです。女性に関しては誠に初心(ウブ)な私。

この彼女が私の高校時代のマドンナだったのです。

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2009年2月27日 (金)

日ハム応援で 森林再生

久し振りに明るいニュースが北海道新聞に載っておりました。

北海道日本ハムが、今季から札幌ドームの公式戦で、森本稀哲選手の守備位置

のセンター後方にある応援席「ひちょりシート」の入場料収入の半額を、苗木の購

入費にあてるプロジェクトを行う・・・・・。この苗木は、2004年の台風18号で倒木

被害を受けた支笏湖畔に昨年から造成中の「B・Bの森」に植えるとのこと。

この記事を読んで、私は以前勤めていた学校の実践を思いだしました。それは、

春、夏、秋に実施された「自然総合学習」です。今から27年前(昭和47年)からの

実践なのです。

全校生徒が学年別にスケージュールを組み、学校林や石狩河畔に出かけ、授業

や遊び、集団活動で一日を過すというやり方です。これは校長の発想です。

グランド、遊園地、プラモデル、絵本、運動用具、テレビもマンガもすべて人間の

手で作られたものである。本物にふれさせなくちゃ、本当の感受性も創造性も育ち

ません。コンクリートの校舎に詰め込んで、いくら知識を詰め込んでも子ども達の

血や肉にならない」。

この実践は、昭和48年1月4日の北海道新聞に「自然と子ども」シリーズの最初

に特集で紹介され脚光を浴びたのです。

ここに、自然総合学習を存分に楽しんだある4年生の詩を紹介します。

                  「学  校  林

       緑につつまれた学校林  虫のなき声  小鳥のさえずり

               すすきが風にふかれている  

          ほうきのような  ほが  右に左にゆれている

          私たちは勉強する  公害のない大自然の中で

      林の中は落ち葉でいっぱい  ちゃいろいじゅうたんのようだ

            ベンチに  こしかけ  楽しく勉強する

       このひとときは  私たちにとって  ほんとうにすばらしい

如何ですか。

自然は最高の教育空間」であり、「自然こそ最高の教師」なのです。

自然は「浩然の気」(コウゼンのキ:何事にもとらわれない、広く豊かな、のびのび

とした心)を養うものであると思います。日本ハムのリーダーの理念と実践に大き

な拍手を送ります。目先の損得だけにこだわりがちなリーダー達よsign01

           日本ハムの実践に学べsign03 

と大きな声で訴えたいのです。

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2009年2月26日 (木)

ある校長の物語 ②

今日の基礎づくりをしてくれた高校に感謝。ふとん一組、トランク一つさげて寄宿舎

へ。寄宿舎の生活を一口では語ることはできないが、多くのよき友との出会いや

いろいろな体験があり、私の視野を広めてくれましたし、私の青春そのものであり

充実した日々でした。

高校といっても軍馬補充部の跡地を校舎にしたものであり、学習というよりは環境

づくりの作業が中心でありました。農家育ちの自分にとっては、農作業の準備、家

畜や農機具の名、取り扱いも知っておりましたので、それを実践することなので優

越感を覚えました。反面、学習や読書は他より劣っていましたが、一貫した農作業、

家畜との触れ合い、真夏の炎天下、汗とほこりにまみれ、虫にさされ、放牧の牛馬

が逃げないようにバラ線張りなど苦しい作業もありましたが、これらの作業を通じて

「勤労の尊さ」「生命の神秘」「他の人の心の痛み」などを理解できる基礎工事を、

しっかり作ってくれた高校に感謝しております。

世相も変わり、家族の勧めもあって獣医をあきらめ、教師を志して学芸大学へ。

家業も酪農家へと転換。高校・大学を通じて夏休みは重要な労働力。家畜の干草

つくりに家族の一員として家事労働の毎日でした。また、冬・春休みは牧場の雑木

を木炭にする炭焼きの手伝い(植林のため)。樹木の伐採、炭焼き釜の作り方から

木炭の出来具合まで貴重な体験を通して、家族の絆、家庭経済を支えるものなど

を学び取ったが、私にとって一番大切なことは「耐えること」を身につけたことだと

思います。

教師への道。昭和32年3月、4年間の寄宿舎生活も終わり、家族に卒業と教師に

なれたことの報告。隣近所の人達が集まって教師への門出を激励してくれました。

釧網本線にゆられ、オホーツクの流氷を眺めながら初任地紋別へ・・・・・・・・・・・。

[注釈] 軍馬補充部とは軍馬の供給、育成、購買をはじめ資源調査を担当する

軍機関のことで、日露戦争の後に標茶町に置かれた。また、寄宿舎は一部屋に

4人程度で宿泊していたが、最近の教育大学では2人部屋が主流になっている。

しかし、学生の個室入居志望が強く、寮の部屋が空いているという声も聞こえて

います。なお、この話の人は、いつも笑顔を絶やさず人ざわりのよい人物でした。

自分の苦労話を語ったことがなかったので、普通の家庭に育った人だと思ってい

ました。彼は北海道のある支庁の大規模中学校の校長で退職しましたが、

生徒指導にかけては敏腕をふるった教師だったのです。

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2009年2月25日 (水)

ある校長の物語 ①

過日、我が家を訪問して下さった知人が、息子さんがやっと新採用教員として道北

のある市に赴任しているとのこと。教員採用試験に数回挑戦し苦労していた話を聞

きながら、私はある先輩校長のことを思い出しました。そこで、彼の回顧録の一部

を紹介します。

忘れられない少年の頃、私は釧路市より30kmほど離れた右に雄阿寒岳、左に

雌阿寒岳を眺める自然豊かな鶴居村に育ちました。今では車で40分ほどのところ

ですが、当時、冬は陸の孤島と化し、夏は馬が曳くトロッコで往復10時間位と記憶

しているのが唯一の交通機関でした。ですから子供の頃は7~8時間かけて歩いた

ものです。家は牛馬を飼い、畑作の貧農でありました。幼少のころから家畜に触れ

家族の野良仕事を手伝い、馬車に家畜用の青草を積み、その上に乗り、星空を眺

めながら一日の労働を終え、家路にという記憶が懐かしく脳裏をかすめます。

高等科1年(13歳)の夏に終戦となり、22年六・三制により新制中学校のスタート

しかし、学校もなく先生もいない、教科書もなければ文房具もなし。それでも5月に

入学式があり、校長先生の開校の言葉だけがぼんやり浮ぶ程度。男女合わせて

7~8名いた生徒も途中で自然退学。3年間の卒業証書をいただいた生徒はいな

かったと思います。

私も昭和22年9月から、村役場の使丁として雇用され、朝早くから役場内の清掃

に暖房用の炭火おこし、そして出勤の職員や来客にお茶のサービス、あとは謄写

版による印刷、使い走りの毎日でした。

そんな時、共に学び共に遊んだ同年代の旧制中(女)学校を卒業して、机にすわり

事務をとる姿を見て、心の中に自分も高等学校に行きたいと強く思った。しかし、

戦前、戦中、戦後を通して労働と避難の仕方の連続で、学習を通しての知識もなく、

真分数の足し算すらできなかったことから、合格への不安と苦しみが続きました。

そんな自分を親父は気付いていたのだろう。ある日、晩酌をしながら農業高校に

行って獣医にでもなれよの一言がとても嬉しかった。これは、今は亡き農業委員

会の事務局長さんが、親父に高校に進学させてはと言ったようです。又、受験問

題集なども紹介してくれました。ここからランプの下での独学が始まり、昭和25年

3月、標茶農業高校に合格。その時の喜びと感動は終生忘れることは出来ません。

                                         <つづく>

[注] 鶴居村は天然記念物タンチョウの生息繁殖地帯として有名なところ。

また、標茶(シベチャ)町は釧路市と阿寒国立公園の中間に位置した酪農王国。

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2009年2月24日 (火)

教員採用への 母の工作

年度末で教頭住宅を明け渡さなければならない我が家。民間のアパートでは家族

8人が住むとなれば手頃な物件がありません。まして、一軒家を借りるとなると家賃

の負担が大きすぎます。大変な岐路に立つた我が家でした。

こうなると明治女の強さです。あまり社交的でない母が菓子箱一つを持って、単独

教育委員会へ出向き、教育長に面会を求め、懇願したのです。内容は二つです。

① 3月に学芸大学(今の教育大学)を修了する息子を小樽市の教員へ採用して

 欲しいこと。

② 教員住宅に何とか入居させて欲しいこと。

これは大変難しい要望なのです。小樽市では教員の資質を高めるために前年度か

ら、学芸大学の4年課程を卒業したものしか採用しないという人事方針があったの

です。

兄(3男)は2年課程を修了予定ですので、小樽市の採用条件に合致しません。

二つ目の教員住宅は辺地な学校に数軒しか設置されていなく、市内の大多数の学

校にはなかったわけです。無理を承知でお願いしているわけなのです。

しかし、幸いにも教育長が父と同郷であり同じ旭川師範出の一期後輩だったこと

と、我が家の家族構成と父の殉職などが考慮されて、小樽市採用が決定された

わけです。

例外中の例外であるとのこと。

また、市内のある学校に4棟8戸の教員住宅が新設され新年度から入居可と

なったわけです。倶知安町や岩内町、余市町などの後志地区から小樽市に異動

になった先生方や、結婚して新居を構える先生方はみんな教員住宅入居を希望

するわけです。

なぜなら、住宅料が極めて安く、学校の近距離に建てられているため、通勤が楽

だからです。したがって、入居倍率が極めて高いのです

しかし、母の数回にわたる要請により教育委員会も決断したようです。それは、

新採用教員ではあるが、家族の経済的状況を考慮すると入居させてやるべきで

あると判断し、市内の校長会に打診したそうです。結果的にどの校長も異議を唱

えず、教育委員会の処置に賛成してくれたとのこと。

そのような理由により、我が家はまた教員住宅に入居できることになったのです。

[注釈] 北海道の教員採用は現在、第1次試験(教養~マークシート式・専門の

記述式)と第2次試験(論作文、面接~集団討論・個人面接、実技~音楽、水泳、

ボール運動、体育実技、英語~日常会話、リーディング)を合格しなければならない

のです。また、第1次を合格しなければ2次試験を受ける資格がありません。

民間が不景気になると教員希望者が増加し可なりな倍率になります。従って、7、

回挑戦する人もいるのです。大分県の不正問題の発生もこのような厳しい

採用が背景にあるようです。

戦前・戦中・終戦直後は逆に教員希望者が不足し、正規な資格を持つ師範学

校出は各地から引っ張りだこであり、地域によっては各自治体独自で

                    赴任手当や背広代などを支給

するところもあったのです。ですから採用試験などなかったわけです。

兄が教員になった昭和29年度採用試験はありませんでした。教諭(キョウユ)

免許状を取得していれば各自治体の教育委員会が独自に採用できたわけです。

しかし、終戦直後、ベビーブームに対応するため免許状のない人まで代用教員と

して採用したわけです。また、短期間で教員資格者を育成するため、学芸大学

(今の教育大学)に2年課程(今の短期大学)を新設し対応したのです。当時は

教員の給料が安かったため人気がありませんでしたので、『でもしか先生』という

言葉まで聞かれるほど、教師の資質能力が問われたのです。

ところが、児童生徒数が横ばいとなり、教員採用も狭き門となってから、

                   試験制度の導入と2類課程の廃止方向

へ舵が切られたわけです。確か、昭和33年度採用から、学科試験と面接試験が

導入され、小学校教諭の場合は音楽の実技試験でオルガン演奏が参考資料とし

て実施されました。

試験の結果はA、B、Cの三段階に評価され、Aは4月採用Bは年度内採用

Cは採用の確約なしとなっていたのです。また、自治体で赴任旅費を支給する

ところもなくなってきました。しかし、産炭地では石炭を格安にしてくれたり、

米どころでは白米を5割引き、地元の映画館は無料とかの優遇策が残って

いる所もあったのです。

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2009年2月23日 (月)

親身になってくれた教師

微笑みかける横顔の女性。真っ白な雪の上にスキーに乗ってポーズをとり、マフマーがとても似合っています。私が見ている写真は中学3年生の担任であったS先生なのです。なぜこの小さな一枚の写真がどの写真より大きく輝いて見えるのでしょうか不思議です。

実は、冬休みに私宛の一通の手紙が届きました。差出人はS先生です。何事かと思って急いで開けてみると、白い便箋には丁寧な字で沢山書かれているのです。はらはら、わくわくしながら読み始めました。内容は冬休みも半ばを過ぎたけれど、どのような生活をしているのか、高校受験もせまったので頑張って欲しい、無事合格して天国の父を喜ばせてやって欲しいという内容でした。そして、この横顔の写真が同封されていたのです。

S先生は、30代前半にも関わらず化粧もせずパーマもかけていないのです。おまけに何時もスラックススタイル。ごく平凡な顔ですが反骨精神が強く存在感のある教師でした。恐らくこのスタイルも男子生徒を意識したものなのでしょうか。

ある授業の時、窓の方を見て話すのです。私達は何かあるのかと思って一斉に振向きましたが特別変ったことがありません。また、時には廊下側を眺めながら話し、私達と視線を合わせないのです。不思議に思った私は「先生、先生は授業中、どうして後ろの方を見たり窓や廊下の方を見て話すのですかsign02」と質問しました。

先生は「それには理由があるのです。数年前に校内の先生方に授業を観ていただきました。そして、授業についていろいろご意見をいただいた中に、こんな指摘があったのです。それは、私が前に座っている生徒の方ばかり見て話しているので、その子たちに特別な感情が生まれたら困るのではないかと言うのです。中学生を相手に教えているのですから男子生徒などに変な気持ちを持たれるのは良くないとも言われました。それで、努めて今のような話し方をしているのです。」とのこと。

この先生は父親が戦死し、母と兄と先生の三人家族だったのです。ところが兄は勤めの関係で本州にいるため、母子二人で生活していたわけです。苦学をして学芸大学(今の教育大学)を卒業したことを、ホームルーム指導の時に話してくれたことがありました。

私にとってS先生は教員になった私に多くの影響力を及ぼした先生の1人であり、尊敬する先生の1人なのです。

[注釈] 教師は子どもに共感することが大切であると言われています。即ち、教師が子どもを一人の人間として認め、内面を理解し、共に歩もうと努めることが大切であるということなのです。教師のそのような姿勢によって、子どももまた、そのような教師のもとでこそ初めて自らを裸にし、本音を言い、心を開いてくれるわけです。

子どもが、自分を分かってもらおうと心を開くのは、自分を人間として認め、励まし、新しい可能性を切り開いていくことを援助してくれる人に対してであります。

もっと平易に言えば、「この先生は、私のことを親身になって考えてくれている。」「私の気持ちや考え方を分かってくれる。」「私の苦しみ、つまずきを分かってくれる。」と子どもが思ったとき、教師と子どもの人間的なふれ合いが強まり、子どもの「やる気」も力強く育つものです。この姿勢は教師ばかりでなく親にもいえることです。このことは、私が約47年間の教員生活や教育行政に関わって体験的に学んだことの一つであり、教育する側の基本的なスタンスでなければならないと思うのです。

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2009年2月22日 (日)

肩車で 映画鑑賞

父亡き初の元旦。NHKの「紅白歌合戦」の喧騒から去り、静寂と厳かな雰囲気が

醸し出される「ゆく年くる年」の除夜の鐘を聞きながら寝たため寝不足ぎみの朝。

お屠蘇(トソ)を飲み雑煮を頂いた後、母からお年玉を貰う。兄姉妹達はバスの発車

時刻に合わせて外出していくのです。その様子を見ていた4歳の妹(仮称:陽子)

が、「陽子も連れて行ってsign01」と懇願するのですが、足手まといになるものですか

ら誰も連れて行きません。小樽市の辺地に位置する祝津町では、元旦のバス運行

が午後3時まで。従って、行動に時間的制約を受けるわけです。もし、バスに乗り

遅れると手宮駅から約4キロの冬道を歩かなければならないはめになるからです。

姉も二人の妹達も友達と約束しているので急いで外出します。その度に泣き出す

妹。母が

陽子、お母さんが遊んでやるから一緒にお留守番しようsign01

となだめています。

私は、早く父を失った陽子がふびんでならなかったのです。

よーし、陽子、お兄ちゃんが映画に連れて行ってあげるから、急いで用意してsign03

と言うや、陽子は「本当sign01本当sign01」と言って、母に外套(服の上に着る防寒具)を着

せてもらっているのです。

電気館という映画館に着きました。ところが時間が遅かったため館内は満員です。

1階と2階はスロープになっているのですが、そこも立ち見客で一杯です。

私はスロープの中段辺りで陽子を車にし、観客の肩越しに観させました

確か『笛吹童子』の映画だったと思うのですが、私は画面を殆ど観ることができま

せんでしたので内容はよく覚えていません。

1回目の上映が終わり座席を確保しようと思ったのですが、これにも失敗です。

しかし、立ち見のよい場所を陣取り2回目の上映を観ました。途中で

さっき観たところだね。もう帰ろうか?」と問うと「うんsign01」と素直な返事。

映画館を後にした私と妹は、帰りのバスに乗り遅れることもなく無事に祝津の停留

所へ到着。ところが、後から呼び止められ振向くと兄ではありませんか。兄は福岡

市から帰省し、大晦日に妻の実家に泊まったそうです。兄は陽子を背負って家に

着くと、ポケットに手を入れ「小銭をあげる」と言うので手を出すと、その中に

500円札が混じっているのです。びっくりして

お兄さん、500円札も入っているよ」と言うと、

いいから、あげるよ!」とのこと。私お年玉が200円でしたから大変な金額。

きっと兄は妹の面倒をみた私に、お駄賃のつもりでくれたのではないかと思うの

です。兄の心の優しさにふれた思い出と、陽子の満足そうな顔を見て充実感に

浸ることのできた昭和29年の元旦は、今でも懐かしい思い出の日なのです。

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2009年2月21日 (土)

戸惑う母 映画館で?

父さんとは2度と映画館へ行かないわangry」と母のこぼし話でーす。

教頭になって3年目(昭和27年)のある秋、父は映画を観に行かないかと母を誘

ったそうです。初めての誘いhappy01。 母は小躍りしながら、どの着物を着ていこうかしら

と迷いながら外出の用意をしたそうです (v^ー゜)ヤッタネ!!

祝津からバスに乗り小樽駅へ着いたはいいのですが、一緒に歩こうとして近づくと

傍に来るな (・A・)イクナイ  離れて歩けsign01」とのこと。三尺下がって師の影を踏ま

ずの言葉通りを要求するのです。母はハイと素直に従ったのですが、心の中ではこ

う思っていたのです。

父さん格好つけて言っているけど、本当は自分が私より背が低いので恥ずかしい

から言っているのだわ。何さ、禿げチャビン(中老年男性に多くみられる薄毛)の

くせにangry」と。

いよいよ電気館(現在の都通にあった映画館)へ着きました。館内は真っ暗です。

恐る恐る父に付いて行きました。

父さん!畳の部屋はどこ?」「うるさい、黙って付いて来い (#゚Д゚)y-~~イライラ

ここへ座れ」 「はい」・・・・・・・・・・「父さん、この椅子、居心地が悪いの!

どら!一寸立て!馬鹿でないのか?」 

へえーー、椅子がちゃんとたたんであるのねsign02」 「うるさい!黙っておれsign01

父さん、弁士はいつ出てくるの?」 「シィー 黙っておれったら!」・・・・・・・・・・。

父さん、この映画館、随分便所があるのね? あすこにも、あすこにも。」

馬鹿!ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…  あれは非常口だsign03 もう何も言うなsign01

母は「馬鹿!馬鹿!」と言われ腹が立ってきたそうです。生まれて初めて観る

投機映画(現在の映画:出演者の肉声が映像と共に出る)なので驚きはしたものの

父の叱責に腹が立ってきたそうです。誰だって映画を観たいのは当たり前なのに

これまで一度も連れて行ってくれもしないで、馬鹿、馬鹿とは・・・・・・・・・・・・・。

馬鹿は父さんの方だと感じたそうです。

母は結婚する前、札幌の洋裁店に勤めている時、しばしば活動写真(無声映画で

弁士が映像を見てセリフを言う映画)を観たことがあったのです。しかし、結婚後

すぐ子どもが生まれ、結果的に10人(1人死亡)の子どもを育てるのに映画を観る

という時間的・経済的・精神的ゆとりがなかったわけです。

しかし、そのことに対して不平を言う母ではなかったのです。さすが明治の女です。

父の死後、母が映画を観に行ったという話を誰からも聞いたことがありません。

恐らく映画館に対する強いマイナスイメージを抱いていたのではないでしょうか。

それとも、末の妹(6女)を帝王切開で産んだ後、体調が思わしくなく、リューマチを

患って歩行に若干支障をきたしていたせいなのかも知れません。

私は、教員になって3年目の正月に兄(三男)と相談し、テレビを購入してやると

まるで映画のようねsign03 凄い世の中になったものだsign01」と目を細めて喜んで

くれた姿が思い出されます。

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2009年2月20日 (金)

評価に不満で職員室へ

英語の暗唱大会への出場に関わって辛い思いをした私は、自己主張する

ことの大切さを身にしみて感じました。内にこもっているモヤモヤ状態を

持続することは精神的によくないと考えたのです。

それで最初に実行したのはこうです。

二学期終了後、「通信簿」の評価を見ると社会科の評点に合点がいきま

せん downモヒャ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!。

それで、帰り際に職員室に立ち寄り社会科の教科担任に抗議しました。

先生、僕の成績つけ間違いではないでしょうか?もっといいはずですsign01

テストの平均点はクラスで○○番ですから絶対○でなければおかしいです。」

ところが、先生は「うーん。テストの点数はそうなるけれど、君の学習態度

があまり良くないからねsign02 成績は点数だけで付けるのではないのです。」

とのこと。私は小さい時から授業中よくお喋りして注意を受けたことがあり、

中学生になってもその癖があまり直っていなかったのです。そのことを指摘

されたのです。

「分かりました。失礼します。」と元気に職員室を後にしました。

評定ランクが上がろうが下がろうが大した問題ではなかったのです。自分が

疑問に思ったことをすぐ解決できたことに満足感を覚えたのです。

卒業式の時、担任が微笑みながら「貴方は自己主張の強い子でしたもね。

これからもその良さを伸ばして言って下さいねsign03」と励ましてくれたことが、

心地よい思い出として残っているのです。

[注釈]  ある時、父親がイギリス人で母親が日本人の子どもA君に、

「輪ころがし」という昔の遊びを教えたことがありました。初はなかなか上手

にできません。ところが、しばらくして、私が他の子ども達に教えていた所、

A君が傍に来て

僕、上手にできるようになったの。今直ぐ見に来て下さいsign01

と要請するのです。私は

ちょっと待っててね。今、他の人に教えているからね」と告げると、

早く見に来て下さいよsign01僕、待っています。」と主張するのです。

強烈に自己主張するこの子を羨ましく思っていたのですが、それから数か

月たって、この子の両親が悩んでいることを知りました。

担任がこの子を「何でも出過ぎる子」として頻繁に注意し、頭を押さえつけ

るそうなのです。そのうち、この子は

僕、あの先生嫌いだpout」と言い出し登校拒否ぎみになったとのことでした。

あれほど明朗快活な子が、それ程までに悩み苦しんでいるとは・・・・・・・・。

私は、この子の通っている学校の校長と友達である知人に相談しました。

知人は早速この話を校長に伝えました。おそらく校長がこの子の担任に話

したのでしょう? 担任の態度が変わったとのことです。その報告を聞いて

私はほっと致しました。

実際、学級内にはいろいろな家庭環境の子や、学習の仕方の違う子、受け

止め方(認知スタイル)や表現の仕方の違う子、そして理解力や判断力の

違い、操作や作業のスピードの違いなど、実に多様な子どもがおり個人差

が大きいものです。

このように多様化した中で、多くの子どもに今まで以上に満足してもらえる

授業や接し方は簡単ではありません。しかし、どの子も我が子と思って慈し

み、良いところを褒め、先を急がず「待つ姿勢」で接していくと、いつの間に

教師と子どもの信頼関係が醸成(ジョウセイ:少しずつかもし出される)

されてくるものと思うのです。

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2009年2月19日 (木)

母の一言に おびえる妹

私のブログを読んだ直ぐ下の妹(3女)から手記が届きました。その中の一つに

このような内容のものがありました。

【父が亡くなって確か三日位経ってのことです。母が

徳子(仮称)、邦男(仮称:長男)がこれから先大変だと思うので、徳子を引き取り

責任を持って大学まで出すので、一緒に連れて行きたいと言っているんだけど、

どうするsign02」と聞いてきたのです。

びっくり仰天。 まだ小学5年生の私は、ただ母のそばから離れたくない一心から

いや!いや Σ(・ω・ノ)ノ! 絶対にいやpout 」

と口をとがらせ精一杯の抵抗をしたのです。母は

「わかったよsign01」と言い、その後一度もこの話を口に出したことはありませんでした。

今思うと、兄はまだ若く(26歳)、お嫁さんをもらってすぐなのに、

よく妹を育てようと決心したものだと感心します。】

私は妹の手記をみるまでこのことを全く知りませんでした。妹は大変なショックで

小さな胸を痛めたことだと思うのです。その後、母がそのことに触れなかったとして

も、その言葉が潜在的に妹に宿り、何らかの形で心に影を落したのではないかと

推察するわけです。

何れにしても、核家族で育った人達には理解できないことだと思いますが、

このような経験は人生にとって貴重な体験であり、生き抜く力になっていったよう

に思うのです。

[注釈] 昨年10月、カーペンターズの曲による音楽葬で黄泉(ヨミ)の国へ旅立っ

長男(享年80歳)は、新婚旅行の旅先で父の死を知ったわけです。函館から

小樽へ戻ってくる時、新婦となった妻に

これから大変だ。お前には苦労させたくないからこれで別れよう。離婚しよう。」

と言ったそうです。妻は

今更何を言っているの。結婚式を挙げたばかりなのに離婚したと言って、家へ帰

ますか?家族も隣近所の人達も驚きますよ。私は貴方と一緒に苦労してもよい

のです。とのこと。

10人兄妹(男4人女6人)の長男として生まれ、戦争中は援農で各地をまわり、

おまけに群馬県の飛行場で爆撃を受け、防空壕で生き埋めのような状態を経験

した兄は、その後、母の帝王切開時の医療費を賄(マカナ)ったり、父の死に直面

して、離婚、妹の養育まで決意しなければならないとは、誠にツイテナイ人だった

と思うのです。しかし、私には真似のできない凄いことだなあと感服しております。

また、結婚してからも仕送りしてくれていましたが、義父の病死後、

妻(10人弟妹の長女)の実家へ仕送りしたのでしよう。我が家への仕送りは途絶え

てしまいました。それにしても20代の若さでありながら随分苦労したのだなあと思う

とともに、家族思いの心のやさしい人間であったことを今偲んでいるのです。 

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2009年2月18日 (水)

高校受験 テストは全教科?

3月5日(水)は北海道立高校の入学試験日です。受験生は最後の追い込みに精を出していることでしょう。合否判定も私達の時代とは随分大きく異なっております。

第一の違いは推薦入学制度があるということ。

第二は学力検査と調査書(学習点)との比重を同等に見ること。この場合、学力検査と評定合計の扱い比重は[10:0][9:1][8:2][7:3][6:4]の中から各学校裁量によって決定されること。

第三は受験科目が5教科(国、社、数、理、英)で、合計が300点であることです。

  • 私達の時代(昭和28年度)は、全教科のテストが行われていたのです。国語15点、社会15点、数学15点、理科15点、音楽10点、美術10点、保健体育10点、技術家庭10点で合計100点なのです。英語10点は参考資料ということで合計点に算入されていませんでした。

このようなことから、受験生は全教科勉強しなければならなかったのです。ですから、主要5教科以外の教科についても授業中は真剣なわけです。しかし今は、音楽、美術等の教科は受験科目でないということで、授業中の態度に真剣さが見られないと悩んでいる教科担任もいるのです。

これは、受験生の負担を軽減するということで科目が減ったわけですが、何か偏っているのではないかと思うのです。国では「心の教育の重視」を声高らかに主張していますが、情操教育に一番関係深い教科がないがしろにされて、指導時数も極めて削減されているのが実態なのです。

日本は技術立国でありますので、理数教科の重視は分かります。また、国際化にともなって語学教育(一般的に英語)を重視する姿勢も理解できます。しかし、英語一辺倒であってよいのでしょうか。

日本は隣国の中国などアジア諸国との結びつきが歴史的に深いわけです。貿易を拡大するには市場を中国に求めざるを得ない状況の中で、中国語なども選択履修できる体制に整備することも大切ではないでしょうか。

フィンランドでは第一外国語、第二外国語を履修することになり、学生が将来どの国の言語圏で仕事をするかによって選択するというのです。また、オーストラリアでは最大の貿易相手国である日本を重要視し、小学校高学年から日本語を必修にしているとも聞きました。外国語の選択性も早急に検討する必要があるのではないでしょうか。また、高校入試には五教科の外に、音楽・美術などの教科から一科目を選択させる方法もそろそろ検討して欲しいものです。

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2009年2月17日 (火)

PTA 必要?

環境は人をつくる」と言われますが、私の住んでいる地域の公園が一昨年改修されました。札幌市や町内会の人達のご努力によるわけですが、樹木や遊具、砂場、東屋、遊歩道なども整備され素晴らしくよくなりました。

放課後や土曜・日曜、祝祭日には、多くの子ども達が憩いの場として楽しげに遊んだり、語らう姿が見られ心が和みます。

私は、子ども時代とは一体何だろうか、ということをよく考えることがあります。好きなことを好きにできるのが子どもであり、子ども時代ではないかと思っています。

ところが、最近、いろいろな調査によると、「夜、眠れない」「疲れやすい」「朝、食欲がない」「何となく大声を出したい」「何でもないのにイライラする」といった、ストレスを持っている子どもが可なりいることが報告されています。また、国立教育政策研究所の研究によれば、ストレスはいじめ行為や不登校などの問題行動に大きな関わりがあることもわかってきました。

このように、現在の子ども達の生活を見ていくと、過去の子ども達にはなかった様々な教育上の課題を指摘することができます。

従って、これからのPTAは「子どもの健全な成長を図る」ために、学校・家庭の教育課題について具体的に把握し、その改善策を求めて知恵を出し合い、一つ一つ実践していくことが大切であると思うのです。

PTAの衰退は地域の衰退につながり、安全・安心なまちづくりに悪影響を及ぼす思うのです。

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2009年2月16日 (月)

トイレ騒動

昨日、を見ました。トイレへ行ったはよいのですが便器から大便がはみ出し、足の踏み場もないのです。悪臭を放ち気持ち悪くて・・・・・ ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ… どうしてこんな夢を見たか分かりませんが、昔の海水浴場の公衆トイレや寒冷期における我が家のトイレの状態が脳に焼き付いていたから??

今は様式トイレで水洗。おまけに肛門を水で洗浄するのが一般的になってきました。しかし、昔は汲取り式で足腰を屈(カガ)めて用をたしたわけです。所謂(イワユル)和式トイレです。

ところで私の大学時代までは、我が家に1mほどの鉄棒があり、冬になると使わなければならなくなるのです。お年寄りの方は直ぐお分かりになると思うのですが、大便が盛り上がり逆ツララのように成長するわけです。従って、あまり高くなると居心地がよくありませんので、その山のような状態を崩す必要が出てきます。その時、使うのがその鉄棒です。

私は、小学5年生ぐらいからその作業を母に頼まれしていたのです。シバレついた大便を崩すのは大変です。氷を割ると同じように破片が飛び散り、時には顔に当たることもあるのです。口に付いたら汚いですから、マスクと水中メガネを使った時もありました。顔についた破片は体温で融け出し手で拭(ヌグ)うと・・・・・臭さが手にも染み付きます。作業前に汚い衣服に着替え、終ると直ぐ洗う必要があるのです。

このような体験をしてきたから、70歳になった今でもそんな夢を見るのでしょう。今の若い人はそのような体験がありませんので、そのような汚い夢で悩むことがありませんからご安心下さい。何れにしても汚い話で恐縮ですが、しかし、毎日お世話になる所ですので避けて通るわけにはいかないのです。

さて、人が忌(イ)み嫌うトイレが意外な力を発揮することを知っておりますか。実は教員時代にこんなことを経験しました。

学年が7クラある学校で5年生を担任した時のことです。掃除当番が3ヵ所割当てられ、その一つにトイレ清掃がありました。学年の男子だけでも150人おり、水洗でない時代でしたので、便器にウンチがこってりと付いている時もあるのです。

当番はローテーションの方がよい、との子どもの意見を尊重しスタートしたのですが、臭いとか汚いなどと不平を言う子どもがおりました。そこでトイレ清掃の意義について話合い、目標を立て、清掃人員は応募制にしました。嫌になったら止めてもいいことを条件にしたところ、数人が応募しましたgoodので褒めてやりました。

目標は「学校で一番きれいな場所にしよう」です。掃除用具の箒(ホウ)、雑巾(ぞうきん)、バケツ、ジョウロ、ゴム手、ブラシ、モップのしまい方も相談しました。

1学期の終り頃、全校朝会で校長が清掃活動について触れ、「全校で一番きれいな場所は5年生のトイレです。」と褒めてくれたため、掃除をした子ども達は大変喜びました happy01その後、他の学年の子ども達がトイレ見学に来るし、いつの間にか、綺麗な花が飾られるようになりました

これまで嘔吐(オウ)の始末は私がしましたが、2学期からは子ども達が嫌がらずにするようになりました。一番嬉しいことは、1学期終了の学級懇談会の折に、親たちが「トイレ清掃でずいぶん子ども達が頑張ったようですね。子どもの手の届かない所は、私達にやらせて下さい。sign03」と申し出があり、その後、皆でトイレを見学に行きました。臭いも殆どなく、つやつやした便器を手で触り感嘆の声を上げていました。

2学期からは、トイレ清掃をしたいという子が多かったので、ローテーションですることに決まったわけです。子どもの心もきれいになったような気がしました。

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2009年2月15日 (日)

アリとキリギリス

イソップ童話の中に「蟻とキリギリス」(原文は「蝉と蟻たち」)という有名なお話があります。きっとどなたもご存じだと思いますが、過日、ある雑誌に、東海林正樹さんという方(牧師)がラジオで聞いたこの話の、今日的な新しい解釈について紹介しておりました。その随筆を私は「なるほど」と思いながら読ませてもらいました。これからの「生き方」を考えるときの参考にしようと思うのです。

このお話は、暑い夏もコツコツと一生懸命働いて越冬に備える蟻と、歌を唄ってばかりいて働かないキリギリスを比較したもので、冬に食料がなくなったキリギリスが蟻に助けを求めるという内容です。つまり、日本風に言えば「備えあれば憂いなし」ということと、自業自得だ、ということを諭(サト)したお話です。

しかし、豊かな時代の今日では、次のように読み替えてみるべきではないかというのです。

確かに蟻の生き方は勤勉で用意周到、私共の模範とするところだが、それは見方を変えれば、働くことに一生懸命で、音楽に耳を傾けたり、自然を眺めたり、誰かと共に人生を楽しむという余裕のない生き方を象徴しているのではないか。

一方、キリギリスの生き方は、決して勤勉とは言えず、計画性も先見性もない、行き当たりばったりのような生き方だ。だが、より積極的にこのキリギリスの生き方を評価してみれば、生きることの喜びを見出し、その喜びを歌うことで周りの者にも喜びや慰めを与えているのではないか・・・・・・・。

これまでは、蟻の生き方だけが高く評価されてきましたし、決して間違った生き方ではありません。しかし、問題はキリギリスが飢(ウ)えた蟻に食料を乞うとき、アリはあざ笑って「いや、夏の季節に笛を吹いていたのなら、冬は踊りなさい。」と言って追い返している態度です。それは「いまさら、何を言っているのだ。自業自得ではないか」という諭しの言葉に違いありませんが、確かに、その通りだと思います。しかし、この諭しの中に込められたあざけりこそが、蟻の人間的な冷たさ表しているのではないかという指摘です。如何でしょうか。

勤勉は美徳でありますが、休日も無く働き、時には過労死、家庭崩壊などの今日的なさまざまな課題が生起されている中で、このことは深く考えなめればならない問題と思われます。

子どもの教育に関しても似たようなことが言えるのではないでしょうか。知識を詰め込めるだけ詰め込み(知識の蓄え)、より高いレベルの学校を目指すことが、我が子の幸福につながるという考えがこれまで支配的でした。しかし、その結果としての受験地獄、歪んだ人間観、「いじめ」や「不登校」の増大などを考えると、イソップ物語の蟻の生き方は素直に肯定されてよいものなのでしょうか。

東海林氏は、他人の痛みに目を向ける余裕すらなくなりがちな現代人に求められるのは、走ることではなく、むしろ立ち止まり、人生の季節を感じ、人生の喜びを歌うことなのかもしれない、と指摘しています。

そして、冬になって食料を求めるキリギリスに「冬は踊りなさい」とあざけるのではなく、温かい部屋へ招き入れ、食を共にしながら、キリギリスの奏でる美しい調べに耳を傾ける優しさが、そして、キリギリスと共に人生を味わい、人生を語り合うぬくもりが、いま求められているのではないかと提起しております。私も共感を覚えます。

いま私達の生活は、溢れるモノに取り囲まれながら、何かしら、満たされぬ思いが募る毎日を送っているのではないでしょうか。このような中で、多くの人達は、次第に「ゆとり」や心の豊かさなど、多様な価値や自己実現を求めるようになってきています。

いま我が国の教育の在り方の方向も、このような考えを視点におき検討されています。しかし、その具現には、私達1人ひとりが、蟻やキリギリスの極端な生き方を求めるのではなく、調和した生き方を追求するよう、意識変革することが先ず大切であると思っております。

「派遣労働者」「富裕層」「格差社会」「リストラ」「詐欺」「赤字」「破綻」などなどがキーワードの社会であればあるほど、いま一度立ち止まって「考えるゆとり」だけでも取り戻して欲しいものです。

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2009年2月14日 (土)

経済不況 今がチャンス!!

何時の時代も子どもを持つ親達は、健康でたくましく、かしこい子どもに育てたいと願い続けてきました。ところが今日、その願いと現実があまりにもかけ離れていく状況に私は強く苛立ちを覚えます。

「いじめ」「不登校」「携帯電話」「有害サイト」「就寝時刻」「朝食ぬき」「生活習慣病」「不定愁訴(シュウソ)的不健康症状」「学習不足」「公立高校の定員割れ」「ニート」「性犯罪」「自殺」などなど、子どもに関わるキーワードを拾うと枚挙にいとまがありません。一体どうなっているのでしょうか。

飽食暖衣、逸居して教えることなければ禽獣キンジュウ:鳥とけだもの)に近し。」という孟子の言葉を思い出します。現代語に訳すれば、「食べたいだけ食べ、着たいだけ着て気ままな生活をし、ただそれだけで教育を受けないとなれば、その人間は鳥やけものと大して違わない。」となりましょう。まさに、今日の教育の欠陥を突いた言葉のように思われてなりません。

今の家庭生活は、冷蔵庫を開ければ冷たい物がすぐ手に入り、ボタン一つ押すだけで見たい番組が見られます。このように子どもを取り巻く環境が豊かで便利になるにつれて、額から汗したり我慢をする機会は次第に少なくなってきました。

ある詩人いわく。「寒さに震えた者ほど太陽の暖かさを感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知ると。

人間は、困難を経験して強くなり成長するものです。難儀に遭ってはじめて人の苦しみに対する理解や同情も深まると思うのです。

この21世紀の時代を担っていくのは、今の子ども達です。この子らに、困難に立ち向かう強い意志、問題解決に積極的に挑む力など、主体的に変化に対応する能力を培わせることが、今求められている教育課題であると思われます。従って、学校教育は勿論のこと、幼児教育、家庭教育のあり方までさかのぼって考えていかなければならないと思うのです。

特に飽食時代の子ども達に、どんな生活を、どんな経験や体験をさせてやればよいのかということを、今こそ親も教師も真剣に考え、できることから一つ一つ実行していくことが大切ではないでしょうか。

私は「涙や汗が人生の栄養だ」ということを、体験的に学ばせる親や教師でありたいと願っているのです。今の不況が、その絶好の機会であると思うのです。

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2009年2月13日 (金)

ピンチに ゴー

人間は面白いもので、窮地に追い込まれる意外にも意欲が湧いてくるものです。

父が43歳で亡くなり、収入源を断たれた我が家は、26歳で結婚したばかりの長男の仕送りと次女の僅かばかりの月給に頼らなければならないという、大変なピンチに陥ったのです。

父の恩給(共済年金)は、期間を満たしていないため少ないとは聞いていたのですが、事務手続きの遅れによって、数か月経っても支給されません。当時、事務職員の配置にならない小規模校(6学級以下?)に勤めていたため、共済組合への支給申請書の記述にミスがあるということで、2、3回書類が戻ってきたとのこと。あせった母は、教育委員会や後志教育局(北海道教育委員会が14支庁に設置していた役所の一つで、ニセコの隣町にある倶知安町が所在地)へ早急に支給してくれるようお願いに出向く程でした。

そのような経済状況になり、かつ、年度が替われば教頭住宅から転居しなければならないことになったのです。ですから私は、次女同様に中学校を卒業して直ぐ就職につかなければならないと覚悟を決めていました。

機会を見てこのことを母に話すと、「何を言っているの。男の子はお嫁さんをもらって子どもを育てなければならないのよ。中学出はきつい仕事に就かなければならないし、おまけに給料も安いのよ。やはり男の子は大学を出なければいけないsign01お母さんが働きに行ってでもお前を大学まで出すからね。心配しないで、とに角、勉強しなさいsign03」と胸が熱くなる            言葉なのです。

母から私の決意を聞いた次男、三男の兄達も「心配するなsign01あと半年すれば俺達も勤めることになるから、安心して勉強するのだぞsign03」と励ましてくれたのです。

このように、母や兄達の励ましによって、やっと勉強する気になった私だったのです。  当面は高校入試が控えています。当時(昭和29年)は、まだ小学区制であり受験校は小樽潮陵高校と桜陽高校の2校だけでした。私達の居住地域は桜陽高校へ進学することになっていたのです。

今まで机に向かうことの嫌いだった私は、兄が作った即席の勉強部屋を利用することにしたのです。その部屋?はトイレの手洗い場なのです。昔の家は、男子トイレと女子トイレが分かれており、手洗い場もトイレと同じ大きさで隣にあったのです。広さは畳3分の2程度で机一つがやっと入る大きさです。壁に板を打ち付けて本棚にし、椅子一つ入れると身動きができないのです。今のカプセル・ホテルに似ています。入口のドアはふすまを利用しました。トイレの個室と同じなのです。

私は、この勉強部屋の利用心得を決めておいたのです。それは、如何なることがあっても2時間は絶対に部屋から出ないということ。勿論、飲食は禁止です。

寒い冬はきちんと身支度をして入室します。マントをはおり、膝にはタオル、手は親指と人差し指を切り落とした軍手のはき、「耳かけ」(寒さを防ぐため耳を毛で被う物)までして入室するのです。足は、ぼろ布の入ったみかん箱に入れて寒さを防ぐのです。雑音も無くやる気を起こす個室なのです。次男も大学時代の一時期、このようなスタイルで勉強していたのでした。

この方法は、眠気さましになり集中することができるのです。時々妹達がトイレに来ますが声をかけることも禁止していましたので気が散りませんでした。母から協力することを厳しく言われていたのでしょう。しかし、母だけは「よく頑張っているねsign01」と小さな声で励まし、静かにトイレから立ち去るのでした。

家族の協力、温かな支援の言葉などが私を支えてくれたため、高校入試に向け頑張ることのできた私だったのです。母や兄姉妹に感謝、感謝なのです。

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2009年2月12日 (木)

教育委員会は 必要? ②

昨日は教育行政執行方針の中の「学校教育」部分について紹介しました。今日は「社会教育」について紹介します。

                <青少年の健全育成>

社会教育の推進につきましては、「第5次社会教育中期計画」に基づき、町民みなさんが学習ニーズに応じた学習機会を多様に選択できるよう図ってまいります。さらに生涯を通して学びあい自己実現を図る「生涯学習社会」を目指して、学習情報の提供や相談体制の充実など諸施策の推進に努めてまいります。

第一は「青少年の健全育成」についてであります。

今日の激しく変化する社会環境の中で心身ともに健やかな成長と豊かな人間形成を高めるためには、さまざまな生活や活動体験など各種育成事業を促進してまいります。

また、青少年育成会と連携を図り心豊かな青少年となるよう、青少年を取り巻く諸問題に対処しながら、その環境づくり努めてまいります。

自然教育につきましては、本町の特色ある○○の森や里山自然などとのふれあい共生を目指した環境保全の意義を考え、環境問題に関する多様な知識や技能の普及に努めます。

さらに多くの自然関係団体と連携し、自然環境を守り育てる心の涵養、自然から学ぶ生きる力など、子どもから大人まで心温まるふるさとの自然学習の向上に努めてまいります。

                   <文化振興>

第二は「文化振興」についてであります。

物質的豊かさから潤いやゆとりと言った心の豊かさを求める時代です。町民への自主的な文化活動に対する支援の充実、また個性的な文化を創造するために身近な芸術・文化に触れる機会を拡充し、真に豊かな町民文化の振興を目指してまいります。

また、貴重な本町の文化財を後世に継承するために、文化財保護条例を制定し、文化財の保護と活用に努めてまいります。

図書館活動につきましては、地域に根ざした情報提供や読書普及をすすめ、あらゆる情報発信できるコミュニティ図書館の役割を高め、利用者ニーズに迅速かつ適正に対応できる特色ある図書館づくりに努めてまいります。

また、子どもが読書に親しめる機会提供を学校や各施設と連携・協力を深め、気軽に利用できる図書の後方支援活動を推進してまいります。

          <スポーツ・レクリエーション活動の促進>

社会体育につきましては、子どもから高齢者まで、町民皆さんの誰もがスポーツ・レクリエーションに親しめる環境づくりを図り、生涯スポーツの振興に努めてまいります。

第一は「スポーツ・レクリエーション活動の促進」についてであります。

多くの体育施設を有効活用し、それぞれのニーズに対応した各種スポーツや健康増進のための「体力・健康づくり教室」の充実を図ってまいります。

また、スボーツイベントや各種大会の奨励をはじめ合宿誘致を積極的に行い、スポーツ交流人口の拡大を図り、心身ともに活気に満ちた「スポーツ元気都市」を目指します。

特に、年々定着しつつあるスポーツ合宿につきましては、心温まる受け入れをし、まちぐるみの「合宿の里」づくりをすすめてまいります。

           <スポーツ指導者養成と団体育成>

第二は「スポーツ指導者養成と団体育成」についてであります。

指導者の育成につきましては、生涯スポーツの多様化や競技スポーツの高度化の中で、町民ニーズに対応できる指導者の充実を図るほか民間指導者の発掘に努め各種講習会への派遣事業を実施してまいります。

団体の育成につきましては、体育協会・スポーツ少年団本部や地域スポーツ振興会の運営活動や各種大会に支援してまいります。

また、地域ぐるみで多世代、多様なスポーツを愛好する人たちで構成される、新しい地域ぐるみの「地域スポーツクラブ」の育成について支援してまいります。

以上が社会教育・社会体育に関わる教育行政の執行方針なのです。如何ですか。教育委員会の守備範囲は誠に広いのです。片手間で推進できるものではないのです。社会の動向を読み、長期的な展望のもとに地域に根ざした教育・文化・スポーツの振興を図らなければならないのです。

従って、教育委員会は絶対必要なわけです。ただ、名称が誤解を招くわけです。教育行政を推進する役所を「生涯学習推進事務局」とか、本州のある県では「教育事務センター」の名称にしているところもあるのですが、その方が分かりやすいと思います。

教育委員会」という場合は、教育委員の方々が会議をする会の名称でもありますので明確に区別できると思うのです。世間一般では「教育委員長」と「教育長」も混同して使っている時もあるのです。事務方のトップが教育長であり、教育委員(3,5人で構成されているのが一般的)の代表が教育委員長なのです。組織的には教育委員の構成メンバーの1人に教育長もなっているのです。

そして、教育長は教育委員の中から互選することになっておりますが、実際は首長が事前に人選しておき、形式的に教育委員会へかけ、議会の承認を得ることになっているのです。

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2009年2月11日 (水)

教育委員会は 必要? ①

今、国政段階では「予算委員会」が開催され、首相の政権運営や発言の「ぶれ」に対して厳しく批判する野党の姿が報道されています。

北海道をはじめ地方議会は、年に4回(3、6、9、12月)定例議会が開催され、特に3月の議会では「行政執行方針」や「教育行政執行方針」を述べ、地域住民の理解・協力をあおぐことになるのです。そのため、1、2月はその準備のため大変忙しい時期なのです。

たまたま本箱に置いてあったファイルに私が教育長をしていた時代の「教育行政執行方針」がありましたので、このブログを通してお読みいただくと、教育委員会の仕事の一部がお分かりになると思います。なお、町長から「挨拶のできる子どもたちに育てて欲しい」との強い要請があり、それを具体的にどのような手だてで具現化するか苦慮した年度だったのです。

では何故、町長が挨拶にこだわったのかと言えばこうなのです。

登庁する途中で小学生に出会ったのです。それで大きな声で「お早う」と言ったところ、その子が不審そうな顔で振り向き、直ぐさま急いで立ち去ったとのことです。町長から挨拶されているにも関わらず、返すことなく立ち去るとは失礼極まりないとの弁なのです。

私は、反論しました。今世間では不審者が横行していて、全国各地で子どもたちが犯罪に巻き込まれていること。また、見知らぬ人に声をかけられたら急いでその場を立ち去るよう学校では指導していること。従って、ドスの効いた声で大きな身体の人に突然挨拶されたのですから、驚くのは当たり前であること。子どもたちは町長の顔を知っていないのですからご理解下さいと話しても納得してくれなかったのです。

挨拶をすることは生活習慣の基本であり、1人ひとりが身につけておかなければならない事項ですが、家庭での「しつけ」が乱れている現状から、なかなか定着させることは難しいものと思うのです。しかし、理事者のトップからの要請です。このように、たかが挨拶一つにしても難しい問題があるわけですから、教育一般となると計り知れない問題が横たわっているのです。ましてや、予算面も考慮しなければならないのですから、教育委員会も大変なわけです。

前置きが長くなりましたが、参考までに教育行政執行方針(平成16年度)を紹介します。

教育行政執行方針

 今日、我が国は創造性と活力に満ちた豊かな社会をめざして、政治、経済をはじめさまざまな分野において、21世紀に相応しい新しいシステムづくりの諸改革が進められています。

教育委員会といたしましては、「国家百年の計」である教育、中でも人間形成にもっとも重要な時期の教育を受け持つ学校は、教育改革の中心に位置すると認識しております。従って、各学校において「我が校が良くなった。教育が変わった」と実感できるような学校づくりの取組みを一層強力に推進してまいります。

また、町民1人ひとりが生涯を通じて、新しい可能性や輝きのある自己を発見し、多くの仲間と生きがいを持って人生を楽しむことができる生涯学習社会の構築に向け、各種の教育施策を展開してまいります。

さらに、町民のだれもが、生涯を通じてスポーツやレクリェーションに親しみ、健康で充実した生活を営むことができるよう、スポーツや体力づくりの普及・促進を図る環境づくりに努めてまいります。

また、ふるさとの伝統文化の継承や文化財の保存活用をはじめ地域における芸術文化の振興等、積極的に支援をしてまいります。

このため、関係団体や関係部局とも連携・協力を図りながら、「かがやきを創るまちづくり」・「新世紀を担う人づくり」教育を地域社会全体で取り組み、町民皆さんの大きな期待に応えてまいります。

         <確かな学力を保証する教育課程の評価・改善>

はじめに、学校教育について申し上げます。

子どもたちに、ゆとりの中で「生きる力」を育てることをねらいとした新学習指導要領が、完全学校週五日制のもとで全面実施されました。しかし、子どもたちの学力について様々な考えや意見が示されるなど、社会的にも大きな論議を呼んでおります。

また、新設された「総合的な学習の時間」の活動についても、イベント的な展開が多く、各方面から問題提起もなされており、新教育課程を経営的視点にもとづき再検討を進めてまいります。

新しい時代を切り拓く心豊かでたくましい子どもの育成を、より力強く確かなものにするため、各学校が創意工夫を凝らし特色ある教育や学校づくりに各種の支援策を講ずるとともに、適切な指導・助言を行ってまいります。

第一は「確かな学力を保証する教育課程の評価・改善」についてであります。

学校教育の基本的となる学力保証は、生涯にわたる学習の基盤をつくることになり中心的な役割と考えられます。

新学習指導要領に則っての実践が二年経過し、「読み」「書き」「計算」の定着と学習時間の確保、身につけさせたい力と学習・活動内容との関係などを検証しながら、教職員あげて教育課程の改善を図るよう努めてまいります。

また、英語教育の今日的方向を明確化し、各中学校に継続配置した英語指導助手の指導計画を改善してまいります。

さらに、障がいや発達の遅れがある児童生徒の教育については、その障がいの多様化に即した指導体制の工夫改善と教育条件の充実にも意を注いでまいります。

    <豊かな心の育成と家庭との協力を生かす生活習慣指導の推進>

第二は「豊かな心の育成と家庭との協力を生かす生活習慣指導の推進」についてであります。

現代は「豊かさの中の貧困」とも言われ、力強く、旺盛な生活力と豊かな心を持つ子どもが少なくなっているとともに、家庭環境の変化によって、本来、家庭における最も大切な役目である基本的な生活習慣の希薄が指摘されております。

このような状況から、学校教育においては、家庭や地域社会との連携協力を密に、子どもの基本的な生活習慣の形成にかかわる指導の充実を図ることが求められております。

このため、生活習慣の基本である心と心をつなぐ「あいさつ」を家庭と学校から地域へ、地域から学校と家庭へ広げてまいります

また近年、食生活の乱れから正しい食事のあり方や望ましい食習慣の形成は今や国民的な課題となっております。とりわけ成長過程にある子どもたちが食生活の正しい理解と食習慣を身につけられるよう、食教育に関する指導体制の整備が強く求められております。

このため、教員、学校栄養職員等を中心に家庭とも連携し、学校の教育活動を通じて発達段階に応じた食生活に関する指導を推進してまいります。

一方、豊かな心を育むため学校においては、道徳の時間をかなめとして地域の自然や社会環境を生かした豊かな体験活動を通じて一層指導の充実を図ってまいります。

      <地域に信頼される開かれた学校づくりと教員の資質の向上>

第三は「地域に信頼される開かれた学校づくりと教員の資質の向上」についてであります。

児童生徒の健全育成は、学校教育だけでなく、学校と家庭、地域相互の信頼に根ざした、社会全体が子どもたちのたくましい成長を願って協力し合うことが大切であります。

このため各学校において、校長の強いリーダーシップのもと、保護者や地域住民からの強い信頼と協力を得ながら、全ての教職員が一致協力して、教育活動に取組ことが何より必要と考えます。

また、学校の外部評価の取り組みを進め、積極的に情報を公開し学校ニーズに応じた教育活動への地域人材の派遣地域公開授業の促進を図ります。また、学校評議員や地域住民の意見を聴取し、学校と地域との双方向のコミュニケーションを広げ、信頼される学校づくりに努めるよう指導・助言してまいります。

さらに、子どもの教育を担う教員の資質は、教育の成否を左右するばかりでなく、子どもの人格形成にも大きく関わりをもつものであり、その向上は教育上の最重要課題であります。

とりわけ、新しい教育動向の中で、社会変化に対応する柔軟な発想や教育課程の全体計画策定能力、教科指導等の専門的知識、そして豊かな人間性にもとづく実践的指導力が強く求められています。

このため、校内研修の充実をはじめ長期休業期間中の研修を含め、各種研修活動への積極的な参加を促進してまいります。また、学力向上研究校や教育振興会への援助も図ってまいります。

ここまでは、学校教育の推進について私の考えを述べていますが、どのようなストラテジー(方略)のもと、具現化するための手順・戦術等を念頭に置いて教職員団体や校長会・教頭会・教育振興会、PTA、その他の教育団体への啓発などを図り推進していくわけですので、もし教育委員会(事務方)が廃止され、知事部局や首長部局へ吸収された場合は、どうなるのでしょうか。また、教育の中立が守られるかどうか大変疑問です。

                                                (つづく)

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2009年2月10日 (火)

ストレス 酒びたり 早死に

Photo

上の写真は旭川師範学校在学中の父です(後列左)。ところが43歳で死亡

する3,4年前から紙を持つ手が小刻みに震えるようになってきたのです。

恐らくアルコール中毒になっていたのではないでしょうか。

ある時、母に「父さんは、結婚した当時から晩酌をしていたの?」と聞くと、

「いいえ、違うの。父さんはそんなにお酒が好きでなかったのよ」とのこと。

「若い頃の父さんはどんな人だったの?」と再度聞くと、概ね次のような内

容のことを話してくれました。

①新採用教員として赴任してから1年間、毎朝、食事もとらないで出勤し

 ピアノの練習に励んでいたので、母が朝食の弁当を届けたこと。

 (父は学芸会の時、殆どの学年のピアノ伴奏をしていたし、マンドリン、

 クラリネットも上手だった)

②いろいろな研修会があると率先して参加し頑張っていた。だから、水泳

 やスキーの指導員の資格もとることができたこと。

③帰宅してからは毎日のように、何か難しい本を読んでいたこと。

④とに角、真面目な好青年であったため職場の女教師が熱を上げたとの

 こと。

 「飲むようになったきっかけ?」との質問に対して、

①初めて勤めた長橋小学校で、校長にたて突き(反抗的な態度をとったり

 逆らうこと)手宮西小学校へ転勤させられたことに不満を持ち、自棄(ヤケ)

 になって飲むことがあったこと。

②子どもが4、5人になり経済的にゆとりがなくなってきた時、満州へ行き

 たいと言い出し、どうしても行きたいなら私を離縁(離婚)して下さいと猛烈

 に反対した。それで夢が断たれた不満から晩酌の傾向が見え始めたこと。

③外地(満州や樺太、台湾など)で勤務すると手当てがつき、生活が楽にな

 ると言っていたが、私は旭川市に在住していた母を置いて行くわけには行

 かなかったので拒否し続けたこと。(母は親1人子1人であったため) 

④派閥によるトラブルでストレスが溜まっていたこと。

⑤終戦まもなく、組合(北海道教職員組合)が発足したとき、役員となり組合

 活動に専念したいと言い出した時、また私が強く反対したこと

などの理由が重なって、あのように酒を浴びるようになったのではないかと

母は説明してくれたのです。

父は養子なので、母に頭が上がらず、母と折り合いが合わなくなると、

「分かった!俺が出て行けばいいんだろうsign03」と言って、友達の所に数日

泊まって来ることがあったのだそうです

今の私は、日頃のストレス解消のため酒に溺れていった父の心境が分か

るような気がします。しかし、血便がおり医者から胃潰瘍初期と宣告されて

いたにも関わらず、治療もせず胃の痛みを酒で紛らす父の態度は決して

許すことができないわけです。

今更、亡き父を批判しても後の祭りですが、自己責任についてもっと考えて

欲しかったのです。

  自暴自棄にならず自らをコントロールする父であって欲しかった

です。そういう意味からは、父は意思の弱い男であり哀れな男の1人で

あったと思うのです。天国にいる親父さん!勝手なことを言ってご免なさいsign03

[注釈] 教員仲間は派閥(別称、軍団とか会社とか言われ出身学校別に

作られた同窓会組織)を作り、たがいに切磋琢磨したり、時には利害をとも

なう圧力団体に変身?することもあるのです。同じ職場に勤務する教員で

あっても、「同じ釜の飯を食ったものは可愛い」との意識から、人事面で

優遇したり、時には後輩からいろいろな情報の提供を求めて策を練ることも

あるのです。

また、教員の異動時期になると自校へ優秀な後輩を入れ、学校経営への

協力や推進力になってもらうことを期待したわけです。

父の教員時代は、北海道には下記のような師範学校がありました。

  学 校 名       別  称      現 在 名

・札幌師範学校    第一師範学校   教育大学札幌校

・函館師範学校    第二師範学校   教育大学函館校

・旭川師範学校    第三師範学校   教育大学旭川校

三校体制は全国で東京都と北海道のみでした。しかし終戦後は上記三校に

加え、樺太師範学校や台湾師範学校、青年師範学校(教育大学岩見沢校)、

教育大学釧路校があり、それぞれ出身学校別に同窓会組織が結成されて

いたのです。

中でも歴史の古い三校が北海道教育振興に大きな影響力を及ぼし、教育界

の中核組織に優秀な人材を送り込み、時には横暴極まる人事配置をしたり

排他的態度をとる傾向さえ見受けられた時代もあったのです。

現在ある同窓会は

札幌校は北師同窓会(別称①)、函館校は夕陽会(②)、旭川校は六稜会(③)

岩見沢校は青陵会、釧路校は鶴稜会であり、地域によっては更に啓友会、

科挙などの名称で本州の大学出身者や教育大学系以外の出身者が集う

同窓会もあり、派閥抗争も深刻な時代があったのです。今は、同窓会に入

る教員があまりいないと言うことで幹部がなやんでいる時代になったようで

す。また教頭のなり手がいなくなり、教育委員会を悩ませる地域もでてき

ているのです。

父の時代、小樽市は夕陽会(②)が一番勢力があり、次に北師同窓会(①)で

人数の少ない六稜会(③)は無視されがちな状況だったわけです。

ですから、父が教頭になったのも教育長が一期後輩で同郷の人の時であり、

みえみえの人事であったことと、若干39歳であったため他派閥からの風当

たりが可なり強かったようなのです。

祝津小学校に於いても、ある函館師範出身の教員が父が補欠授業から

職員室へ戻ってくると、教頭の席に座り

「○○先生が教頭なら、私は校長であっても可笑しくないよね」と言って、

胸を張りながら煙草をふかしていたとのこと。

また、手宮西小学校に勤務していた時代に研究授業後の批評会で、痛烈な

批判をするのは他の派閥教員であったため、父は帰宅後

「今日は、○○と△△にやられた。今に見ていろ!今度徹底的にやっつけて

やるから」と言いながら、自棄酒(ヤケザケ)を飲んでいたとのこと。だから、

他の先生の研究授業の時でも、猛烈に調べて論戦を張ったのだそうです。

私の現職時代を振り返ってみると同じようなことがあったので、やはり私も

父の子だったのだとつくづく思うのです。血は争えないものです

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2009年2月 9日 (月)

56年前の 野辺の送り

下の写真は学校葬として執り行われた父の野辺の送りの貴重なスナップ

写真です。

Photo_3

龍泉寺から100メートル程の所です。これから約500メートル行くと焼場が

あるのです。今の祝津霊園の場所です。

先頭でモーニング姿の人が父の上司であった校長です。

中央の背の高いのが長男。私は学生帽をかぶり、何故か下駄を履いています。

その右後方でチーフをしている子が直ぐ下の妹、次男が末の妹を抱っこして

います。その右の白っぽいスーツ姿が次女、その右隣が母なのです。

この写真ではよく分かりませんが、棺は大八車(大きな2輪の荷車)の上に

あり、荷台から長い紐(ヒモ)を張って皆で引くのです。沿道で小学生が見送り

してくれていますが、おそらく4時間目の授業を中止して参列してくれたので

しょう。

10数分で焼場に着きました。かまどの前で焼香をし鉄板の上に棺をのせ、

扉をしめます。私達男兄弟はかまどの裏に回り、棺の周りに焚(タ)き木を置

いて火をつけ、最後にかまの裏蓋(フタ)を閉じました。

数分して火のまわりがよい状態かどうか確かめるため、覗(ノゾ)き穴から見る

のです。おんぼやき(墓を守り、火葬の際、死骸を焼き埋葬を業とする人、

当時そのように呼んでいました)の人が覗いてみないかと言うことで挑戦して

びっくりです。真っ赤な炎の中で合掌している父の姿。ところが、手がぎゅっと

動き出したのです。一瞬父が生き返ったのではないかと錯覚を起こし、

「父さん熱いだろうなー」  アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!・・・・・・・・・・・・。

このことを義兄に聞くと

「熱で手の筋肉が伸びるから動くのだよ」とのこと。義兄は終戦後、シベリヤ

抑留生活を送り、戦友をダビ(戸外で火葬にする)に付したことがあるので

冷静なのです。

さて、繰上げ法要も終わり我が家に戻りました。仏壇の前に父のお骨を置

き改めてお参りしました。母は信心深い方ではなかったのですが、

今日から49日間、喪に服します。歌を聴いたり唄ったりしては駄目です。

ラジオを聴いても駄目。食べ物に肉、魚は使いません。精進料理ですから

我慢するのです」と通告するのです。

それから毎日「歌舞音曲禁止なのです。ラジオも聞けません。おまけに

精進料理ということで大根、芋、キャベツなどの野菜と油揚げの煮付け、

豆腐、納豆がおかずなのです。きっと母は、おかず代、電気代などを節約

するためにこのような策を採ったのではないかと、今は思うのです。

しかし、私はNHKの連続放送劇の新諸国物語「笛吹童子」か「紅孔雀」の

どちらか忘れましたが、母に強引にお願いし「小さな音で聞くこと」を条件に

許可してもらったのです。日曜日の7:30からの「今週の明星」と8:00から

の「とんち教室」は許可が下りず、断念したことを覚えています。

[注釈] 学校葬は現在でも行われることがあるようです。私立学校の校長

や理事長が亡くなられたときが多く、公立学校の場合は何かと難しい問題が

ありますので、敬遠することが多いように見受けられます。父の場合も、当該

学校長が教育委員会と相談して決定したのではないでしょうか。

母は学校葬であるので葬儀にかかる経費は、全て学校側で出してくれる

ものと思っていたようですが、残念ながらそうではなかったのです。収支決算

はかろうじてマイナスではなかったのですが、料理に使った調味料やお米など

は、お手伝いに来て下さった方々が持ち帰ったため母は残念がっていました。

ただ嬉しいことは、当分の間、公宅を出て行かなくてもよいということを教育

委員会が言ってくれたことと、商店の方々が「祝津にいる間、ツケでもいいよ

との温かい支援があったことです。

なお、ツケとは現金買いではなく買物通帳(通い帳)をお店に持って行き、

買った品物と代金を記入してもらい、1ケ月ごとに支払うという買い方です。

ところが、祝津ではツケの精算払いは漁があって現金が手に入った時で

よいという商い習慣があり、商店によっては鰊(ニシン)が獲れた時に一括

してツケを払ってもいいという太っ腹な商人もいたのです。

従って、我が家では死亡一時金や火葬埋葬料が入った3月に6ケ月分まと

めて払ったので助けられたわけです。これも連帯意識や仲間意識の強い

漁師町の人達のお陰なのです。

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2009年2月 8日 (日)

学校葬で旅立つ父

父の葬儀は、祝津の龍泉寺において学校葬で行われました。

なぜ学校葬なのか理由は分かりませんが、おそらく殉職(ジュンショク:職

務のために死ぬこと)扱いにしたのではないでしょうか。父の自慢の一つは

俺は一日も学校を休んだことがない”ことなのです。

当時としては、そのような価値観は美徳だったかもしれませんが、結果的に

は、それが禍(わざわい)を招いたと言っても過言ではないと思うのです。

お通夜や告別式には実に多くの方々が参拝に来られました。教育委員会

の方や北小樽の小中学校の校長や教頭、私の担任、教え子、祝津小の

PTA、近所の方々、クラスメイトなどなどです。龍泉寺の本堂に入りきら

ない方々のため、境内にテントを張って対応をしておりました。

いよいよ読経が始まりました。

「帰命無量壽如来 南無不可思議光 法蔵菩薩因位時 在世身在佛所」

(キミョウムリョウジュニョライ ナムフカシギコウ ホウゾウボサインニジ

ザイセジザイオウブツショ)・・。我が家の宗派は浄土真宗のお東とのこと。

母が時々覚えたお経の一節を口にすることがあったので、私も覚えました

が全く意味不明です。

お通夜の最後に司会の方が「これより喪主の方より ご挨拶をいただきます」

と前触れもなく言われた兄。緊張した面持ちで祭壇の中央に進み、

毎度、お引き立て下さり、ありがとうございます。父は・・・・・・・・・・」

と最初に言ってしまったのです。会社で営業担当でしたので、普段使っている

挨拶の言葉が自然に出てしまったそうです。

このことを通夜の労いの席で義兄に指摘され、兄は初めて気づいたのです。

話すことを専門とする先生方の前で、若干26歳の兄が喪主代表で挨拶す

るとは・・・・気の毒に・・・。私は長男でなくてよかったなーとつくづく思ったの

です。

今は、葬儀委員長が代って挨拶してくれるのが北海道の慣わしになっ

ていますが、当時の校長も初めてのことであり、このような式次第になったと

推察されます。

告別式の弔辞も教育委員会、北小樽校長会、祝津小学校長などの方々から

いただき、父の業績を称えてくれたのですが、

   ”残された子供達がかわいそうなので、

       何らかの形でお力になっていきたいと思う。

          ですから、どうぞ安らかにお眠り下さい

と言うのが多かったように記憶しております。

告別式も滞りなく執り行われ、いよいよ出棺です。野辺の送りです。

                                         (つづく)

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2009年2月 7日 (土)

父 黄泉(ヨミ)の国へ

病室の窓から柔らかな明かりが射し込み、父の傍で心配そうに座っている

母の横顔が見えます。私が起きたことに気付いた母は、

父さんの足が氷のように冷たいので、家に帰って湯たんぽを持って来て

くれる?と頼むのです。

「そんなに急がなくてもいいから、朝ご飯を食べてからでもいいよ!」とのこと。

今日は月曜日。まだ6時頃ですが、学校へ行かなければならないので私は

近道になる山道を急ぎました。誰も歩いていない静かそのものの山道です。

やっと家に着き、湯たんぽを準備し朝ご飯を食べている最中です。

「ごめん下さい!お早うございます!」との声。姉が玄関へ出て行くと、いつも

お酒を買いに行っているお店屋さんの奥さんなのです。

今、お母さんからお電話があったのですが、

                お父さんが今しがた亡くなった

とのことですのでお知らせに参りました。本当に大変なことになりましたね。

とのこと。気丈夫にも泣きたい気持ちを抑えて姉は、

「わざわざお伝えに来てくださりありがとうございます」と丁寧にお礼を言って、

茶の間に戻るやいなや大きな声で泣き出したのです。

父の死を知った私は、義兄(姉の夫)と一緒に診療所へ急ぎました。

山道を戻りながら、次から次へと出る涙を抑えることができません。義兄は、

力を落さないでsign01!これから強く生きるのよsign03」としきりに慰めてくれるの

ですが、私は「父さんの馬鹿sign01父さんの馬鹿sign01」と呟(ツブヤ)きながら歩い

ているのですが、心の中ではこんなことを思っていたのです。

”俺は損をした。兄さん達みんなが大学まで出してもらっているのに、

俺は高校にも行けないかもしれない。馬鹿くさい!損した!損した!”

何度も何度も呟いているうちに、診療所に着きました。きっと母は泣きじゃ

くっているのではないかと思い、恐る恐る病室のドアを開けました。

は驚くほど冷静なのでびっくりしました。涙を一滴もたらしていないのです。

安心しました。すると急に異様な臭いが鼻をつくのに気付いたのです。

大便にどぶ水(汚水)と嘔吐を入れ、かき混ぜたような異様な臭い。これまで

嗅いだことのない臭いが、父の臥(フ)している布団から漂って来るのです。

母は

「父さんね、胃袋が腐ってとけてしまった。この布団もう使えないわね?

捨てるしかしようがないわね!」とのこと。

昼過ぎ、父の遺体を兄達が運んできたようです。「父さんが帰ってきたので

お参りしなさいsign01」との母の声です。書院づくりの座敷に北枕で寝ている父

の姿。そっと白布を取って見ると、そこには目を見開いた父がいるでは

ないですか。まるで生きていると錯覚するほどの表情なのです。

つい「父さん!父さん!」と呼んでしまいましたが、一言も声を発してくれま

せんでした。

母は弔問客への対応や父の「死に装束(ショウゾク)」を縫っていました。

白木綿を、はさみを使わず裂いて裁ち、結び玉もつけず返し針もしないで

左手で縫い放しにしてつくるのです。浴衣のような物です。その他に三角

頭巾、手甲(テッコウ:手の甲をおおう布)、首から下げる袋などなどです。

母はもともと左ききであり、札幌の洋裁学校で右ききに強いられたため、

どちらの手でも上手に縫うことができたのです。

ところで、長男は父の死をまだ知っていません。

実は数日前、結婚式を挙げたばかりであり、今日は新婚旅行を兼ねて

勤務先である福岡県へ旅立ったとのこと。嫁の実家から、何時の汽車に

乗ったのかの情報をもらい、次男か三男が小樽駅へ急ぎました。駅員さんに、

鉄道電話を使って函館駅で場内放送をしてくれるよう懇願したようです。

結婚したばかりのほやほやな新郎新婦である兄達夫婦は、連絡線に乗る

ため、プラットホームを移動中だったのです。本当にラッキーなことです。

場内放送を聞いた兄達は、駅舎へ行って初めて父の死を知ったのです。

                                      (つづく)

[注釈] 父が43歳で死去した時、我が家の家族構成は下記の通りです。

・母(44歳)  ・長男(26歳)~小樽「三馬ゴム会社」の福岡支店勤務 

・長女(25歳)~既婚で2人の子持ち   ・次男(23歳)~小樽商大4年生

・三男(20歳)~学芸大学札幌分校2年  ・次女(16歳)~縫製工場勤務

・四男の私(14歳)~中学3年  ・三女(10歳)~小学5年 

・四女(7歳)~小学2年   ・六女(4歳)

従って、父の死去した月(教員の給料日は毎月21日)から我が家の収入

源は、長男の仕送りと次女の僅かな給料のみであったのです。

そうした過酷な生活状況の中で、私達兄弟姉妹はどのようにして生きて

きたのでしょうか。

たまたま、昨年、長男が80歳で亡くなり、次男も脳血栓で記憶が定かでない

状態です。姉や兄はPCなどしません。従って、元気でいる私がブログを通し

て、娘や息子達に私達の「生き方」を伝えておくことはムダではないと思って

今、綴っているのです。

昨今は、史上空前の経済不況と言われ、リストラによる失業者の増加、

派遣職員を消耗品のように扱う経営者のものの見方や考え方、そして格差

社会など血も涙もない社会になりつつあります。しかし、そのような中で自分

を見失うことなく生きていくにはどうしたらよいのか、お互いに考えていくことが

重要であると思うのです。

今は、何やかにやと言っても、社会保障が発達しており、道ばたに行き倒

れや栄養失調で倒れている人を見かけません。また、食事時に乞食(コジキ)

など姿を現しません。「楽して生きよう」とは思わず、辛かろうが安かろうが、

とに角、生きていくために歯を食いしばって耐え忍ぶ強靭な心で臨むと、

また、日の昇る時もあるのです。世の中、晴れの日もあれば雨や雪の日も

あるのです。「見る」「聞く」「話す」「嗅ぐ」「歩く」「噛む」「叫ぶ」などなどの力が

ある限り生きていけるのです。

ネバーギブアップ:けっしてあきらめないで生きぬいて欲しいのです。

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2009年2月 6日 (金)

父 七転八倒の苦しみ

昭和28年9月12日(土)の夜。祝津小学校で映画会が開かれていました。

子ども達と一緒に観賞していた父が、猛烈な腹痛を訴え、リヤカーに乗せ

られて帰宅したのです。途中、診療所(医師一人)で診てもらったと思うの

ですが、時間が経つにつれて痛みが激しくなり、七転八倒の苦しみで、

部屋中をのたうちまわっていました。その内に衣服を脱ぎ捨て、フンドシ

いっちょうで「痛いsign01痛いsign03」と叫んでいるのす。

近くのどの家にも電話がなく、ましてタクシー会社もない辺地な漁師町です。

大きな病院といえば約2里以上離れている小樽市立病院しかありません。

今のように救急車など勿論ない時代でしたので、母や兄達は右往左往する

状態だったのです。しかし、数時間してから痛みも少し和らいだとみえて静

かになっていきました。

そして翌日、隣町の高島診療所に入院しました。兄達が入院に必要な寝具

Photo

や洗面道具などを搬入し、

既に結婚していた姉が母と

一緒に付き添いました。

ところが、母が買物か何か

で病室を離れた時に、父が

ムカツクと言うのでバケツを

差し出すと、どす黒い血を一杯に吐いたそうなのです。

慌てた姉はどうしたらよいのか分からず頭が真っ白になったそうです。

気を取り戻した姉は、その血をトイレに捨て、その後はただ父の傍に座って

いるばかりだったのです。

したがって、父の異変については、母も医者も知らずにいわけなのです。

私は夕飯が済んだ後、姉と交代で付き添うことになりました。病室へ行くと

母の表情もよく父もすやすやと寝ています。どのぐらい時間が経ったか分

かりませんが、父が何かを言っているのです。

「父さん、なーに?」と母が聞くと、

酒が飲みたいので買ってきてくれ!」と懇願するのです。

「父さん、何言っているの。入院患者がお酒を飲むなんて聞いたこと無

いですよsign03 その位、我慢して下さいsign01」と言ったのですが、

「ああー飲みたい、飲みたいsign01」と再度訴えるのです。

「父さん、今何時だと思うのsign02 モムーリ!o(゚Д゚)っ 夜中の1時過ですよ。

何処のお店も閉まっているでしよう! 我慢して下さい。朝になったら

新鮮な牛乳でも買ってきますから!」と母が説得しているのです。

諦めた父は、また静かになりました。

しばらくすると、今度は「寒い!寒い!」と言うので母が足を触ってみると、

まるで氷のように冷たいのです。その足を何回も何回もさすっている母の

姿を見ながら、何時しかまた深い眠りにつく私でした。

                                       (つづく)

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2009年2月 5日 (木)

仏心? 変身した父

母が寝言で父を非難したせいか、どうか?分かりませんが、父の態度が

変ってきたのです。

これまでの父は、帰宅すると冷奴をおかずに晩酌を始めます。ご飯をほん

の僅か食べた後入浴。それからラジオを聴きながらごろ寝。夜中に目が

覚めると「中央公論」「小説現代」「太陽」などの月刊誌を読んむのが日常的

な生活態度だったのです。

ところが、私が中学2年生後半あたりから、酒買いのついでに「ぜりービー

ンズ」を30個買ってくるようにと言うのです。景品に使うためです。即ち、

夕飯後の一家団欒敷に、ゲームをしようと言いだすのです (・_・)エッ....?

トランプの「七並べ」「ページワン」「神経衰弱」「ばば抜き」「うそ」などです。

また、時には「双六」「百人一首」などもしました。ゲームの参加者は、多い

時は7人です。父を先頭に、兄2人、姉、私、妹2人であり、一番下の妹は

まだ4歳でしたのでやり方が分からないので母の膝に乗り見物です。

ぜりービーンズの景品は、1等7個、2等6個・・・・・7等は1個であり、残り

2個は見物している妹と母の分なのです。下から二番目の妹は負けて景品

が1個しか当たらないと残念がってよく泣き出しましたので、兄や姉たちが

自分の当たり分を分けて上げることがよくありました。とに角、楽しいひと時

が持たれる家庭になっていったのです。

この様子を見ていた母や兄達は、

この頃の父さん一寸変だよねsign02 仏心(ホトケゴコロ:慈悲の心)が出てきて、

何か気持ちが悪いよねsign01」とつぶやくことがあったのです。

ところが、その予感が現実のものになるとは誰も気づいていませんでした。

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2009年2月 4日 (水)

母の寝言

毎日毎日、酒ばかり飲んでいてsign01本当に嫌になっちゃうーsign03

うるさい、この馬鹿 (# ゚Д゚) ムッカー  何言ってるんだangry

このセリフは母の寝言に対して、父が応えた言葉なのです。父は酒好き

で毎日晩酌をしていたのです。

私は小学2、3年生の頃から酒買いに行かされました。冬などは四合瓶片手

に穴の開いた毛糸の手袋をはきながら、片道1キロメートル程ある店屋へ

夜道にも関わらず行ったのです。

店屋の女主人が

夜だというのに、よくもこんな小さな子に酒買いにやらせるものだねー。

ほれ、僕、お駄賃にこれ上げるからしゃぶって行きなさいsign01

と、たんきり飴を2、3個くれるのです。夜道は恐ろしかったのですが、飴を

もらえると思って我慢していたのです。

父が39歳で教頭になった時には、長女は既に嫁に行っていたし、長男も

社会人であり、次男・3男は大学生と高校生でしたがアルバイトをして学費

を自分でかせいでいましたので、経済的にやゝゆとりが出てきていたのです。

したがって、飲酒の量も増え、日曜日には今日は天気だし気分がいいから

酒を買ってこいと朝から飲み始めるのです。そして夕方になると

「オイ、酒買って来い!」と言い「格好が悪いので、朝に行った店には行か

ないで別な店に行くのだよ。」と念を押すのです。

だから、祝津町では父が朝晩酒を飲んでいるとは全く知らなかったのです。

夏休みには、時々教え子がビールを1ダース持って立ち寄ることがあるの

ですが、2日と持たない程の酒豪だったのです。

父の弁によると、清酒は酔うことができないからもったいないので焼酎や

合成酒が「安くて・美味くて・ほろ酔い気分になる」との事でした。私は、

小学校の低学年から「宝」「君万歳」「千歳鶴」「北の誉」などの銘柄名を

覚えていて、時には自分で銘柄を決めて買ってくるようになっていました

我が家では月給を母に渡すのではなく、父が財布を管理していたのです。

ですから、学校へ納めるお金など必要なお金は母に言い、母が父に伝え

父が判断して母に手渡し、それから私達の手に渡るという仕組みになって

いたので困ったことがよくありました。母は父の月給が何円なのか分かって

いなかったのです。そして、お金が無い、無いと言いながら酒代だけはある

ものでしたから、私達子どもに

父さんがもう少し酒をひかえてくれるといいのにね。」とこぼしていまし

たので、つい寝言にまで言ってしまったそうです。父の「うるさい、この馬鹿」

との大きな声で夢から覚め、気まずかったので寝ている振りをしていた

母から聞いたことがあるのです。

母は、父に向かって文句を言ったり、口喧嘩する姿を見せたことがなかっ

たので偉い人だったんだなーと思っています。

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2009年2月 3日 (火)

「黄福(こうふく)定食」 なかなかの評判 

インターネットのトピックスの一つに目が留まりました。

内容は、岡山県美咲町で「卵かけご飯」の専門店がオープンし、1年間で

7万食以上も売上げ、観光客も増えた。この専門店が各地に出現している

とのことです。私にとっても「卵」は食べたい物の第一位でありましたが、

今はコルステロール値が高いのでひかえております。

この卵に関わってのいろいろなエピソードがありますが、今回はその一つを

紹介します。

昭和26年3月31日のことです。明日は4月1日でエイプリルフールです。

この日は「嘘を言ってもいい日」と思っていましたから、絶対にバレナイ嘘を

言おうと考えをめぐらしました。

そうだ!これだったら絶対に飛びつくぞhappy01」と思いついたのが、友達のB君

へ卵をあげることだったのです。当時、卵はまだ日常的に食卓に上がる物で

はなかったのです。お金をどう工面したか分かりませんが、卵を一個買って

きて、中身を水にすりかえることにしたのです。

卵を立てるとき下になる方に小さな穴を開け、そこに口を付けて中身を吸い

取るのです。しかし、白身や黄身がなかなか出てきません。それで穴の直径

を4mm程度に拡大してまた吸い付くのです。時には編み針で中身を突き、

静かに砕いてまた吸い付くという具合に、何回も何回も試行しながらcoldsweats02

やっと空にすることができたのです。

さて、作業はこれからがより難しいのです。中身を空にした卵に水を入れる

のは並大抵なことではありません。初は口に水を含み卵の穴から入れようと

しても思うように入っていきません。あれこれ苦労してsweat02やっと満杯にするこ

とができたのです。作業時間はたっぷり1時間?くらいかかったと思います。

そして、最後に穴を塞ぐという細工が残っています。これは簡単でした。

米粒をつぶして塞ぎました。この部分が見破られたら元も子もありません

ので、所どころに汚れをつけ、穴を開けた所が分からないようにカモフラジュー

したのです。これで出来上がりですhappy01 オワタ┗(^o^ )┓三

翌朝、共同井戸へ水汲みにきているB君に、

「いつも面倒みてくれるから、これあげるsign01」と言うと「えっ、サンキュー」happy01

と言って受け取りました。大成功でーす (v^ー゜)ヤッタネ!!

今日は朝から上機嫌な私は、入学式準備のお手伝いで登校してきたB君が

何も言わないので、まだバレテいないことが分かりました。

それで下校後、母に卵の件について得意顔で報告しました。ところが、

さあー大変です。

この子は何んということをするのpout 例えエイプリルフールと言っても、

して良いことと悪いことがあるのに、そんな事ぐらいまだ分からないのsign02

本当に呆れて物が言えない (´д`)┌ヤレヤレ」

もし、知らないでご飯にかけたらどうするの。汚いったらありゃーしない。

早速謝りに行かなければならないから、お母さんと一緒に来なさいangry

と言うや、しょぼくれている(落胆している)私を連れdash、お菓子を買って

B君の家へ行きました。母は

「この馬鹿息子がとんでもない事をしでかして申し訳ありません。」

と概略を説明した後も、

「申し訳ありません」と何度も何度も謝罪しているのです。私も、

  自分のたことは大変悪いことなのだと母の言動から察知し

「ご免なさい」とぺこんと頭を下げて謝ったのです。

それから、クラス会でB君に数十年振りに会った時、この卵事件のことを話

すと、

「そんなことがあったよねsign02 あの時、全然気付かなかったよ。よく水を入れ

れたなあー。家の母さんが、子どもがした悪戯なのに、わざわざ菓子箱まで

持って謝りにくるとはたいしたものだ。さすが教頭先生の奥さんだよね、と言

って褒めていたんだよsign01」とのことでした。

私は教員になってから、授業参観後の懇談会で、

      子どもが過ちを犯した時の保護者のあり方

として、この話を参考事例のひとつとして提供したのでした。

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2009年2月 2日 (月)

バケツに小便 窓から捨てる

中学3年生の時のことです。

1人の友達が休み時間にトイレへ行かず、バケツに小便をして2階の窓

から捨てたわけです。この友達は学校を頻繁に休む生徒でした。

ところが、この光景を見ていた数名の友達も真似をし始めたわけです。

女の子達は

「やらしいねsign01いい加減にしなさいsign01」と言うのですが、その言い草を真似て

喜んでいる始末です。女の子に注目されて嬉しがっているのです。処置なし

です。

私は、初のうちは黙って見ていましたが、数日続いたある日、

「おーい、結構楽しんだからもういいべやsign02 掃除の時、バケツを洗ってから

雑巾がけするのも面倒くさいからなsign01なーあー、もうイイベや・・・・・・・。」

と忠告しました。

皆に嫌われ、時には無視されていた友達は私の言うことを素直に聞き、

「分かった!お前に言われたら仕方ないからな。」

と照れ笑いしているのでした ヾ(´ε`*)ゝ エヘヘ

この友達は、兄弟に身体障害者がおり家計も相当苦しいようでした。学校

を休むことが多かったので、殆ど学力が身についていません。

私は彼が休んだとき、連絡やプリント物を届けたり、時には登校しないかと

呼びかけていたのでお互いに気心を知っていたのです。

このような状況の学校は相当荒れた学校のように誤解されるかも知れませ

んが、そんなに荒れた学校ではありませんでした。ただ、卒業時期になると、

トイレのドアが壊されて燃料としてストーブで燃やされたりしていましたが、

その他の器物破損は見られませんでした。中には柔道初段と名のる応援

団長もいましたので、とっぽい(粗暴で不良じみた)人にはそれなりに目を

光らせていたのです。きっと先生が前面に出ないで特定の生徒に依頼して

いたのではないかと思うのです。

それにしても、女生徒はたいしたものです。クラスの小便事件も悪がきの

悪戯ぐらいにしか認識していなかったようです。女性は子ども時代からやは

り大人だなあと感心しました。どうせ一過性のものであり、授業妨害もしてい

なかったので長い目で見ていたようでした。

私が理解できないのは、教師側の対応についてなのです。この事件につ

いてどの教師も気付いていなかったのか、取るに足りないこととして黙殺

していたのか分かりませんが、学校の荒れはこのような小さな事件が蓄積

されて、校内暴力や教師への殴打事件へと拡大していくことが多いので、

教師側は当然、危機意識を持たなければならないはずです。

しかし、私の中学時代、教師が休み時間に校内巡視をしている姿を見たこと

がありませんでした。もし時々パトロールでもしていたら小便事件に対する

対応もきちんとなされていたと思うのです。

当時、隣の中学校は窓ガラスが次々と割られ、荒んだ学校として知られて

いましたので、私達は子どもなりに悪ふざけの限度をわきまえていたのかも

知れません。

私が教師をしていた昭和62年に、隣の小学校の6年生が、便器の水を

給食の汁物に入れ、クラスの皆に食べさせたという事件がなりましたが、

この事実を担任や学校側は知っていなかったのです。たまたまそのクラス

の保護者が騒いでいるのを耳にしたわけです。悪ふざけにも限度がある

ということを子どもに厳しく指導することが大切なのです。

注釈] 校内における児童生徒の安全面を考えて昭和30年代あたりから

週番」という組織が創設されました。私が勤めていた小学校では、6年生の

各クラスから2名ずつ輪番で集まり、1週間交代で校内生活の点検・指導に

当たったわけです。勿論、先生方も当番で週番の子ども達の指導にあたった

のです。その内容は

①危険な遊びをしていないか ②正しく右側歩行をしているか 

③廊下を走っていないか ④校内の決まりを守っているか 

⑤友達をいじめていないか ⑥掃除当番をきちんとしているか 

⑦掃除用具の整理整頓がなされているか 

⑧教室の窓の開閉がきちんとされているか ⑨電燈を消し忘れていないか

⑩用事もないのに教室に居残っていないか

などでした。しかし、この週番という組織は管理体制の強化であり、子ども

がいつも監視されていて、伸び伸びとした学校生活を送ることができない等

との声に押されて、北海道では主任制度の導入の前後から姿を消してしま

ったわけです。

それでは、管理体制を強化しないで子どもの安全・安心を守る日常的な方法

は何であるのか、策定する必要があると思うのです。勿論、画一的な方法では

なく、それぞれの学校の実態に合わせて考え出し、実践することが極めて重要

であると思うのです。

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2009年2月 1日 (日)

教諭がいす投げ 2年生男児けが ②

私が考え出したこの体罰は、頭にタンコブ傷を負わすものではなく、加減

することを保護者に話しました。「私のやり方に不満のある人は、校長に言っ

て下さい。私は直ぐ転勤に応じます」と決意も述べました。とに角、話を聞くこ

とのできる子どもに「しつけ」たかったのです。学習成立以前の状態を何と

かしなければならないことを子どもや保護者に強く訴えたのです。

その後、何回か罰を受けるうちに、子どもの聞き取る力が改善されてきま

した。子どもは体力を持て余していましたので、休み時間は毎日子どもと

汗だくになって遊びましたし、また、良いところを見つけて褒めてやりました。

2年生はまだまだ単純です。先生に褒めて欲しいので行動が良くなっていく

のです。

さて、3学期の終業式が終って教室に戻ってきたところ、3人の学級PTA

代表が、教室で私を待っていました。プレゼントがあると言うのです。

「先生、1年間ありがとうございました。これは子ども達の願いでプレゼント

するのです。中身は上靴です。先生の上靴が傷んでいるので、新しいの

を買って上げてと言う子ども達の要望に親達が賛同してくれたのです。

どうぞお受け取り下さい。」

と言われ、私は胸が一杯になり涙ぐみながら子ども達にお礼を言ったわけ

ですweep 親の代表は

       「先生はハートで heart04 ぶつかってくれました。

    ですから私達ハートで heart02 でお応えしたいのです。」

と述べたのです。

私はこの母親達の言葉を、その後の教職の糧(カテ)にしてきました。

[注釈 体罰は学校教育法第11条:[校長及び教員は、教育上必要があ

ると認められた時は、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童

に懲戒(チョウカイ:制裁や処罰)を加えることができる。ただし、体罰を加え

ることはできない。]と明記されております。

私も教育行政に身をおいている時,

     「体罰を加えたら首になることを覚悟せよsign01

と初任者研修会(新採用教員を対象にした研修会)の折によく訴えてきました。

しかし、私の実践はそのことと矛盾するわけです。

要は、首を覚悟で子どもと取っ組み合いの教育をしていくと、例え体罰を加え

たとしても、教師と子ども・保護者の人間関係が良好になっていれば大きな

問題に発展しないわけなのです。

今回の椅子による怪我の事故?事件?は、同情の余地はあるのですが、

子どもに怪我を負わせてしまったわけですから、いさぎよく懲戒処分を受け

るべきです。世間の人達は可なり厳しく批判するでしようが、自分の犯した

事ですので耐えていかなければなりません。この事故を一つの教訓として

前向きにとらえ、精進することを願っております。

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