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2009年3月

2009年3月31日 (火)

少子化と過疎 道内直撃

標記のタイトルは3月30日付けの北海道新聞の見出しです。道内の公立小中学校のうち、小学校26校と中学校7校の計33校が、今月末で閉校となるそうです。この10年間で道内全体の15%に当たる356校が減少とのこと。

北海道教育委員会は望ましい学校規模として、クラス替えが可能で、一定の教員数が配置できることを前提に、小学校が12~18学級、中学校は9~18学級と想定しています。しかし、実際にはこれに当てはまるのは、小学校26%、中学校の38%に過ぎないとのこと。逆に小学校のうち、1~5学級しかないのが32%に上るのです。

北海道は面積が広いため、学校の統廃合を進めたとしても、日本で第5位の面積を有する(1位ー足寄町)根室管内別海町のようにスクールバスの通学に片道1時間かかる子供もいるそうです。

少子化と過疎化により、学校統廃合に拍車のかかる市町村が増加するものと思われますが、子供達の通学の負担や地域の存続を考えると、小学校は残したいとの意見が強いようです。しかし、統廃合の長所・短所を研究し教育に及ぼす影響などについても客観的な調査研究を実施した上で結論を出すことを望む者の一人です。

例えば、スクールバス利用に当たっては、通学時間と心身の疲労度、体力・体位との関係、家庭学習への影響などなど。また、体育、音楽など集団教育の必要な教科に及ぼす影響なども調査研究することが重要です。その結果に基づき文科省で学校設置基準を見直すことが急務であると思われます。

現在、学力テストを毎年実施する方向のようですが、それよりも、学校統廃合問題に対する解決策を策定するために、国立教育政策研究所即応課題として取上げ早急に調査・研究に取組まれることを強く望みます。

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2009年3月30日 (月)

あのおっさん 学生?

入学式から2週間目のことです。4,5分遅れて教室に入ると一番前の座席に背広姿の人が座っているのです。私は、わざわざ遅刻した学生を待っているとは随分偉い教官だなぁーと思い、「電車に乗り遅れてしまいました。これから気を付けますsign01」と侘びると「あゝ、そう」との返事。

軽く頭を下げた後、教室の仲ほどの座席に座ったのですが、講義が始まらないのです。まだ遅れてくる学生を待っているのかなぁーと不思議に思っていたら、ドアが開き教卓の前に講義用のノートを置いてから徐(オモムロ)に受講カードを配る人物がいるのです。この人こそ正真正銘の教官であって、私が詫びた人はただの学生だったのです。

数日してから汽車通をしている先輩にこのことを話すと「お前も間違ったか。ははは・・・・」と笑いながら、あの学生は32歳になり以前に代用教員をしていたとのこと。そのことがあってから、同期の仲間に年齢を聞くと、22歳、24歳、27歳などなどばらばらです。

年上の仲間は学大(学芸大学の略称)に入る前に、銀行員や代用教員、炭鉱マン、店員など様々です。また、樺太や満州から生死をさまよいやっと引き揚げて来た人もおり学業に立ち向かう姿勢が違っていたのです。

しかし、同じ同期の中でも国立一期校(北海道は北海道大学)に挑戦し不合格になって来た人や、2年間の浪人生活者などもおりましたが、やはり、大学へ入る前に社会人として勤めたことのある人は、勉強への気構えが違っていたのです。

[注釈]  2007年の文科省調査によれば、新任教員で1年間の「条件付き採用」を経た後、正式採用とならなかったのは過去最多の295人(前年度比86人増)に達し、4年間で約3倍に増加。採用段階で教員としての適性チェックを強める動きもあります。

また、指導力不足教員も2000人に1人の割合であり、その教員を対象にした特別研修制度がありますが、適格性を欠いているため校長の指導や都道府県教育委員会の研修制度では手ぬる過ぎるきらいがあります。被害を受けるのは子ども達ですので、そのような教員に対しては再就職の斡旋など職種を変更する方向で対応することが重要であると思います。

なお、当時の北海道では国立一期校は北大のみで、二期校には室蘭工業大学、帯広畜産大学、小樽商科大学、北海道学芸大学の四校で、市立として札幌医科大学のみでした。今は北見工業大学、旭川医科大学の2校が増えたわけです。

一方、私立大学及び短期大学は39校もあります。私達の大学時代は確か北海学園大学、藤女子短期大学、北星学園短期大学、札幌大谷短期大学の4校しかなかったような気がします。それに比べて現在は、少子化時代を迎えているにも関わらず、大学・短期大学・各種専門学校が掃いて捨てるほど乱立されており、学生の質が低下してきているとの指摘もあるわけです。何れ淘汰される運命にあるのではないでしょうか。

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2009年3月29日 (日)

毛ガニで食中毒

教員をしていた兄の所に、ある親が毛ガニのプレゼント。昭和30年代のことですから、まだソ連が北洋漁業の規制をしていませんでした。サケや毛ガニ、タラバカニなど無尽蔵にありましたので獲り放題なのです。従って、太っ腹な漁師はお世話になっている先生に、実入りのよい毛ガニを箱に一杯入れて持って来てくれるのです。

時は夏でした。各家庭にまだ冷蔵庫がない時代ですので、すぐ食べてしまわなければ腐ってしまいます。茶の間に新聞紙を数枚敷き、円座の真ん中に毛ガニを山盛り置くのです。食いしん坊な私は6パイも食べたのです。勿論、満腹です。二人の妹も数ハイ食べたようですが、まだまだ残っています。帰宅した兄姉が残りを食べ、お陰で全て処分することができたのです。

ところが、次の日です。高校へ通っていた私は、授業中にハキケがして急いでトイレで嘔吐。その内に目まいがしはじめました。早退して家へ帰るのですがふらふら状態です。恐らく脱水症状も起していたのではないでしょうか?母は妹達の食中毒症状に驚き、近くの診療所へ行ったとのことです。

暫くして戻ってきた母によると、妹達はカニの食べすぎによる消化不良と軽い食中毒なので注射をうったとのことでした。私も同じ症状が出たので早退して来たと告げたのですが、寝ていれば治るとのこと。もし変だったら、妹達の薬を飲めばいいと言われそれに従った私でした。

元来、粗雑で野性的に育ったものですから、何故か免疫力が強く医者に掛かったことがなかったのです。今回も母の予想通り一晩で治ってしまったのです。

現在、札幌に住んでいる私は、家から車で5分たらずの所に「産直ジェイ・アール 生鮮市場」があり、そこに毛ガニが所狭しと並んでおり、1パイ700円から2,000円と手頃な値段ですが、私は積極的に買い求めようとしないわけです。妻に付き合って、半分程度食べたらもういいのです。恐らく毛ガニに対する弱い拒絶反応が植えつけられたのではないでしょうか。

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2009年3月28日 (土)

資格・就職と時間割編成

私は学芸大学の二類小学課程に入学したのですから、小学校教諭二級普通免許状を取得すれば教員になることができるのです。取得単位数の基準が62単位ですから、1年間で31単位。となれば余裕ある時間割を組むことができ、アルバイトの時間確保に役立つわけです。

ところが教員をしている兄の話によれば、中学校の免許状も持っていると就職に有利になるので、多少辛いかもしれないが小学校・中学校の両方の免許状を取得しておくべきであると助言してくれたのです。

入学した翌日から単位取得と時間割編成の仕方についてのガイダンス指導があり、全員がどれかの専攻学科に所属することになっているのです。私は勉強嫌いでしたので体育科ならペーパーテストもないだろうから楽できる、と思い所属を申請しました。

帰宅後、兄に体育科を専攻することにしたと報告すると「体育科を専攻するということは体育科の免許状をとることになり、陸上、球技、マット運動、スキーや水泳などあらゆる運動について学習するんだよ。だから体育の得意な人が専攻することになるのだ。お前は特別得意な方でないから苦労するよ」と教えてくれたので再度考えてみることにしました。

まず、どの教科が一番基準単位数が少ないかを調べてみると数学科で、わずか16単位。もともと数学のみは自信がありましたので、急遽、専攻学科を体育科から数学科へと変更を申出たのですが、時すでに遅く、私は体育科所属と学生必携ガイドブック?に印刷されおりました。

大学は小学・中学・高校と違い、何年何組と所属が決まっているのではなく、専攻学科の研究室がホームルーム代わりになっていたのです。ですから私の場合は最初の申請が体育科ですのでそちらの研究室へ行かなければならないわけですが、途中から変更したものですから数学科の教官にまだ認知されていなかったのです。

このことも兄に報告すると次のようなことを助言してくれました。

① 変更したことをそれぞれの教官に急いで報告しておかなければならないこと。

② 時間割を作成するに当たっては、基準単位のみの履修ではなく、多めに履修し

 ておくと単位がとれなかった科目が出た時に助かること。

③ 1年生の内にできるだけ多くの単位をとると2年生の後期は凄く楽になること。

④ 1年生は勉学に励みアルバイトは夏季・冬季休業日に行うこと。

以上の助言に従い、時間割を編成したのですが、週に1回のみ5校時の授業をとらなければならないことになり、帰宅時刻が9時過ぎになるという厳しいものになりました。しかし、へこたれる訳にはいかないのです。小中学校両方の免許を取得し、2年後には一発教員になり、家計を助けたいとの意欲に燃えていたのです。

[注釈] 大学で学ぶ姿勢がどうであるかによって、その後の人生が決まってくるものです。目的を明確化させその具現化のために励むことが大切です。友達の中には、受験勉強が終ってほっとし、麻雀やパチンコ、中には特定の女性と仲良くなり勉学を疎かにして単位数不足により就職できなかった人もいたのです。

単免(タンメン:1つの免許状)は複免(フクメン:2つ以上の免許)より不利です。単免でも部活動で活躍し一芸に秀でていれば別問題です。特に中学校以上の場合は、野球やサッカーの指導ができる先生とか吹奏楽や合唱指導のできる先生などを教育現場で求めていることが多いのです。そうした場合は単免でも有利になります。

教育大学は教員になるための学校なのです。他に職を求めようなどという安易な気持ちは禁物です。このことは、校長や教育長になってから痛切に思ったことなのです。

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2009年3月27日 (金)

待望の大学入学式

昭和32年4月22日、北海道学芸大学札幌分校二類小学課程に合格。入学式に臨むが、今のような保護者の参列は一人もなし。学芸大学の初代学長である田所鉄太郎氏の式辞と入学生代表の挨拶で式が終ったのですが、その後に、道学連(北海道学生自治会連合会)の委員長であった小川義男氏が大学の民主化とか学生の自治能力が問われている等と弁舌爽やかにとうとうと1時間近くも喋り捲ったのです。表情はヒットラーのごとく目がらんらんと輝き、新入生全体(310名)を見渡しながら陶酔したように演説を続けます。

私は、彼の演説はどうでもよかったのです。早く教務室へ行って在学証明書をもらい、小樽~札幌間の通学定期券(1ケ月480円)や市電の定期券(1ケ月300円)を購入しなければなりません。1ケ月の定期券は普通乗車券の4,5日分くらいの超格安料金だったのです。ですから、早く定期券を利用しないと可なりの損です。

やっと小川氏の演説が終わり急いで教務室(事務室)へ行ったのですが、既に廊下は沢山の学生で混み合っています。この調子でいけば、小樽行きの汽車に乗り遅れることになりますので ヤレヤレ ┐(´(エ)`)┌クマッタネ 、明日に延ばすことにしたのですangry

学校の始業は9:00ジャストです。汽車通の私は朝6:30に家を出て、手宮駅発幾春別(三笠~炭鉱のある市で全国で2,3番目に開通した鉄道路線)行きの始発列車(7:00)に飛び乗り、8:10に札幌駅到着。その後、駅1つ手前の停留所から市電に乗り、終着の大学前で8:50。もし、7:00の列車に乗り遅れたら、小樽発7:20に乗らなければならずその場合は手宮駅から半分マラソンするような調子で急がなければなりません。

逆に帰りは、3校時(13:00~14:30)で授業を終えた場合、急いで15:30の小樽行き列車に飛び乗ることができ、もし1列車遅れると16:15に乗ることになるのです。小樽駅から我が家まで徒歩で1時間ですから、帰宅時刻は17:50か18:35頃になるのです。4校時(14:50?~16:20)まで履修すると、家には20:00頃につくことになるのです。ですから時間に制約ある大学生活が始まったわけです。

なお、経済的に苦しい我が家でしたので、受験料の千円は母からもらいましたが、汽車賃・電車賃などは自前で賄うというのが我が家の仕来りであり、兄3人もアルバイトをして学費を工面したのです。私は、高校2年生から中学1年になった妹とその友達二人を対象に英語の家庭教師をしていましたので、幾ばくかの蓄えがありましたが心細い経済状況です。従って、帰り道はバスを利用することもできましたが、雨の日以外は徒歩で我慢したわけです。

兄のお下がりの角帽(大学生が被る学生帽子)を頭に、1日約1時間半を歩き、乗り物に3時間20分揺られながらも、期待に胸を膨らませ教員免許状取得のため、2年間の苦学生活がスタートしたのです。

[注釈] 『百年記念誌』(北海道教育大学札幌分校:昭和62年9月1日発行)によれば私が入学した昭和32年の入学定員、志願者数及び倍率は次の通りです。

<2年課程> 小学校 80/105  1.3倍  ※昭和34年募集停止

         中学校 20/6    0.3倍  ※昭和33年募集停止

<4年課程> 小学校 70/303  4.3倍

         中学校 110/646 5.9倍 

         特設音楽 30/98 3.3倍  ※特設美・工は33年より開設

なお、入学式終了直後に演説した自治会委員長の小川義男氏は、「世界一受けたい授業」(日本テレビ系)の人気講師としてテレビでもおなじみの人物であり、『あらすじで読む日本の名著』『あらすじで読む世界の名著』編など多くの著書があり、77歳の現在でも埼玉県入間市にある狭山ケ丘高等学校の校長を勤めております。

その彼が教師になって7年目に私の下宿を訪れ、「君、先生をしていながら教育に関する本が一冊もないではないか。本を読まずして良い教育ができるのか ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…」と忠告。私はこの言葉のお陰で教育に関する本を充実させ、数百冊の蔵書を誇るほどになったのです。この本は校長退職時に厳選し、職員図書として本箱4個分を寄贈してきたわけです。しかし、教育関係で思い出に残る数十冊の本は、今でも手元に置いております。

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2009年3月26日 (木)

イカソーメン 高すぎでは?

ネット販売が流行っていますが、こんなキャッチフレーズで宣伝しているのを知りビックリです。「いかの街 函館の朝採りいかで造った イカソーメン 4,980円」(送料無料 5枚入り 特製たれ付き そうめんカット済)とあるのです。新鮮さと特製たれ付きがセールスポイントと思うのですが、北海道に住んでいる私から見ると、あまりにも高すぎるような気がするのです。

昭和30年代、私の済んでいた小樽ではイカは10円で5ハイ買えました。採りたての朝イカをリヤカーに乗せ「イカはいらんかねーー」と売りに来たものでした。私は10円分買い、3バイを刺身にしドンブリに入れ醤油をかけて食べたものです。原価6円のイカソーメンです。それが5ハイで約5千円とは?・・儲け過ぎではないかと思うのです。イカの値段が500倍になっています。

1957年(昭和32)の小中学校教員の初任給が8,000円です。現在は約199,000円ですので約25倍です。平成3年で浜値で1箱20から25ハイ入って1,500円でしたので5ハイでは300~375円の計算になり、13~16倍の値段に相当するのです。(送料無料、調味料付きを除いて考えた場合)

現在スーパーでは刺身イカは1パイ200円程度ですので、5ハイで1,000円です。ですから、いくら調味料などの付加価値をつけ送料無料としても4,980円とは??・・高すぎませんかと言いたいのです。

おそらく富裕層の人達をターゲットにした販売でしょうが、長続きしないのではないかと気にかかります。北海道の味を安い値段で堪能していただき、息の長い商売をするためにはどうしたらよいのか、もう少し良心的になって戦略を練り直す必要があるのではないでしょうか。

イカは漁獲高によって値段が変わることは知っていますが、それにしても大きく儲けようという考えが前面に出すぎているのでは??・・・・・・・と思うのです ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…。

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2009年3月25日 (水)

大学受験の朝

「ヒロシ 起きなさいsign01」との母の声。今日は大学受験の日です。母は朝5時前に起き私のために朝食を作ってくれているのです。魚の煮付けと漬物。特別変わったおかずではないのですが、生卵を一つ持って来て「さあ、これを食べて力をつけ頑張ってくるのだよsign03」と励ましてくれたのです。当時、卵はまだ貴重なものでしたので、余程のことがなければ食卓に出ることがなかったものですから、母の気遣いを大変嬉しく思いhappy01・・・・・・・・・。

これから、小樽駅6:40分発?札幌行きの汽車に乗る予定です。家から5分程の所に駅行きのバス停があるのですが、7:00始発ですので利用できません。従って小樽駅までの約6キロの道のりを歩いて行かなければなりません。約1時間かかるのです。大事をとって5:30に家をスタート。まだ星空の見える朝は凍てつくような寒さです。雪を踏む足からキュッキュツと音がします。小樽駅に着く頃にはやっと夜が開け身体がぽかぽかしています。国立大学二期校である学芸大学(今の教育大学)を受験する友達も集まってきました。

始発が小樽駅ですので座ることができましたが、驚いたことにガンガン部隊のおばさん達が重そうな荷物を背負ってきて、座席に着くなりおにぎりを出して食べているのです。一人のおばさんが「学生さん、今日は大学受験だろう?頑張ってくるのだよ!」と励ますではないですか。恐らく私達と似た年頃の人がいるおばさんなのだなあーと思いながら、車窓から映り行く景色を楽しんでいました。

札幌駅に7:45頃着き、駅前から路面電車に乗るのです。駅前停留所は大変な混みようであるということを兄から聞いていたので、1つ手前の陸橋(オカバシ)から乗るため、仲の良い友達と移動して正解でした。電車は駅前でぎゅうぎゅうと押しても乗れない人が結構いるのでした。私と友達は上手くやったなと言い満足していました。市電で約30分揺られながら目的地の学芸大学に着きました。

1週間前に事前視察をしていたため、戸惑うこともなく受験会場に入れました。しかし、試験が始まって気付いたことですが、時計を持って来なかったのです。ですから試験の最中、時々黙って挙手し傍に来た試験官に「あと何分ありますか?」と聞いたのです。

休憩時間に友達の一人が「お前、時計持ってこなかったのか?」と聞き、「うん」と応えると「受験なのに珍しいなー」と呆れていた様子が目に浮ぶのです。

[注釈] ガンガン部隊(行商人)とは、小樽駅のすぐ傍にある「三角市場」や「龍宮神社」の下にある「中央市場」で魚や乾物を仕入れ、それをブリキで作った大きな缶に入れ、石狩平野の米穀地帯へ売りに行き、魚と米を物々交換する人達です。

米はまだ配給制度でしたので、物々交換した米を都市部の民間人に売り、そのお金を元手にまた魚を仕入れて米と交換するという商売なのです。これに従事した人達は未亡人(夫が戦死した妻)が多かったわけです。必死に生きるこの人達は、朝、まだ陽が昇らないうちから働きだし、缶々の中ばかりでなく風呂敷に包んだ米を背負い、腰を曲げながら夕方まで働いていたのです。ですから、私達学生はそのような姿をしているガンガン部隊の人達に荷物を持ち上げてやったり、背負っている米を降ろしてやったりして協力したものでした。

今は生活保護制度があり厳しい中でも何とか生きていけますが、戦後の十数年間はこのように必死で生きる「担ぎ屋」さん(ガンガン部隊の別名で北海道の人達は呼んでいたのです)が多くいたのです。このように汗水流した人達のお陰で現在があると言っても過言ではありません。

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2009年3月24日 (火)

死亡説 飛び交う

一昨日の昼下がり、親しくしている先輩からの電話です。「ヒロシ(仮称)さん、聞いていない?佐々木さんが亡くなったのではないかと山田さんから確認の電話があったのだけど・・・・、俺も知らなかったので、もしかして、ヒロシさんなら知っているかもと思って電話したのだよ」とのこと。

佐々木さんは北師同窓会(北海道教育大学札幌校の同窓会)の元役員であり、私が仕えた校長でもあるのです。また、パチンコや麻雀友達ばかりでなく、大変お世話になった先輩なのです。従って、彼に関する情報をよく知っていたものですから、私に真偽を確かめたくて電話してきたのです。私は「佐々木さんの家へ電話して確認したらいいのでは?」と言うと「もし、亡くなっているのであれば大変失礼なことになるしなー」と困った口調です。私は「私が直接電話して元気でいるかどうか確認し、その結果を後ほど連絡します」と告げたのです。

「もしもし、佐々木さんのお宅ですか。奥さんですね。教育委員会にいた○○ヒロシです。ご存じですか」との声に、「あら、ヒロシ先生!お変わりございませんか」とのこと。暫くして死亡騒ぎの本人が電話に出て「おお、どうした?元気かい」と言い、至って元気そうな声なのです。私は、佐々木さんが亡くなったのではないかと皆が心配していることを告げ、お互いに歳なので、そのような噂がでるのも不思議ではないことを告げたのです。

誤報の発信元は社団法人 北師同窓会の会報である『純剛』の訃報欄の別刷に佐々木さんの名前が出ていたのです。全くの誤報です。従って、死亡説が飛び交うのもあたりまえです。何故このような誤りをおかしたのか全く分からないとのこと。早速、支部役員を通して同窓会本部へ連絡し、新年度版に訂正記事を載せてもらうよう手配することを確認したのです。

数時間経ってまた電話です。今度は札幌在住で一番懇意にしている同期からです。「ヒロシさん、佐々木さんに直接電話したんだって?家内も笑ってヒロシ先生らしいはね と言っているんだ。はははは・・・。」と。

人の言い辛いことでもずばり言い、歯に衣着せぬ(遠慮したりせずに、思ったままを率直に言う)性格なので、時には誤解を招いたり、感謝されたりいろいろなことがありましたが、「三つ子の魂百まで」なのです。

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2009年3月23日 (月)

悩ましい声、声

「イヤーン、うーん」「ヒヒヒッ、ウーン、うーん」。表現に苦しむうめき声が?聞こえてきます。時には甘えるような声。時には訴えるような声、声、女の声。そんな声に淫(ミダ)らなことを連想し、ひと時、思考が乱れ ヤレヤレ ┐(´(エ)`)┌クマッタネ  勉強が中断せざるを得ない状態になる私。

ここは、教員住宅の一室です。1棟2戸でお互いの家の押入れと床の間が板1枚で仕切られているためお互いに声が漏れて聞こえてくるわけです。ですから、ラジオの声の大きさなども気をつけて暮らさなければなりません。

今日もまた、あの甘えるような声が漏れ出しました。お隣は新婚さんですから、お互いに愛の喜びを声高らかに?囁き(ササヤ)合うのはheart04当然です。しかし、気の散る私です。それでいろいろと考えました。咳払いしようか?五月蝿(ウルサ)いよ!と注意しようか?でも、品がありません。そうだ、これなら良いかもと思い早速実行です。

秋深き 隣は何を する人ぞ」(松尾芭蕉の俳句)と、やや大きくはっきりとした声で唱えてみたのです。2度唱え終わると静寂な夜の復活でーーす。(v^ー゜)ヤッタネ!! 新婚さんには酷な行為をしてしまったのですが、こちらも受験勉強中なのです。この方法は効果抜群です。2度から1度の唱えで済み、やがて「秋深きーー」と言っただけで静かになったのです。今思うと可哀想な気がします。まるで小姑(コジュウト)的行為であるような・・・・・・・・・・・・。

お隣りの先生は、労働組合の活動に熱心で、教職員の待遇改善に向け生涯を傾けた人物になっていったのです。あの新婚時代の「忍ぶ声」?が活動の原点だったかも知れませんね ┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~。 

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2009年3月22日 (日)

思想調査 転職

高校2年生の春休みだったと思います。受験勉強をしていたら見知らぬ人が家の近くをうろついているのです。不思議に思って外に出て「何か御用ですか?」と聞くと、「ここは、○○さんのお宅ですか?」「△△さんもここの家の人ですか?」と聞いた後、直ぐ立ち去りました。暫くして、水汲みのため共同水道場へ行くと、同じ教員住宅に入居しているおばさんが出てきて「さっき変な人が家へ来て、お宅のお兄さんのことを根掘り葉掘り聞いていましたよ」とのこと。

兄(長男)は結婚しており、ある会社の福岡支店から小樽にある本社勤務になっておりました。もしかして、何か事件に関わっているため刑事が調べにきたのではないかと早とちりした私。数週間してから我が家を訪れた兄に聞くと、「調べにきたかい。思想調査なんだよ。俺、自衛隊へ行くことにしたんだ」とのこと。理由はこうなのです。

本社へ戻ってきてみたら、自分の部下だった社員がいつの間にか上司に抜擢(バッテキ)されており、会社の人事に不満があるとのこと。会社の主要ポストは親戚一族で固めているので、将来性がないから転職することを決意したと言うのです。そして当初は、大分県別府にある飛行教育団に入りパイロットになる積りでいたが、妻が猛烈に反対したので航空自衛隊幹部候補生学校へ行くことにし、狭き門ではあるが今回受験したそうなのです。当時、野党である社会党や共産党は自衛隊反対を主張していたものですから、思想調査をするのは当然だと兄は言い、調べに来たのであれば脈があると楽観的なのです。

兄は「蟹工船」の作家である小林多喜二の後輩に当たり、小樽高等商業学校(今の商科大学)でマルクスの資本論レーニンの市場経済論を学んでいた。従って思想的に左がかっているのではないかと疑われたのでしよう。

何れにしても、航空自衛隊の幹部候補生の教育を受けた兄は、養成期間を終え、北海道の石狩当別、稚内、奥尻島のレーダー基地を振り出しに、青森県の三沢、広島県の防府、奈良、東京の防衛庁、埼玉の入間などに勤務し、経理課長や監査業務に携わり、2等空佐(昔の中佐)で退職したのでした。

いずれにしても、時代が変わっても「思想調査」ではないかと疑われるようなことが今でも時々行われており、物議を醸すことがあるようです。また、組織の中には旧態依然とした体質が残っている所もあるようです。

北海道の教育界では、かつて人事異動の際に「人事調書」の校長や教育長の所見に、思想調査と思われる記述があり、それが暴露されて国会の予算委員会でも話題になったことがあったのです(昭和30年代)。昨今は入学式の「国歌斉唱」時に、起立しなかった教員の氏名報告を求めた教育委員会に対し、職員団体がこれは「思想調査」にあたり、憲法違反ではないかと提訴しているところもあるのです。 「思想信条の自由」と公教育の推進との関わりはどうあるべきか、難しい問題だと思うのです。

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2009年3月21日 (土)

春告魚 久々の群来

黄砂の影響なのでしようか? どんよりとした空模様を眺めながら「まるでニシン日和のようだなあー」と呟く私です。ニシンは春告魚とも言われ2月中旬から4月上旬にかけ群れをなして北日本へ回遊して来た魚です。

北海道を代表する民謡「ソーラン節」で「・・・・ニシン来たかとカモメに問えば~note」と唄われるほどの大衆魚。数週間前、そのニシンが小樽築港(チッコウ)近くの浜に大群で押し寄せ(群来:クキ)、オスの放出した精液で海がまっ白になったと放映されていました。

早速、魚屋へ出向きニシンを見て「なーんだ、2年生ぐらいの稚魚じゃないですか。4年生ぐらいのはないのですか」と問うと、中年の店員が「2年生とか4年生って何のことですか?ちょっと店長に聞いてみます」とのこと。「久し振りに聞く言葉ですね。残念ながら4年生以上のニシンは輸入物以外は入りませんよ」との老年店長の弁。

「私は、小樽の祝津・高島方面の出身ですから、ニシンといえば、完熟したカズノコが一杯入った5、6年生のものでした。こんな小さいのは網にかからなかったのではないですか」と言えば、店長も「そうでしたよね。今はこんなに小さくても獲ってしまうのですよ」と。

70年間も生きていると、魚ひとつ見ても様変わりしているのです。昔は沿岸で獲れた季節の魚を食べたのですが、今は輸入物でサケはロシア、チリー、アラスカ産が多く、他の魚にはノルウェーやインド洋などなどと表記されているのもあるのです。

まさに魚も国際化され違和感を覚えるのです。「昭和も遠くなりにけり」の心境です。

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2009年3月20日 (金)

先生の手の温もり

妻の中学時代の仲間が書いた文集の中に、胸の熱くなる文章がありましたので紹介します。

(前略)・・S先生との思い出に忘れられないこんなことがありました。先生が3年D組の担任になった頃、私の家は、両親が朝暗いうちから夜遅くまで働いても、私達兄弟3人食べさせるだけで精一杯でした。学校へお弁当を持っていけず、お昼のお弁当の時間になると、皆が食べ終わるまで体育館で過ごすこともしばしばでした。いつも同じ服で登校するので、あだ名は『四十一枚』・・・意味分かりますか・・・・。教科書はもちろん買えませんでした。(あの頃、教科書は買う時代でした)隣の人の教科書を見せてもらったり、借りたりしたものです。でも毎日では・・・ね。そのうち、隣の友も見せてくれなくなり、わざと遠くに置いたりして見えないようにしたり・・・・誰だったかなァ・・・・・・・・。

そんなある日、S先生が私を職員室に呼んだのです。先生は私を見てニッコリ笑って新しい全部の教科書を手渡して下さったのです。その時に先生の言った言葉は今も忘れません。「働いたら、少しずつでもいいから払ってくれたらそれでいいからね。」 私は、S先生の顔がかすんで見えなくなり、頭を下げて職員室から泣きながら出て来たことを鮮明に覚えています。

それから1年後。夜、母と一緒にS先生宅を訪ねました。先生は驚いた様子で私達に会ってくれました。1年前のお礼と1回分の支払いに来たことを伝えました。先生の顔がみるみる涙で溢れて、私の手をしっかり握り「よく忘れずに約束を守ってくれてありがとう。気持だけ受け取るから、これからお金は払いにこなくてもいいよ」。私の方が「ありがとうございます」とお礼を言う方なのに・・・・・・・。「この気持を忘れずに一生懸命生きて下さいね」と先生が言って下さったこの言葉は、今なお、私の心の中で昨日のことのように思い出します。あの時は、私も母も、先生も声を出して泣いていました。両手をギュッと握って下さった、S先生のあの手の温もりは一生忘れません。

先生、今、私は幸せです。良い夫と3人の子どもに恵まれ、沢山の孫にも恵まれ本当に幸せです。先生の言葉通り一生懸命生きてきました。S先生、ありがとうございました。お礼申し上げます。安らかに、ご冥福をお祈り申し上げております。

この先生は指導の厳しい先生であり仲間から一目置かれるほどの指導力があったのです。一方、私が高校三年生の時の保健指導の先生は、このS先生と対称的でした。苦しい家計を知っていた私は、1週間に1度しか使わない保健の教科書を買わずに、友達に見せてもらっていたのです。いつも同じ友達なら迷惑がかかると思って、数人の友達にお願いし、ローテーションで見せてもらっていたのです。ところが、保健指導のA先生が、机間巡視(机の間を通って生徒の様子を見る行動)し、必ず私に注意するのです。「君、保健の教科を馬鹿にしているのかい。」とのこと。私は「そうではありません。買うお金がないのです」と言えば、「そんなはずはない。この次の時間まで用意しておきなさい」と毎回注意するのです。

私はその先生の顔を見るのも嫌になり、保健の時間になると図書館で他の勉強をしておりました。数週間後、友達が「保健の先生が怒っているぞ。このままでは単位をやらないから覚悟しておけと、誰か伝えておいてくれ」と言っていたとのこと。

単位をやらないと言われて慌てた私は、職員室へ行って頼みました。保健の先生は「原稿用紙、4,50枚のレポートを提出すると単位だけはやる」と譲歩してくれました。私は「性病や花柳病の恐ろしさ」というテーマで、家にある『家庭療法辞典』を参照に書き上げました。提出したレポートの批評が「専門的過ぎて理解が困難だろう」とのコメントが記されていました。しかし、授業をサボったため、2学期のペーパーテストが17点で赤点です。しかし、3学期の最後の評点が3で1単位をもらうことができました。

生徒を理解しようとする姿勢に欠けたこの保健の先生だけは、軽蔑する先生としていつまでも私の心に残っているのです。

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2009年3月19日 (木)

学校給食費 未納問題

今朝テレビを見ていたら、ある地域で学校給食費の未納分を校長や担任が肩代わりしているとの報道がありました。この問題は地域にもよりますが、学校規模が大きくなればなるほど深刻な問題なのです。

私が教頭になって2校目。学級数28(特殊学級3を含む)で給食費未納額が約39万2千円との引継ぎを受けました。学校給食の運営計画の立案・処理業務は、教頭の業務内容の一つになっていたのです。この未納額は1食219円の1790食分で、全校児童と職員の2日分に相当するのです。1家庭の未納額で1番多いのは約16万円で兄妹3人(兄は中学3年生)が毎年未納状態。

この問題で前任教頭も苦労したそうですが、未納解消への手だてに厳しさを欠いていましたし、校長の姿勢にも問題があったと思うのです。私は次のような手立てを講じて、問題解決を図ったのです。

①就学援助(学用品・給食費・修学旅行費など)が適用されているにも関わらず未納の場合は、学校側の要請に応じて、福祉課や教育委員会から納入督促をすること。また、それにも応じない場合は、就学援助費用の支給を停止することの通告すること。

②給食費納入が困難な家庭は、「就学援助制度」を利用すること。申請事務手続きは教頭がお手伝いする。

③未納分を一度に返還することが困難な場合は、返還計画(月賦も可)を提出し、誠意を持って返還行為を示すこと。

④数度の督促にも応じない場合は、保護者の勤務先に連絡し、給料から差し引いてもらう措置をとること。

以上のような強行策に出たのです。それには未納者に関して次のような実態を把握できたからです。

①就学援助費用が役所より個人口座に振り込まれているにも関わらず、そのお金でパチンコをしたり、スナックなどでの飲食費に使っている実態。

②外食をしたり衣類を数点買うなど、経済的に困窮とは思われない実態があること。(担任からの情報や子どもの作文から)

③学級・学年PTAの役員をし、懇親会の二次会(会費2千円)まで出席しようとする未納の保護者がいること。(二次会に参加した積りで、給食費の一部として取上げてしまったこともある)

④学校への用事に僅か1キロメートル足らずなのにタクシーを利用していること。

このような実態は特に都市部に多く、義務教育だから全て無償にするのが当りまえと言ったり、数年間納めずにいて「もう時効だろう」と居直る保護者も出現するのです。

また、立派な自家用車に乗り、魚釣りに遠出していながら、給食費を未納にしている保護者などなど。

ですから、このような保護者に対しては断固たる処置をとる必要があるのです。

今は、「弱者救済」の名のもとに、健常者でありながら障害者(視覚・聴覚・歩行)を名乗り偽りの申請で「障害者年金」の受給を受ける人が急増しております。(特に北海道の旧産炭地やその周辺の市町村)

また、虚偽離婚し妻が生活保護を申請し、週末になると夫のもとへ出向き、実質的な夫婦生活を営んでいるカップルもあるのです。しかも、家庭には立派な調度品が取り揃えらり、豪勢な生活を営んでいる実態を目にして憤りを覚えることがありました。

今は許容社会と言われていますが、不正行為に対しては、法的にも社会的にも厳しい制裁がなされなければ、正直者が馬鹿をみる社会になると思うのです。そのためにもチェック体制の強化を望む者の一人です

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2009年3月18日 (水)

あわや 焼死?

「ヒロシ(仮称)、ヒロシ、どうしたの?」と母の大きな声に起こされ、目を開けると部屋一面が煙。一瞬、何が何だか分からずにいたのですが、ハッと気付きました。もしやと思って布団の中を見ると、赤く燃えている火が見えるのです。失敗したと思い、電気スタンドのスイッチをオフにしたのはいいのですが、その後、何をどうすればよいかただ戸惑っている私でした。隣の先生も異変に気付き、不安に思い外に出て、臭いの出所を見つけようと慌しく動いている様子が手にとるように分かるのです。

急いで布団から飛び出し、バケツに水を入れて燃えている部分にかけようとしたその時、母が「布団に水をかけても駄目よsign03 燃えている綿を千切って水に入れ、燃えていない部分まで大きく千切りなさい( ゚皿゚)キーッ!!」とのこと。母は壁越しに「すいません。ヒロシが布団を焦がした煙ですので申し訳ありません。こんな夜中にご心配をおかけして。お許し下さい」と隣の先生に謝るのでした。

私は、緊張と寒さでガタガタ震えながら、炎を出さずに燃えている綿を大きく取り除き、バケツを外に出したのです。私の着ていたパジャマ代わりの長袖シャツも焦げ茶色になり、首から下の肌は燻製のように変色しているのです。部屋全体にきな臭いにおいいが漂っていましたので、窓を開け新鮮な空気を入れたのです。しかし、直ぐ臭いが消えるはずがありません。しかも、夜中の3時頃になっていましたので、再度寝ようとしても気がたっており、大きな穴の開いた布団の上にオーバーや衣類をかけたのですが、寒さが身に凍み一睡もすることができませんでした。

この話は、高校2年生の2月頃なのです。火の気のない部屋で受験勉強のため夜中の1頃まで勉強をし、その後布団に入ったのですが眠れません。それで寝ながら単語の暗記をしていた所、手が異常に冷たくなったため、電気スタンド(昔、はんこ屋さんが使っていた半球の形をした金属性の物)をオンにして布団の中に入れ、手をかざすとぽかぽかと暖かくなり、いつの間にか眠ってしまったという訳なのです。

綿は勢いよく燃えるものでもなく、今のように化学繊維の綿でなかったものですから、有害なガスを発生させませんので命拾いをしたのです。しかし、自分の身体から20センチそこそこで綿が燃えており、煙が充満しているにも関わらす熟睡しているので、全く気付きません。母が起こしてくれなかったら焼死していたことでしょう。

昨今、火災が発生しその後の現場から焼死体が見つかることがありますが、私はその度ごとにこの体験を思い出すのです。現在、札幌市では各家庭にも煙探知機や熱探知の設置が義務化されております。まだ設置されていないご家庭は速やかに対応すべきだと思っております。また、消防署員も点検活動を強化すべきと思うのです。

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2009年3月17日 (火)

兄の家出

下校途中、ボストンバックを持った兄の姿が見えて来ました。汽車で札幌の会社へ通勤しているのに、なぜこんな時間に会うとは不思議です。すれ違いざまに「何処へ行くの?」と聞くと「チョットね!」とのこと。

家へ帰り「兄さん何処へ行ったの。さっき会ったけれど、行先を言わなかったよ」と母に聞いてみると「よく分からないけれど、チョット行って来るとだけしか言わなかったよ。出張か友達の家にでも泊まるつもりじゃないかしら?」との説明。母も私も一泊かニ泊したら戻ってくるものと思っていました。

ところが、2日後?会社から連絡先にしていた学校(三男が勤めていた)へ電話があり、兄が連絡なしに欠勤しているので、所在を確認し連絡して欲しいとのことでした。慌てた母は、知っている友達の所へ電話をかけたのですが立ち寄っていないとの返事。もしかして、横浜にいる親友に聞けば消息が分かるかも知れないと思って、電話(呼び出し電話)をかけたのです。

「あ々、お母さんですか?僕の所へ来ましたよ。今、お寺の一室をお借りして寝泊りしております」とのこと。兄はアルバイトをしながら横浜国立大学に編入し、公認会計士の資格を取得するのだと友達に説明していたそうです。母は苛立(イラダ)って「そんな資格を取りたかったら、商大(小樽商科大学)に在学している間に取ればよかったのに、遊んでばかりいるからこんなことになったのよpout」と言うのです。

会社の話によれば、「経理をしている人に途中から辞められたら、会社が困る。旅費を出すから直ぐに帰って来るように説得して欲しい」とのこと。そのことを横浜の友達から兄に伝えてくれるように頼んだわけです。間もなく戻ってきた兄に「少なくとも社会人になったのだから、無断で欠勤するとはとんでもないことでしよう。会社は本当に困っているのだから、きちんと説明してお詫びを言わなければだめだよ (・A・)イクナイ」と母は諭しているのです。

兄は「あの会社、とんでもない会社なんだ。経理はでたらめで二重帳簿ごまかしだらけ。あんな会社に勤めていると将来性がないんだよ ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…。とに角明日、会社に行ってみるよ」とのこと。

翌日、出社した兄は上司に不満をぶつけ、「私をセールスの仕事に回してくれるのであれば、このまま会社に留まってもよい」と要請したところ、会社はしぶしぶ認めてくれたということでした。新たな目標を持った兄は、目を見張るような努力によりセールスの成果を上げ、全国で10位以内の販売成績を収め表彰を受けると共に、特別賞与ももらうようになったのです。

業績主義とは恐ろしいもので、その後の兄は営業所長、支店長(20代)となり、勤めて8年目に本社の人事課長へととんとん拍子に昇進していったのです。まさに、順風満帆(ジュンプウマンパン:すべてのことがうまく運んでいる)といったところでしたが・・・・・・・人生は皮肉なものです。成果主義の落とし穴に・・・・・・・・?

後ほど詳しく記述しますが、成績優秀→一流大学→一流企業→重要ポストの構図が人間の幸せと考えがちですが、必ずしも当てはまらないという事例は沢山あります。それは、人間観、幸せ観、倫理観、価値観などなどによるのではないでしょぅか。いろいろと考えさせられる問題です。

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2009年3月16日 (月)

いたわりあう母と息子 ②

平成二十年九月(最期の年

・たらちねの母の余命はひと月と 受けしケイタイただ握り締め (二週間の札幌滞在の後、弟より~母病気の電話有り)

・張りのある母の声聞き安堵せり 余命ひと月疑いにけり

・ひと月の母の余命に誤審有り 三月の命されど短し

・小夜更けて母を抱えしこの軽さ 病の重さこの腕ぞ知る (十月末より母の家に滞在し介護す)

・肝がんの辛さに母は耐え難く 「早く死にたい」と主治医に告げる (11月18日 ホスビス病棟のある病院に入院)

・見舞うたび両手を合わす母の顔 仏に見えて胸に迫れり

・病院の食事に飽きて母望む おはぎを一口「美味しいねー」と

・会う度に指折り数え涙ぐむ われ去りがたし母の病室 (私の一時帰京に心痛め)

十二月六日、母九十七歳の天寿を全うし永眠す

・臨終を告げる妹の涙声 「お母さんまだ温かいんだよぅ・・・・・・」 (臨終の母)

・幼より受けし慈愛は海より深し たらちねの母は今宵旅立ちぬ

・最期日に「早く来て」との母の声 われ応え得ず母旅たちぬ

・「早く来て」と終末の母われを呼ぶ 冷たき母に如何に答えん

・祭壇の母の遺影はほほ笑んで 病の苦痛いづこへか消え (通夜の祭壇)

・たらちねの母の遺影は笑み浮かべ 父の遺影と揃いて立てり (葬儀を終えて)

最期を迎えた義母は、皆に感謝の言葉を残し安らかに黄泉の国に旅立ちました。その間、母の安否を気遣い、東京から数年にわたり来札し親子の絆を深めたり、短期間ではあるが介護に努めた義兄の優しさが滲み出ている短歌だと思いました。

親子関係はかくありたいものです。今、国会の予算委員会でも介護問題がとりあげられています。老若男女を問わず誰しもが必ず通る道ですので、お互いに深く考えていくことが大切ではないでしょうか。

《70歳になった私に対し、いつも応援のクリックをして下さりありがとうございます》

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2009年3月15日 (日)

いたわりあう母と息子 ①

親が子を、子が親を殺傷するという事件が後を絶たない昨今です。本当に殺伐とした世の中を嘆き悲しみ、憂う者の一人です。

世は少子化時代となり、親子関係にも大きな変化がもたらされております。一つには、少なく産んで立派に育てたいとの願いから、子どもの学業成績を上げることが中心課題となり、早期から子どもに密着して教育的働きに熱心な親が非常に多いことです。そして、思い通りにいかない子育てに疲れ果てて、時には児童虐待に陥る親もいるということです。

一方、親自身の生き甲斐を追求するために、子育ての犠牲になりたくない、と考える親の増加です。そうした親は子育てよりも自分のやりたいことを優先させ、子どもと向き合おうとする気持ちが弱くなり、子どもの心の成長に暗い影を落していることもあるのです。

では、どのような親子関係が望ましいのでしょうか。ここに、ヒントになる短歌がありますので、参考までに紹介します。この短歌は札幌在住の母を想う義兄(東京在住)の心情を読みとることのできるものであり、ほのぼのとした親子関係の姿なのです。

平成16年1月(前年12月18日来札、70日滞在)

・卆寿過ぎ料理楽しむ母の手に 注ぐ冬陽のいとやわらかき

・子ら集い母は手料理振る舞いて 「美味しいかい」と真顔で問えり

・子や孫に「母のとりめし」作らんと 老いの手弾むまな板の上

・おどおどと震える指で操作して ファックス受け取る母の目光る(母、初めてのファックス受信)

・吹雪去り弾む心で迎え待つ 母の目輝くデイサービスの朝

・春遠く母の細腕しもやけて 冬の陽射しよ優しく癒せ(台所に立つ母)

・「雪は降る」流れる布施のメロディーに つい口ずさむ母の声やさし(歌の好きな母)

・思い出の「雪の降る街」歌う母 ふるさとの町瞼に浮かべ

・ストーブと春の陽射しのせめぎ合い 母の茶の間の暖かさかな(日当たりの良い母の居間)

・「坊ちゃん」の朗読楽し母の笑み 春の陽入る部屋に広がる一年前から母に朗読を始める

・「二十四の瞳」を読みて声詰まる 母の瞳も潤んで見える

・「氷点」を朗読しつつわれ涙 母も涙す居間の陽だまり

・朗読を聞きつつ母はまどろみて 止めると目覚め「聞いてるよ」と

・70日息子と過ごし冬の日々 楽しかったと母の声震え(義兄 70日滞在し帰京)

・小春日に野辺のコスモス眺めつつ 初雪の降る北の母思う (平成16年11月 東京にて)

・年越しを娘家庭と過ごす母 電話の声に嬉しさこもる (大晦日)

・雪深き白樺林通り抜け 列車は母の町に近づく (平成17年1月17日、札幌へ着く。1ケ月滞在)

・「キタキツネ来ているよ」と囁いた 父の思い出語る母 (母と亡き父の思い出語る 庭にキツネ現る)

・吹雪の夜父の思い出語る母 目は遺影追いストーブ赤し

・新聞の料理の記事を余毎読む 九十二の母安らぎの時 (母の楽しみ)

・胃カメラをのむと決心した母の 手を取り進む新雪の道 (二月 母を病院へ連れて行く)

・たらちねの母の細腕支えつつ 雪の轍(わだち)をゆっくりと越え

・いづれわれ辿る道とは知りつつも 老母を叱り虚しさ残る(平成18年1月11日来札 1ケ月滞在)

・われ作る失敗料理に「美味しい」と 笑顔を見せる母は母なり (守の料理)

・母の背に疱瘡軟膏塗りながら 幼児のわれもかくありしかと母、帯状疱疹を患う)

・手紙出し返事遅いと催促す 母の文好き趣味を超えたり (自分中心のところもある母)

・七十を過ぎし息子に口癖に 「手洗ったかい」と念を押す母 (老いても母なり)

・花の咲く我が家の庭が恋しいと 「施設を出る」と母の声響く (五月末老健施設に越冬入所中の母より電話有り)

・紫陽花を風船にして届けたい 南風に乗せ北国の母へ (六月 府中の「郷土の森公園」にて 紫陽花を愛でる)

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2009年3月14日 (土)

幸福の方程式 ? 

三月は卒業、そして巣立ちのシーズンです。私は地元の道立高校へ首長代理として祝辞を述べることになっていました。前年は『君が代』『日の丸』問題で物議を醸した学校であったため、報道機関のカメラマンが一斉に待機しておりましたが、『日の丸』問題がクリアしたということで、今回は落ち着きのある中で式がはじまりました。私は校長の式辞、生徒代表の祝辞に続いて祝辞を述べることになっているのです。ポケットには町役場の総務部が作成した祝辞が入っています。

ステージには、生徒会の企画による英語の大型ステッカーが貼られ、何時もの卒業式とは趣を異にしているのです。私は、通り一遍な祝辞の代読より、自分の言葉で卒業生にはなむけの言葉を贈ろうと、とっさに思ったのです。司会の紹介で演壇に上がり、おめでとう→町長代理→代読を止める→その理由(ステージの英語を見て)と告げ、言い出した言葉はこうなのです。

スモール イズ ビューティフル」です。日本語に直訳すると「小さいことは好いこと」または「小さいことは美しいこと」と解釈する人もいるであろうが、ある人は「幸福の方程式」という言葉に訳した人もいたのです。その意味は、ああしたい、こうしたいとの願望の数をAとし、その達成した数、充足した数をB、その達成度、充足度をCとしたならば、B÷A=Cの式が「幸福の方程式」というのです。別な式で表せばB分のA=Cとなります。

例えば、皆さんがこの高校を卒業し専門学校や大学へ行かれる方が多いわけですが、その時、札幌のバス、トイレ付きのマンションの一室を借り、テレビ、ステレオ、冷蔵庫、洗濯機、車庫が備えられていて、家賃の安いマンションを求め、しかも新車の自家用車を求めたいという願望を持っていることにします。即ち、Aの数は10個です。ところが、札幌のマンションに入居することができ、バス、トイレ、テレビ、冷蔵庫のみが満たされている場合はBは5個なのです。従って、10分の5→5÷10=0.5 即ち達成度が0.5であり幸福度や満足度は50%なのです。この数が少なければ惨めに思ったり、不幸せと思うのが一般的です。

ところが、発想を変えてみて下さい。札幌まで通学するのではなく、市内のバス・トイレ付きのマンションへ入居させてもらえればそれで十分と思っていたらところ、テレビや冷蔵庫までも備えられていたとすると、Aが5でBが7 7分の5→即ち7÷5=1.4となり達成度は140%。即ち満足感や幸福感が十二分に満たされることになるわけです。

どんな時代や社会であっても、幸福に生きることができるのですそれは願望や欲望を小さく、少なくすることなのです。A分のB=Cの分母を小さくすることなのです。人間の欲望は際限がありません。その欲望を小さく、少なく抑えていれば、到達数、達成数、充足数が少なくても、幸せを感じとることができるわけです。

私の小学校時代は、アメリカの家庭のようにテレビと電話が備え付けられれば、いつ死んでも満足だと思ったものです。それが今は、日本中のどの家庭にもあるわけです。にもかかわらず、幸福だと思っている人は少ないことでしょう。要は、発想の転換なのです。このスモール イズ ビューティフルという言葉を、心の片隅に留めて下されば幸いに思う。 という主旨のことを祝辞として述べました。

この言葉は自分に対してのものであると同時に、不況下に生きる人達へのメッセージにしたいのです。東南アジアから帰ってきた旅行者が、異口同音に言う言葉は「貧しい国のネパールやミヤンマの人達は、どうしてあのように澄んだ瞳と素敵な笑顔で暮らしていけるのだろうと不思議に思う。日本の明治時代の人々を再現しているような錯覚に陥る」と言っていましたが、分かるような気がします。世界で一番「心の豊かな国」なのでしょうね。即ち、「物の豊かさ」から「心の豊かさ」への転換を図ることが重要であると思うのです。

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2009年3月13日 (金)

授業と脱線 雪女効果?

高校2年生の歴史の時間です。どうしてそのような話になったか記憶していませんが、先生が「雪女と言う話を知っている人、手を挙げて?」というのです。誰も知らなかったのです。「そうか、話してやろうか」と言って話を始めました。

「・・・・ある冬の日の事、吹雪の中を帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにしました。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、いつの間にか恐ろしい目をした白ずくめの美しい女がいるのです。その女は、隣に寝ていた茂作にはーはーはーと白い息を吹きかけているのです。恐る恐る茂作の顔を見ると、青白くなりまるで死人のようになっているのです。巳之吉が身震いしたその時・・・・教室は静まり返っています

見たはねsign03突然大きな声。お尻が10センチほど浮き上がるほど皆は飛び上がりました。高校2年生が、たかが怪談を聞いて飛び上がるとは・・・・・・・・・・・・・・。お互いに呆(アキ)れて大笑いをしたのでした。先生は「この話は雪女といってラフカディオ・ハーンというギリシャ生まれで数奇な運命をたどった人の作なのですが、日本に帰化して小泉八雲と名乗り多くの怪談をつくった人です。時間があれば図書館で読んでごらん」とのこと。

月日が経ち教師になった私は、どの学年を担任してもこの雪女の話をして上げたのです。そしてあの場面です。「見たはねsign03」と大きな声。子ども達は口々に「アア、オッカナカッタ!」「先生脅かさないで!」「ビックリした、心臓が止まりそうになった!」と異口同音(イクドウオン:みんなが口をそろえて同じことを言うこと)に驚きを・・・・・・・・・。

授業中の脱線した話が意外な効果をもたらすことが分かったのです。「雪女」の途中まで話し、後の続きは自分で読むように誘導すると意外にも多くの子ども達が読むようになるのです。

子どもとは面白いもので、憶えて欲しくて丁寧に教えたことは直ぐ忘れるのですが、授業中の一寸した漫談や脱線した話を覚えているものなのです。私も中学時代に社会科の先生が「みんな数字を三つ書いてごらん。それでは発表してもらいます。・・・・・・・・どうですか?一番多いのが5、二番目が3、三番目が8ですね。日本人の殆どの人に共通する数なのです。この538が仏教伝来の年であり、皆さんの家は仏教ですから、心の中にこの数字が自然に宿っている証拠なのです。不思議ですよね。」とのこと。

このような授業中の脱線内容を70歳になった今でも憶えているのです。目標到達のため細かな計画を立て、それに基づいて丁寧に教えてもいつまでも憶えてもらえず、時には1,2分の漫談が子どもの心をとらえることがあります。ですから授業そのものを余り堅苦しく考えるのもどうかと思うことがあるのです。こんな話をすればまじめな先生にお叱りを受けるかも知れませんが、要は、心に「ゆとり」を持って授業に臨むことが大切であると言いたいのです。

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2009年3月12日 (木)

気合一発で 変身した生徒

高校1年で初めて古文との出会い。「つれづれなるままに、日暮らし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ 」の序段ではじまる『徒然草』なのです。科目は『国語Z』。

指導者はベテランの先生で兄も習ったことがあり、教え方が上手いと評価されていた先生なのです。ですから私は好意的な眼差しで授業に臨みました。この先生はにこにこし冗談を飛ばしながら授業するものですから、あまくみた生徒がおしゃべりしはじめたわけです。その様子をみて優しく注意する先生。しかし、数分してまたおしゃべりしはじめる生徒。また、先生の注意です。おしゃべりしている生徒はこの先生に対して、何をしても怖くはないと思ったていたのでしょうか。また、おしゃべりし始めたその時です。

「イャーsign01」との奇声。これまで耳にしたことのない気合。吃驚(ビックリ)して飛び上がる生徒達。一瞬静まりかえった教室。穏やかな口調で「ごめん ごめん わかるでしょう?」と微笑みかけ「私、剣道をしている者だから、つい気合が入っちゃった!ごめんな!」。

家に帰って兄にそのことを話すと「あの先生は剣道5,6段で凄く強いのだぞ。放課後に一度練習している姿を見てごらん?」とのこと。私は、この話を友達に告げ、放課後、数人で剣道部の活動の様子を見に行きました。驚きです。唖然としました。そこには授業中に見せる温和な姿はなく、気合と共に目にも留まらぬ速さで竹刀(シナイ)を動かす先生の姿。私達は声もでません ヒィー(((゚Д゚)))ガタガタ。

奇声騒ぎから一週間後の『国語Z』の授業です。私達の報告内容はクラス全体に広まっていましたから、先生が教室に入った瞬間から異常とも思われるほどの静寂なのです。先生はにこにこしながら何時ものように授業を進めるのでした。

[注釈] いろいろな教師のタイプがありますが、一芸に秀でている教師に対して、子ども達は一目置ようです。上記の剣道の先生の他に、「プラトン」とのあだ名で親しまれていた数学の先生は、どんな難解な問題でもすぐ解き方を教えてくれるものですから、私達は尊敬しておりました。何と言っても指導力によるわけです。また、「あの先生は怒ったらおっかないぞ」という場面も見せておく必要もあります。子どもがいつも威圧感を抱いて授業に臨むことは好ましいことではありませんが、授業妨害をしたり他の友達に対して暴言をはくようなことがあれば、教師は真剣に怒り、諭す必要があるのです。そうでなければTVドラマ『ごくせん』の授業と同じようになってしまいます。

こんなこともありました。初任者のB先生がやんちゃざかりの3年生の担任です。ところが落ち着きがなく無鉄砲な腕白小僧が、先生の注意を素直に聞かないのです。授業参観日でも注意散漫な態度をとるものですから、その子に振り回されがちな授業となるのです。その様子を見ていた保護者達は「学級崩壊みたい」と言い出したのです。それで、私がその腕白小僧に「B先生はね、大学時代にソフトボールのピッチャーをしていて、野球をしている男の先生でも打てないような球を投げるんだよ! どう、今日の放課後、隣の中学校の先生方と試合があり、B先生が投げるんだよ。私と一緒に応援しないsign01」と誘いました。

放課後、私は腕白小僧と共に応援のためグランドに出ました。試合前にB先生がピッチングの練習をしているのです。キャッチャーのミットにピシッピシッと音をたてながら速球を投げています。そして試合が始まり、中学の男子教諭が空振りで三者凡退です。傍にいる腕白小僧も唸(ウナ)っています。「スゴイ!おっかないsign03」と。私が「B先生は大学時代キャップテンをしていて、怒り出すと本当に恐ろしい人だったんだとさ」と告げると「うーん、本当にそうだろうなー」と神妙な顔をしているのでした。

その後、腕白小僧の学習態度が変身したのです。B先生の話をよく聞くし、注意に対して素直に受けとめる子に変容していったのです。この話も一芸に秀でた教師に対して一目置いた子どもの事例の一つです。

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2009年3月11日 (水)

フードバンクという活動

『サインズ』(2009,4号)という雑誌のある記事に目が留まりました。「捨てられている10兆円」との見出し。2154万トンの食品廃棄量。もしお金に換算するなら・・・・なんと10兆円にもなるという話です。これは、農林水産省と環境省が試算した2002年度のものなのです。ところが、同じ年に世界各国から発展途上国に援助された食料は830万トンに過ぎないとのこと。

この廃棄される食品を活かそうとする活動が、「フードバンク」なのです。フードバンクは、品質に問題がないのに、ホウソウ印刷の不都合などで「売り物にならない」と企業が廃棄する食品などを寄付してもらい、生活困窮者や福祉施設などに無償で提供する取り組を指しています。

この活動は、1960年代にアメリカ・アリゾナ州で始まり、日本ではNPO法人「セカンドハーベスト・ジャパン」(理事長チャールズ・E・マクシセルトン氏)が2002年から活動を始めたそうです。

戦中・戦後の困窮生活を体験した私には、この活動に対して心から拍手を送りたいのです。我が家でも冷蔵庫の中にある物や常温で保存している食品類の中で、賞味期間が切れているからという理由で廃棄することがあるのです。この賞味期限も問題があると思うのです。各生産者や企業が実験した結果に基づいて期限を設定しているのかどうか疑問に思うのです。最終的には、人間の味覚・臭覚・視覚などに訴えて判断を下す力も身につけておく必要もありそえです。

ひもじさを知らない若者達が、食べ物を粗末にしたり、偏った食生活をしている傾向があります。それに歯止めをかけるのは一体誰でなければならないのでしょうか。子どもを育て、教育する側の人達に訴えたいのです。食の安全に対する知識・理解・技能・態度と食品管理能力などをしっかりと教えていくことも大切ではないでしょうか。

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2009年3月10日 (火)

母とパーマネント

ロングヘヤーの母。尾てい骨近くまで伸ばしていた髪を頭の上で丸め、ヘアーピンで留めながら上手に結うのです。でも洗髪が大変。家でする時はタライに水をとり、その中で洗い、最後にきれいな水ですすぎます。その後、乾かすのも大変です。特に冬期間は今のようにヘアードライヤーが無かったものですから、乾いたタオルでよく拭きその後ストーブの近くで乾かすのです。

いつも、そのような様子を見ていた姉達が「母さんsign01そろそろパーマをかけたらどう? ○○さんのお母さんも、△△さんのお母さんもかけているのよ。」と勧めるのですが、素直に応じる母ではなかったのです。しかし、度重なる姉妹の催促によりやっと応じたのです。

私たち兄姉妹は、パーマ姿の母をイメージしながら帰って来るのを待ちました。数時間して玄関の戸が開いたので急いで出てみると、ほっかぶり(手拭で頭を被う)をしているのです。姉が「折角パーマをかけたのだから、手拭を取らなければ意味がないでしょうpout」と強く促すのです。「だって恥ずかしいもの」と言って、手拭を取ろうとすると逃げ出す始末でした。ところが、子ども達に追い詰められ、ホッカブリを取られた母は、恥ずかしそうに顔を隠すのです。こんな初心な母を見たのは初めて。

しかし、家の中ではパーマ姿でしたが外出する時になると、いつの間にかほっかぶり姿に戻る母だったのです。家族皆の忠告によりこれも数週間後に是正されたのです。アメリカかぶれを嫌う母も、やっと時代の変化に対応する姿に一歩近づいたのです。母いわく。「パーマをかけていると洗髪も楽だし、身体全体が軽くなったような気がするね」と満足な様子。

私達兄姉妹が次に目論んだことは母の洋装スタイル。まだ40代半ばで背の高い母はきっと似合うであろうと思ったのです。それで、先ず「おこし」から「ズロース(今のパンティー」への変身を促しました。しかし、「着物はオコシでなければならないのよsign01」と固執し、遂に死ぬま(享年69歳)で着物とオコシ姿を通した頑固な明治女を貫き通したのです。

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2009年3月 9日 (月)

妹 卒業式で答辞

久々に明るいニュースが飛び込んで来ました。直ぐ下の妹(3女)が卒業式で答辞を読むことに決まったとのこと。教員になったばかりの兄が妹の担任から聞いたのです。どのような選考内容・方法で決定されたのか定かでありませんが、何れにしても約150名いる卒業生の中から選ばれたものですから、母や兄姉達の喜びは一入です。「父さんが生きていれば、どんなにか喜んだことだろうにねsign01」と学歴偏重の母は、また夢を大きく膨らませているのでした。

母の自慢は、兄(長男)が小学校時代の修了式に於いて、隔年毎に右総代(学年を代表として通信簿や賞状をもらうこと)であったことなのです。下の写真がそうです。

Photo

後の兄姉妹はどのような賞状をもらったか記憶しておりません。私は特別学業成績に秀でていたわけではありませんが、手元に三枚の賞状があります。

Photo_2

Photo_3

他の一枚は六箇年間精勤の賞状です。しかし母に言わせれば賞状の価値が違うらしいのです。要するにナンバー1を重んじるのです。

札幌市のある教育長がナンバー1の教育からオンリー1の教育を教育行政執行方針の一つに掲げたことにより、一部の父母が騒ぎ出し、何かと問題が大きくなったため辞任せざるを得なくなったのです。建前と本音の違いがこれほど極端なものはありません。

私も我が子をナンバー1とはいかないまでも少なくとも上位になって欲しくて、最初の子には叩いてでも教え込もうとしましたが、期待通りにはいきません。完全に子育てについての失敗です。しかし、嬉しいことにその子が高校時代から実力を発揮し出し、イキイキと活動するようになってきたのです。

私は子育て最中の保護者の方々に訴えたいのです。それは、槇原 敬之 作詞・作曲の『世界に一つだけの花』の歌を思い出してごらんと。このような人間観を持って欲しいのです。

花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた 人それぞれ 好みはあるけれど どれもみんな きれいだね  この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで バケツの中 誇らしげに しゃんと胸を張っている

それなのに 僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのに その中で 一番になりたがる? そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればい

困ったように 笑いながら ずっと迷ってる人がいる 頑張って咲いた花はどれも きれいだから仕方ないね やっと店から出てきた その人が抱えていた 色とりどりの花束と 嬉しそうな横顔

名前も知らなかったけれど あの日僕に笑顔をくれた 誰も気付かないような場所で 咲いてた花のように そうさ 僕らも 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい

小さい花や 大きな花 一つとして 同じものはないから No.1にならなくても いい もともと特別な Only one

効率主義・能力主義・成果主義などの光の部分のみが脚光を浴び、影の部分がないがしろにされがちな社会に生きている人達に訴えたいのです。山田暁生氏(山田中学生問題研究会代表)の言葉を引用するとこうなります。

「・せるな! ・わてるな! ・きらめるな! 人に比べて自分は遅れている、こんなことをしていたら置いていかれる、落伍者になる、と他人に基準を置いて、それに合わせることにきゅうきゅうしない方がいい。あせらない方がいい。 たしかに、若いうちに養っておくと助かる力はいろいろある。でも、あわてることはない。一つ一つ、一歩一歩、しかりと身につけていけば、いつかは山となり、大きな力がつく。あわてるな。 最後に。人生粘り勝ちだ。継続は力なり。長い人生のことだ。あきらめるな。粘り強くやっていると、すごい力がつくよ。こう考えると、まっすぐ進めなくても、平気!平気!」

いずれにしても、努力が報われる社会、夢や希望を持つことのできる社会になって欲しいものですよね。 

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2009年3月 8日 (日)

“奨学金”ってなんだろう??

一人の友達が3時間目に登校してきました。不思議に思って聞いてみると、奨学金をもらうため市役所へ行ってきたとのこと。「奨学金ってなー?」と聞くと、授業料を払わなくてもよいし生活費の一部がもらえるとのことでした。素晴らしい情報です。これで多少なりとも家計の助けになると思い、友達に教えてもらったとおり、早速、事務室へ申請書をもらいに行きました。添付書類として「収入証明」が必要であるとのこと。

この証明書を発行してもらうには、市役所へ行かなければならないのです。生まれて一度も市役所へ行ったことのない私でしたが、母に道順を教えてもらい、無事、証明書を交付してもらいました。

保護者である母は無職です。従って収入は有りません。しかし、父の遺族年金が確か、6,280円?教員をしている兄の初任給が7,800円、会社勤めの次男は7,000円前後、姉は4,000円位と見積もっても合計25,000円程度です。これで家族8人が生活しなければならないのです。一人当たり月に約3,200円なのです。従って、「奨学金」申請条件の一つはクリアしておりました。

数週間経って、友達が「僕、奨学金が適用になったけれど、君はどうだった?」とのこと。私は確認のため急いで事務室へ行きました。担当の事務官は「残念でした。君は該当しませんでした」との回答です。理由は、成績が優秀でないからとのこと。ショックです。しかし諦(アキラ)めざるを得ません。該当した友達二人は模擬試験でいつも学年で10番以内に入っていましたから。

私は、「奨学金の支給条件」などを全く知っていなかったのです。なぜなら、ホームルームで担任からこの制度のことについて説明を受けたことがなかったからです。恐らく、事務室前の掲示板に「お知らせ」として啓発文書が張られていたものと思われます。しかし、一般の学生は授業料の納付やバス通学時に使う在学証明書の発行以外は、事務室に行く必要がなかったわけです。ですから、事務室前の掲示板には無関心だったのです。

[注釈] 「奨学金」とは、経済的な事情で学業の継続が困難な場合に、授業料や生活費などのお金を支援してくれるものです。つまり、お金が無くても向学心に燃えている場合は学費を貸してくれたり、もしくはお金をもらうことのできる制度なのです。

最近は不景気の影響で授業料の未納や滞納が顕著になってきており、奨学金の利用者が急増しているそうですが、知っておかなければならないことがあります。それは、「貸与」と「給与」の二種類があるということです。「貸与」とは貸してあげるということであり、社会人になった段階で返さなければならないのです。一方「給与」(給付とも言われている)は、返さなくてもいいわけです。

昔と違って今は、いろいろな奨学金制度があります。もっともポピュラーなものとして財団法人『日本学生支援機構』(旧日本育英会)が行うものがあります。他には新聞社が行なうものや民間企業、地方自治体のものがありますが、それぞれ違った特徴や条件、審査を持っておりますので、事前にどんな内容かそのしくみを理解しておく必要があります。また、申請時期やその方法と、あわせて返還義務についての内容十分に理解しておくことも大切です。

先進諸外国は「給与」が中心でありますが、残念ながら日本は「貸与」が主流です。かつて日本は経済大国と言われてきましたが、この制度について先進国なみに改善を図るという施策がとられてこなかったことは非常に残念に思うのです。また、平成21年度の国の予算案では奨学金が減額がされてきている状況をどう理解してよいのか、疑問の残る問題です。

なお、参考までに昭和29年頃の物価を紹介します。

昭和29年 ・小中学校教員初任給(7,800円) ・公務員初任給(上級8,700円) ・下宿代・東京本郷(5,500円) ・映画館入場料(100円) ・たばこ・ピース(45円)

昭和30年 ・トヨペット・クラウン(1014,860円) ・カレーランス(100円)

昭和31年 ・国家公務員・賞与(20,880円) ・テトラパック牛乳(14円) ・サッポロビール(125円) ・カルピス(280円) ・地下鉄乗車賃(20円) ・パーマ料金(529円)

昭和32年 ・銀行員・初任給(12,700円) ・巡査・初任給(8,100円) ・小学校教員・初任給(8,000円) ・公務員初任給・上級職(9,200円) ・映画館入場料(150円) 

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2009年3月 7日 (土)

学歴とボーナス 兄の不満

兄二人が勤め、初めてボーナスが支給されました。勿論、全額母の手へ。次男が三男に聞きました。「幾らボーナスもらった?」「えーえ、学校の先生ってそんなにボーナスが出るのか?矛盾しているよな!俺は大学4年間出ており、お前はたった2年間だぞ。世の中、何かおかしい!変だ!」「もうバカらしくてやっていられないangry Σ(・ω・ノ)ノ!」と可なりの興奮状況なのです。教員になった弟は「だって、国でそう決まっているからどうしようもないでしょう。俺に文句を言ったって・・・・・・・・。」と困った顔をしているのです。

私は、次男に勉強を教えてもらったり、ヨットや魚釣りに連れて行ってくれたりしていたので、兄達の中でも一番世話になっていたし、努力している姿も知っていたので気の毒に思いました。次男は小学6年生卒業(昭和19年)と同時に、新潟市にある『陸軍少年飛行兵学校へ入学。そして終戦。旧制小樽長橋中学校へ編入、新制高校(小樽潮陵高校)へ編入・卒業という具合に学制改革の最中に学生時代を過したのです。そして受験勉強に勤しみ小樽商科大学に進学・卒業したのです。

それに比べて三男になる兄は、勉強嫌いでしたがよくアルバイトをしてお金を稼いでいました。私が高校へ入学時の教科書は三男が買ってくれたものなのです。この兄は高校卒業の時、就職試験を8,9社受けましたが全部不合格。やっと射止めたのが国鉄(今のJR)です。しかも、連結手(車両と車両をつなぐ仕事をする人)として採用になったのです。見習い期間に現場へ行ってびっくり。危険極まりない仕事です。一番負傷事故の多い職種であったため、連結手以外の仕事を希望したいと懇願したところ、車掌なら採用してもよいと譲歩してくれたのです。しかし、口下手で人前に出て説明したりお願いすることが嫌いだったものですんから、事務系の仕事はないかと決断しかねていたのです。

家へ戻り父にそのことを話すと、「学芸大学を受けて先生にでもならないか?今の先生は月給が安いがもともとは高かったんだよ。お父さんの新卒当時は、ひと月の給料で本を数冊買って、夏休み中に道内旅行をしても、まだ貯金できるほどの余力があったんだ。世の中が落ち着いてくると教育の大切さが見直され、教員の待遇も良くなると思うよ。」と説得したのです。たまたま零細漁師の長男も「にしん漁」が不振に陥り、漁師を継いでいくべきかどうかと迷っていた時でしたので、兄はその友達とともに「北海道学芸大学 二類小学課程 札幌分校」に挑戦したのです。

当時(昭和27年)、北海道学芸大学(今の教育大学)は、札幌、函館、旭川、岩見沢、釧路の5分校です。そして一類(4年間)と二類(2年間)があり、小学課程と中学課程と札幌分校には特設音楽課程と特設美術課程もあったのです。しかも、願書には第一志望校から第三志望校まであり、選択の幅が大変多岐に及んでいたのです。中でも、生活困窮家庭の子は短期間で教員の免許状をとり、早く就職して家計を助けたいという目的から一番易しい二類小学課程を受験する傾向がありました。当時の倍率は二類小学課程が一番低く、1.2~1.5程度(分校によって異なる)でしたから大して受験勉強をしていなくても、並程度の力があれば合格することができたのです。しかし、中学課程の各教科は定員が10から15名でしたので、30数倍の倍率になる教科もあったのです。

このような実態を知っていた次男は受験勉強もしなかった三男が、教員となりボーナスが自分より多いということは、「努力の結果としての報酬」ではない社会に対する不満が爆発したのではないかと思われるのです。

70歳になった私は年金生活者です。私も学芸大学二類小学課程でしたので、20歳で小学校教員になったのです。60歳の定年まで40年間の教員生活です。同じ年齢の友達は学芸大学の中学課程です。数十倍の難関を突破して教員になりましたが、1年の浪人生活がありました。従って定年まで勤めても37年間なのです。共済年金は年金をかけた月数によって決まるわけですから、一番長く勤めていた私が一番が高いのです。ですから、その友達も私の次男と同じことを言うのです。即ち、難しい学部で二年間も長く勉学に努めて同じ職種についても、勤続年数だけで年金が決定されるとは、随分矛盾しているということなのです。また、新制高校を出てすぐ代用教員になった人が、校長の退職金や年金と殆ど変わらないのもおかしいというのです。しかし、私はこう思うのです。

高学歴の教員がより児童生徒に信頼され、教育成果を上げていると言えるのかと反論したくなるのです。「教育は人です」「人は愛です」「愛は無償の奉仕です」。教育に対する使命感や姿勢が大切であって、高度な指導技術だけではないということを主張したいのです

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2009年3月 6日 (金)

成果上がる 家庭学習法

高校1年の中間テストのことです。数学の採点を見てびっくり アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!

何と38点。生まれて初めての低得点。座席の前後の友達が70点以上・・・・・・。

「あっ!この問題と同じだsign01これもだsign03

友達の持っている問題集に今回のテストと同じ設問で、数字だけを変えた問題が

3問も出ているではないですか。

「先生きたない!問題ぐらい自分でつくれよsign01

とつぶやき、腹の虫がおさまらない私です。

帰宅するや否や母にこのことを話し、問題集を買ってくるからと言ってお金をもらい

すぐ自転車で小樽駅前の『いろは堂』という本屋へ急ぎました。とに角、悔しさと

無念さで一杯なのです。ですからペタルを踏む足に力が入り、5月のそよ風を感ず

る余裕すら失っていたのです。

本屋に着くと、友達が持っていた『チャート式』という問題集が目に留まりました。

それを手にすると、やる気満々になったのです。帰宅後、学習計画を立てました。

1日何題取組むと、この問題集を終えることができるのか計算しました。そしてすぐ

実行に移したのです。

期末試験になりました。『チャート式』による家庭学習の成果を見るチャンス。

結果は74点。私は自分の取り組み方に間違いがないことを知り益々意欲が湧い

てきたのです。このことが、

私の人生でピンチをチャンスに生かした最初の体験になったのです。

[注釈] 私の中学時代までの家庭学習法は教科書中心でした。中学3年になっ

て高校入試のため兄が買ってきた受験問題集(社会・理科・英語)を友達と一緒

に取組んだことはあったのです。しかし、小樽市内の辺地にある祝津町には本屋

がありませんでしたので、受験雑誌やいろいろな問題集を目にしたことがなかった

のです。

ところで、現在も数学の問題集に『チャート式』がありますが、解答の仕方が分か

らないという人のために解法を説明した別冊ができているとは、一大進歩です。

私は、その欠点を克服するために、『数学辞典』という例題と模範解答を示してい

る問題集も入手しました。これにより、数学の得点が伸びてきたわけです。

即ち、高校時代の数学の得点推移はこうです。

   科   目   学年 1学期 2学期 学年評価

   解 析 1   1年   56  75   5,4,4  

   解 析 2   2年   85  85   4,4,4

   一般数学   3年   75  80   4,4,4

人それぞれ得手不得手がありますが、一点集中方式で取り組み、その成果を自己

採点し、そのエネルギーを他の教科・科目・分野に転移させることが「やる気」が育

つ源であると思うのです。あれもしよう、これもしようと手を広げないことです。

しかし、世の中にはいろいろ研究している人がいることを最近知りました。

そのニュースレターを読みながら

そうだ!全くその通りだよsign03」とか「なるほど?そのような方法があったのか?」

「俺の学生時代に、このような勉強法を教えてくれる人がいれば、私の進路も変わ

っていただろうに♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:」

そのニュースレターは下記の通りでーす。覗いてみては如何ですか。

勉強法研究会

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2009年3月 5日 (木)

教科選択は 進路決定が先

高校に入学してはじめに戸惑ったのは教科選択でした。当時(昭和29年)このようになっていたのです。・国語(必修、選択、漢文) ・社会(一般社会、日本史、世界史、人文地理、時事問題) ・数学(解析1、解析2、一般数学、幾何) ・理科(物理、化学、生物、地学)・芸術(音楽、図画、工作、書道) なのです。

高校で特別ていねいな進路指導がなかったため、どの教科を選択したらよいのか悩みました。結果的に直ぐ上の兄(三男)に相談したのですが、それが大学受験や進路決定に悪影響を及ぼすとは?全く知らなかったのです。

問題は理科なのです。物理や化学、生物、地学という科目はどのような内容のことを学習するのか分かっていなかったのです。兄の薦めで生物を選択したのですが興味・関心が持てません。従って、テストの総合点数は1学期68点、2学期47点であり、要するに単位が取れる程度でいいと思って勉強しなかったのです。

兄は国語、日本史、生物が得意で私とは正反対なのです。昼休みや放課後、化学を選択していた友達は、化学式を面白そうに勉強していたり聞きあっている姿を見て羨ましく思ったのです。

数学の好きな私は、こう考えました。1年の生物では大学受験をしない。2年生で化学、3年生で物理のコースです。そのことを兄に相談すると、物理は数学に似ているのでお前に適しているが難しい科目であり、大学受験は2科目なので普通は1、2年生のうちに履修し3年生になったらその科目の復習に当てるのが一般的であるとのこと。

結果的に私は受験勉強のことを考えて、物理→地学のコースに決め、化学は履修しなかったのです。私の大学志望校は1、2年生の時は小樽商科大学、北海道大学、室蘭工業大学の順でした。3年生になり自分の成績と家庭の経済力、就職状況を考えて、第一志望が室蘭工業大学、第2志望が防衛大学校、第3志望が学芸大学だったのです。

ところが誤算です。室工も防衛大も受験科目に化学が必須。ショック アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!    残念ながら両校の受験は諦(アキラ)ざるを得なくなったのです。特に、防衛大は防衛省の職員の一員となり、給与や被服が支給されることから、家族に負担をかけず将来の生活が保障されるし、片親家庭であっても就職に不利益を被らないからです。

いずれにしても、人の助言を受けるのは良いことですが、自分の進路は自分で決めるという『自己決定する能力」が備わっていなかったのを悔いる私でした。

[注釈] 防衛大学校のような学校は、省庁大学校と呼ばれ普通の大学ではなです。防衛医科大学校、税務大学校、気象大学校、海上保安大学校、航空保安大学校が該当し、入学試験ではなく採用試験を受けることになるのです。

これらの大学校へ採用されると、給与や被服が支給され、2006年4月現在で学生手当(給料)が月額11万円、年2回の期末手当(賞与)が年額約38万円です。現在、高校卒業後に専門学校へ通う学生が極めて多いようです。しかし、自分の進路を真剣に考えず、安易に選択する傾向があるように見受けられます。

世は100年来の大不況と言われており、家庭の経済も破綻寸前に陥ることも予想されます。また、派遣労働者、派遣社員等の現状を知った時、自己の進学や就職について多くの情報を入手し、目標を持って選択・決定して欲しいと願っております。また、高校側でも生徒の進路指導をする際に、巣立っていった卒業生の追跡調査を実施し、進路決定に役立ててもらう努力も必要ではないでしょうか。

とに角、フリーターニートという言葉が定着する社会は異常です。自分はどのような仕事がむいているのか、総合学習の職場訪問の機会などをとらえて初歩的な予備知識ぐらいは持ってもらいたいと思うのです。   

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2009年3月 4日 (水)

PTA会費 免除

小樽桜陽高等学校へ進学。入学式終了後の学級指導で授業料や後援会費(今のPTA会費)の納入袋が配布されました。それから数週間して担任が「君、後援会費がまだ納入されていないと事務から連絡があったのですが、どうしたのですか?」「家は父が昨年亡くなったのでお金がありません。払えないのです。」と言うと、「それでは、後から文書を渡しますからお母さんに書いてもらいなさい。」とのこと。要するに、『後援会費納入免除申請書』だったのです。

私は、その申請書を母に見せもせず、タンスの下の方に置いてあった印鑑を母の名の横に押して提出しました。この一枚の紙切れのお陰で、私は3年間後援会費を納めずに卒業したのでした。母の許可もなく印を押したことが分かると厳しく咎められるので、私は内緒にしておりました。

[注釈] 日本におけるPTAは昭和22年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の教育政策に則り発足をみました。それまでは、父兄会、後援会、保護者会などの名称で存在し、環境浄化活動や教育条件の整備向上を進めることを目的としておりました。

PTAは ①家庭と学校の連携協力 ②父母、教師、一般社会の協力による児童生徒の健全育成 ③学校教育環境の整備 ④児童青少年の補導、保護、福祉に関する法律の制定 ⑤公立学校の教育予算の確保 などを目的に掲げ実現することが期待されていたのでした。

しかし、大多数の学校では、従来の後援会や父兄会などの性格を残したままであり、全員自動加入で学校後援会的な性質を残したままであったようです。特に、新制高等学校は発足してから歴史が浅いため、図書館やグランドが整備されていないところもあり、学校教育環境整備に力点が置かれていたのです。

ところが現在は、少子化の影響により地域における学校の存在そのものが危ぶまれてきました。教育行政を推進するに当たって、如何に学校を再編成すのかが各地方自治体の最重要課題になっております。PTAとしてもこの課題をどう受け止め対応していかなければならないのか、皆が知恵を出し合うことを願っております。

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2009年3月 3日 (火)

私の マドンナ

高校へ入って大変嬉しかったことは、多くの懐かしい顔に出会えたことです。私が

5年生の2学期まで在学していた長橋小学校時代の友達に約4年振りに会えたの

です。一緒に通学した輝男君。計算を競い合った尚人君。掃除当番で雑巾を投げ

合った国男君。「ま~こ 窓から 尻出して 蜂に刺されて え~んえんnote」とやじっ

て泣かせたことのある幼馴染のマコちゃん。そして、一番好きだった女の子の和子

ちゃん。その和子ちゃんが同じクラスになるとは夢にも思っていませんでした。

今の学生なら、早速デートに誘いルンルン気分になったのでしょうが、何せ初心

(ウブ)な私です。「お久し振りsign01」の一言のみの挨拶しかできなかったのです。

私は、彼女に弱みがあったのです。理由は小学4年生にさかのぼります。

掃除当番が一緒の時、彼女の気を引くため絞(シボ)った雑巾(ゾウキン)を持って

「和子!いくぞsign03

と言って、思い切り投げ渡したのです。ところがその雑巾がまともに彼女の顔面へ。

アブネ━━Σ(゚д゚;)━━!!  彼女は痛さのため、屈みこんで泣いてしまったのです。

先生に注意され謝った ヾ(_ _*)ハンセイ・・・ のですが彼女は許してくれませんpout・・。

したがって、彼女との6年振りの再会にもかかわらず、雑巾事件の映像が目に焼

きつき、許してくれない彼女に気安く話などできるわけがないのでーす。

私は、学生時代も新婚旅行中も女性と腕を組んでheart02歩くことがありせんでした。

恐らく幼少時代からの家庭教育の影響ではないでしょうか。母は

「佐藤さんの馬鹿息子、また中川さんの娘としゃべっていた。本当にあの子らは

不良だよsign01」とよく話をしていたのです。男女が一緒にいるだけで不良扱いにされ

た時代です。だって、「男女七歳にして席を同じにせず」という言葉をご存知だと

思うのですが、戦前までは男女共学ではありません。二年生から男組と女組に分

かれるクラス編成があったようです。そのような教育を受けてきた父母ですから、

男女が仲良く話しをするとか、ましてや腕を組んで歩くなどは考えも及ばないことな

のです。父の口癖は

女と金には気をつけろsign01」です。初心な私が、このような家庭教育を受けてきた

ものですから、今でも男女が腕を組んで歩いていると罪悪感を覚えるのです。

教員になった私は、好きな子にいじわるする子をよく見かけました。そんな時、

この雑巾事件のことを話しました。

■ 人に好かれることは嬉しいことだ。

■ 好きだと素直に言えず、いじわるして気をひこうとする態度は、好ましいことで

 はない。好きな人に嫌われてしまう。

■ 人に嫌われることは悲しく惨(ミジ)めなことだ。しかし、もっと悲しく惨めなことは

  「人を好きになれないこと」だ。

■ 人を好きになれる人は、心の広い人であり、とても素敵なことなのだ。

この話を聞いた教え子の一人が、卒業文集に次のように書いてしまったのです。

                     『初  恋

初恋の人は、きれいな人で笑い顔のすてきな人である。知っている人はだいぶい

というので、ビックリした。教えてといった人は上田さん、山川さんなどたくさんい

るなか、村田さんがしつっこく聞いたので、ぜったい教えないという約束で教えた。

でも、女はおしゃべりだとゆうことが分かった。初恋の人まで言ってしまい、村田が

憎たらしくなった。でも、先生が

「人に好かれることは、嬉しいこと。人を好きになることは、心の広い人だ。」

と言ったので、ほっとした。

好きな人の名前は、かきくけこの上から五つ目、まみむめもの上から五つ目、らり

るれろの上から二つ目である。もうわかったと思うが、気は変わらない。スクールキ

ャンプで歌に出てとても嬉しかった。わざと逆らったり、まねをしたりしたこともあっ

た。アイラブユー、なんちゃって。でも、きれいだなぁと思う。将来その人は、どんな

人になるんだろう。きっと、もっときれいになるんじゃないか。

教育とは恐ろしいものですね。恥じも外聞もはばからず卒業文集で告白するとは。

予想外の展開に戸惑う私だったのです。

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2009年3月 2日 (月)

就職戦線 異状あり

世界的な景気後退や円高で企業経営が一段と厳しくなり、雇用環境の悪化が加速していることが明らかになったと報道されている。厚生労働省の調査によれば、昨年十月以降失職したか、三月までに失職見込みの非正規労働者が約15万7千8百人とのこと。私の兄が就職活動した昭和29年も今ほどではないと思うが、大変な就職難だったわけです。

父も母も高等教育を受けていればよい会社に勤め、楽な生活が送れるものと思っていたのですが、現実はそんなに甘いものではありませんでした。兄は北海道大学(北大)と小樽商科大学(商大)の両方に合格したのですが、通学経費とより歴史ある学校である商大を選択しました。ところが、いざ就職となるとなかなか難しかったのです。経済専門の大学出は商事会社や銀行が勤め先として脚光を浴びていたのです。当然兄もそれらの会社や銀行をめざして就職試験をうけました。しかし、試験の結果が悪かったせいか、どの商事会社もだめでやっとのことで現在の北洋銀行(元拓殖銀行)の第一次試験(学科)に合格したのです。そして、喜び勇んで第二次試験の面接試験に臨みました。

「貴方は、ご両親が健在ですか。」との問いに「いいえ、父が昨年の九月に亡くなりました」と答えると、試験官は「そうですか、片親ですか?うちは親のいない家庭の子を採用しないことにしているのです。よその会社をお受けになった方がよろしいですよsign01」とのこと。見事に断られてしまったのです。

兄は腹が立ってどうしようもなかったのです。家に帰るや母に向かって、「親父の奴、せめて俺が就職するまで生きていれば、こんなに苦労することがなかったのに。俺が東大を受ける時も反対して。潮陵高校から6人東大に入った時、俺の成績は彼等の中で4番目だったんだよ。親父はいつも俺の進路を妨害してきたんだ。母さんなんか、父さんを説得もしなかったでしょう。ね、母さん。母さんも悪いよsign03」と珍しく理性を失って母に詰め寄る兄でした。母は一言も発せずただ黙ってうつむいておりました。

私は、今更母を責めてもどうしようもないのに思いましたが、兄の悔しさも分かるような気がして黙って聞いていました。その後、兄は面白くないからと言って友達の家へ泊りがけで遊びに行きました。兄が去った後、母は「何よ、言いたい放題のことをさんざん言ってsign01いつもヨットだとか演劇だとかパチンコして遊んでいたから罰が当たったんだ。少し遊んでくると気がすむことだろうよ」とのこと。

結果的に兄は札幌の自動車会社に勤めるようになったのですが、初任給が安く三流どころの会社であったのです。しかし、その安い月給を袋ごと母に渡す思いやりのある兄だったのです。その兄が後に波乱万丈の人生を歩むことになるとは、本人ですら気付いていなかったのです。

[注釈] 一流大学」「一流会社・企業」の進路が如何にも多くの幸せをもたらすという発想は一般的ですが、果たしてそうでしょうか。必ずしもそうではなさそうです。我が家では中学しか出ていない姉が一番幸せな生活を営んでおりますし、あまり成績が芳しくなかった兄妹の方が多くの幸せをつかんでいるようなのです。私の数多くの教え子の中でも、成績が優秀でありながら変な男と一緒になり後悔したり離婚してしまったという子が実に多くいるのです。

人間の幸せは、高望みするのではなく、自分の能力相応にひたむきに生きる力であり、異性の人柄・資質・能力・考え方・堅実さ・夢などなどを知り、共に人生を歩むに相応しい人を選ぶ能力を持ち合わせているかどうかにかかっているような気がするのです。その力は学校教育だけで培えるものではなさそうです。いろいろな社会勉強から生まれてくるように思えるのです。こう考えると、学力テストの成績のみにこだわりがちな教育は如何なものでしょうか。今一度立ち止まって考えてみる必要がありそうです。

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2009年3月 1日 (日)

私のアルバム

今、数十冊ある私のアルバム。一番古いものを見ているとアルバムは時代を反映

していることに気付くのです。

・昭和20年の終戦から24年まで1枚もなし

・昭和25年 修学旅行(昭和新山)、卒業生と全校職員(祝津小)の2枚のみ

・昭和26年 中学校入学時の学級集合写真と学校祭で劇に出演したもの2枚

・昭和28年 修学旅行のスナップ3枚と弘前城を背景にした学級集合写真。

        担任のスキーに乗ったポーズのもの。学級集合写真、

        卒業生全員の集合写真、全校職員写真  計8枚

戦時中から終戦直後はどの家庭も生活にゆとりがなく、写真どころの騒ぎでありません。食うや食わずの生活を送っていたのです。それが昭和25年あたりからヤミ米が入手できるようになってきました。高校に入った頃には、カメラのある家庭も出てきたため、数枚のスナップ写真もあるのです。

私が教員としてスタートを切ったのは昭和34年です。その頃になると教員仲間にもカメラを持っている人がいましたので、社会科見学や修学旅行ではそのカメラをお借りしてスナップを撮り、現像、焼付、定着などを仲間に教えてもらって行い、子ども達に原価で頒布したものです。

しかし、昭和37年度に最初の卒業生を送り出した時は、写真屋にアルバムの表紙だけを印刷してもらい白紙のページに、児童それぞれが手元にある写真を自分で張るというもの。その後、物の豊かな時代を迎え卒業記念アルバムも豪華になってきました。平成11年(1999)発行のアルバム・文集は次のような内容です。

・校舎全景と校歌 ・校長の顔 ・校旗 ・校訓 ・記念碑 ・職員 ・全卒業生 ・各クラス児童の顔写真と名 ・担任 ・思い出の教育活動(各クラス48,49枚のスナップ) ・運動会 ・学芸会 ・マラソン大会 ・1986年から1998年までの国内外のニュース ・文集 ・児童名・担任名、住所、電話番号などです。写真は勿論カラーで値段は確か8,000円。

私はこの卒業記念アルバム・文集に次のようなはなむけの言葉を寄せていました。

皆さん、卒業おめでとうございます。 皆さんは、多くの人達の温かいご支援と自分自身の努力によって、随分たくましく育ちました。大変嬉しく思います。 進学するに当たり、心がけて欲しいことをはなむけの言葉として贈ります。

1 人生の雨風を恐れずに前進を

 人生、いつも穏やかな小春日和というようにはいきません。強い逆風や雨の日もあります。価値あることを新しく始めようとすれば、さまざまな反対や抵抗が起こることも予想されます。しかし、それを恐れて何もしなかったら向上や進歩はありません。取り組みの過程で不安や多くの苦労がともない、「どんなに一生懸命やったって、だめだよ。私は他の人ほど才能に恵まれていないから」とあきらめがちになります。しかし、熱意は不可能を可能にします。どうぞ果敢に挑戦し積極的な人生を送って下さい。

2 心にブレーキを

 あわただしい毎日の生活の中で、ふと立ち止まって、果たしてこれでよいのかと自分を反省する、いわゆる心のブレーキが必要です。現代人はさまざまな欲望という名の乗り物に乗って、ブレーキもかけずに手放しで暴走し、その結果みじめな人生を送らなければならなくなった人が実に多くおります。自制心というブレーキを子どものうちから培う必要があります。

3 達成可能な目標を

 目標は私達の人生や生活を形づくるにあたって大切な役割を持ち、心構えを与えてくれます。ある人は「目標を持たないことは、目標に到達しないことよりも、もっと懸念すべきことである」と言っています。目標は大目標より小目標がよく、具体的であればあるほど「やる気」がおきます。達成可能な目標を設定し、自分の物さしで、常に自分を測量することが大切です。

懐かしいアルバム。思い出の数々が凝縮されているアルバムは歴史であり、貴重

な宝物なのです。年老いても日々の確かな足跡を残して行こうと思うのです。

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