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2009年4月

2009年4月30日 (木)

赴任地への事前視察

私は赴任地の事前視察をすることにしました。しかし、村なので手元の地図には載

っていません。スカウトに来られた先輩の説明を頼りに汽車に乗り、途中乗り換え

て数分進むと、見渡す限りの平野です。時々小さな集落が通り過ぎます。

何か寒々とした風景を見て心細くなってきましたが、迷うことなく目的地の駅に着

きました。

村とはいえ、さすが駅前です。酒屋、ラーメン屋、居酒屋、床屋、洋品店など数軒の

店の看板が見えますが、誰1人として歩いていません。それで近くの酒屋に入り

「○○小学校はどの様にして行けばいのでしょうか?」と聞いたところ

「その踏み切りを左に曲がって真っ直ぐ900間(ケン)行き、それから右に600間行

くと右手に学校が見えてきますよ!そんなに遠くでないですよ!ああ道は300間間

隔になっているから分り易いですよ!」とのこと。

ところが大変です。300間と聞いても長さが分りません。1間は6尺で1尺は

30.3センチ。だから1間は約1.8メートル。そうすると300間は約540メートルだ

から900間で約1.5キロか?1500間だったら大体2.5キロ程度だから歩いて

30分程度でないかな?・・・・・。

ぶつぶつ声を出しながら暗算(頭の中で計算すること)し、数分歩いては時計を見

るのです。右方向の景色には学校らしき建物が見えません。とに角、900間と思

われる交差点を右に曲がって、また歩き出しました。今度は600間です。

二つ目の交差点に来たのですが、やはり学校が見えません。角に小さな看板を掲

げた店がありましたので尋ねました。

すると「その角を左に数十歩行くと右手に見えますよ。」とのこと。

やっと着いたかと思いながら進むと平屋のやや大きめな建物があるのです。

一周200メートル程の小さなグランドがありますので目的の学校に違いありませ

ん。右手に古い木造住宅が3軒とその奥にレンガ建ての住宅が1間あります。

あれが校長住宅かと思いながら、道路脇で校舎の煙突を数えました。8本です。

そうすると職員室があそこであとは普通教室か?と勝手に想像しながら、帰りの列

車の時刻を気にしながら、今来た道を戻りました。

スカウトが見えられた時には期待で胸が膨らんでいましたが、視察後は小さく萎

(シボ)んでしまいました。しかし、文句は言えません。教員になれるのです。

給料をもらって母達を助けることが出来るのです。どんな不便な地であっても子ど

も達がいるのだから喜んで赴任しなければいけないと自分に言い聞かせました。

まっすぐ続く道。雪の融けた田んぼには、刈られた稲の根株が整然と並んでいま

す。日が暮れかかってきた曇り空の下を、駅へ急ぐ私でした。

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2009年4月29日 (水)

ミラクル 人クル 春がクル

昭和34年3月。ある土曜日の午後7時過ぎ。

「ごめんください!ごめんください!」と見知らぬ人の訪問です。「こちらに、学芸大

学に通っている人がおりますか?」とのこと。そうだと答えると「就職のことでお願い

に参りました!」と言うものですから、急いで居間に入ってもらいました。実は私を

スカウトしにこられたのです。

ミラクル(奇跡的なこと)です。話の要旨はこのようになります。

□私は貴方と同じ学大の先輩であり、校長も同窓である。

□本校は1,2年と3,4が複式であったが、新年度より1,2年の複式のみに止め

 て、新3年生から単式学級になる予定で教育委員会も許可。

□地域は米作中心であるため先生方には部落当番で米を格安でくれる。

□羊を飼っている農家があるのでジンギスカンなべで羊肉を幾らでも食べられる。

□お正月は豚をつぶすので市価の半値ぐらいで買うことが出来る。

□下宿屋は殆どないが、当分の間は私と同室で住もう。

□校長が学大へ出向き優秀な教員を見つけたので、早急にスカウトに行くこととの

 指示を受けて来た。

この先輩に当たる先生は札幌に実家があり、土曜日の午後に学校を発ち、私の家

を捜し求めてやっと来れたとのこと。私は、羊肉をたらふく食べれるという一言に

魅力を感じ、

「喜んで行かせてもらいます。校長さんにも宜しく伝え下さい!」と即答したのです。

来客をバス停まで見送り戻ってくると母をはじめみんなが大喜びし、我が家は一度

春がきたような状態。私は久しぶりに胸の高鳴りを抑えることが出来ませんで

した。

     《70歳の誕生日から半年が経ちました。これも皆さんの応援のクリックのお陰です。

          ありがとうございます。また半年を目標に頑張ろうと思います。》

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2009年4月28日 (火)

就職内定? 不安な日々

就職状況を把握のためまたもや教官室を訪れました。宇喜多義昌教授(元東京

理科大学学部長)が良い話があるとのこと。

ある市で中学数学の教師を1人採用したいとの申し出があったので、君を推薦

ておいたよsign01よかったね!」とおっしゃってくれたのです。

初めて聞く市の名前です。地図を出して小樽市からの経路を確認しました。母も大

変喜んでくれたので先ず一安心です。

さて、それから数週間経ちました。母が

「ヒロシ(仮名)!いつになったら内示が来るの?そろそろ着てもいい時期なのに変

ね?」と言い、早く大学へ行って確認してくることを促します。

教授の話によるとまだ内示はきていないが恐らく大丈夫だろうとのこと。特別確認し

てくれる様子もないのです。しかたがありません。また待つことにしました。

しかし、3月に入っても音沙汰ありません。心配な日々が続きました。私より母の方

がより一層心配していますので、気が気でありません。

家庭に電話のある時代でしたら直接、該当市の教育委員会へ確認の電話をかけ

るのですが、それもできません。しかし、もし決定したなら直ぐに赴任しなければい

けませんので、布団袋を買ったり、友達から安い値段で電気スタンドを買い求めた

り、母が赴任先の校長へ挨拶に行くために着るコートなども、私のアルバイトで貯

めたお金で買い揃えたのです。

準備万端ですが依然として内示がきません。短期間ではありますがあのイライラし

た期間は思い出すのも嫌になります。ですから、現在、企業から一方的に内示取

しを受けたり、就職浪人をしている人の気持ちが少しは分るのです。

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2009年4月27日 (月)

月2回の給料日 「親方日の丸」

〔銀山⇔軽川〕の定期券を持った一人の大学生が、小樽駅から乗車しました。でも不思議です。銀山、軽川間には小樽商科大学しかないのに、どうしてこの定期券を持っており、一体何所へ行くつもりなのでしょうか。

静かに後をつけて行くと、小樽築港(チッコウ)駅で降り、国道5号線沿いから住宅街へ向かっております。ちょっと坂道を上がり、ある民家へ入っていきます。この学生はここの住人なのでしようか。しかし変です。その後、次々に国鉄の制服を着た大人もやって来ます。

一体、この民家は何をしている処なのでしょうか。チョイト覗いてみますね。

2階の1室で大人6人がそれぞれ机に向かい、大きな図面とニラメッコしています。時々、計算尺を出したり頭を傾げたり真剣に考えている様子です。

もっと近寄って見てみると、大工さんが持つような大きな設計図の青写真を出し、平面図や立面図を見ながら数式を書いています。

図面左上には「張碓隋道」(ハリウスズイドウ)とか、「南小樽鉄橋」などと書かれています。

しばらくして、先程の大学生が上司と見られる職員の一人に、「隋道(トンネル)のように内部が曲がっている場合の体積は、どのようにして求めるのですか?」と聞き、

「この本に載っているからよく見なさい!」と一冊の本を手渡す上司。『土木力学算公式集』?なのです。学生さんは「へーえー!こんな公式集もあるんだ!なるほどねー!」と言いながら見ています。

数時間後、1人の職員が「さあー、もうお昼だよ!飯だ、飯だ」と促します。皆は一斉に仕事を止め鞄から弁当を出します。

ところが、年増の人がロッカーから一升瓶を出し、おもむろに同僚の湯のみ茶碗に酒を注いでいます。「学生さんも、一杯どうーおー?」と勧められた学生さんは、「すいません、少しで宜しいですから!」と言い昼食をとりながらコップ酒を飲んでいます。

それから数十分した時です。「オイ、皆、ヤバイヤバイ、助役が来たぞ!隠せ隠せ!学生さん、顔が赤くなっているから直ぐ見つかるぞ!1階のトイレに隠れていろ!」とあわてふためいて指示します。

1時10分前頃に詩吟の練習に来た助役が帰りました。学生さんは仲間が呼ぶのでトイレからやっと開放されて2階の部屋に戻ったのですが、顔はまだ真っ赤です。

でも、その後、誰も来る様子がなく、皆はまた元の仕事に・・・・・・・・。

4時50分頃、主任と呼ばれている人が、「オイ、今日は給料日だから忘れないで貰って行けよ!ハンコ(印鑑)忘れるなよ!」と言うと、学生さんが「主任、まだ月の半ばですのに給料が出るのですか?」と聞いています。

「うん、国鉄は月に2回貰えるのだよ。まだ説明していなかったかい?」とのこと。

さて皆さん、ここは何所だと思いますか?実は日本国有鉄道(略称:国鉄)小樽保線区の臨時執務室なのです。聞くところによると、10年に1度、国鉄の固定資産算出の基礎資料として、隧道、波除け、土砂止め、鉄橋、雪崩防止堤などのコンクリート部分と鉄部分の体積を算出しなければならないそうなのです。

2ヶ月間の仕事ですが、南小樽の鉄橋の鉄部分の算出だけで約3日もかかります。短期間に集中して計算する仕事ですので、保線区の事務所内では集中できないということから
臨時に、近くの民家の一室を借りて仕事をすることになったのだそうです。

また、特殊な仕事ですので数学専門で算盤(サロバン)が達者な大学生を2名採用したのだそうです。

もうお分かりのことと思いますが、この大学生とは私のことで学芸大学2年生の12月、1月に国鉄の臨時職員として採用になった昭和33年末から34年初めにかけてのことなのです。

また、定期券の利用範囲が銀山・然別⇔軽川とあるのは、小樽保線区の仕事範囲がこの区間であり、土砂崩れ、雪崩、河川氾濫による鉄路の復旧工事、波による防波堤の損傷の改修などの仕事も保線区の業務内容なのです。勿論、ラッセル車の出動態勢も。

私の仕事は図面上の数字から体積を求めるのですが、図面に数値が抜けているところがあれば、実際に現地へおもむきスケール(金の巻尺など)で実測し、図面に数値を入れてから計算式を作ります。ですから定期券が必要になるのです。

なお、国鉄の月給は半月分ずつ2回支給ですので不思議に思いました。

私はこの臨時職員として勤めたことにより、図面の見方がより分り、かつ、日本で初めて導入されたドンツ製の計算機の使い方も覚えたのです。

実に多くのことを学んだ2ヶ月間でした。

[注釈] 銀山とは北海道後志管内にあるニセコ(スキーで有名)駅から小樽へ向かって五つ目の駅で、軽川(ガルガワ)とは今の手稲駅(札幌駅から小樽寄りに六つ目の駅)のことです。

昔、線路工夫がツルハシを持って、レールの隙間に砂利を入れたり、土砂崩れ現場で汗水流しながら働いていた様子を見たことがありますが、この人達も保線区に勤めていた人だったのです。

なお、昼の休憩時間の飲酒は勿論禁止されていたのですが、それを破る職員がいても内部告発もなく、知っていても知らん振りする上司がいるなど、「親方日の丸」(うしろに国がついている職業)で実に大らかな時代?だったのでしょう。

しかし、倫理観や職業意識に欠け、組織全体の危機感が足りないと指摘され、やがて民営化へ移行せざるを得ない状況に追い込まれていったのも事実です。

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2009年4月26日 (日)

就職難 母の応援

第一次ベビーブーム時代(昭和22年~24年に生まれた810万人:団塊の世代)

の子ども達が小学校に入学した時代は、昭和29年から31年の期間です。

したがって各市町村は団塊世代の子ども達に対応するため教室を増改築したり、

新卒教員を急遽採用するなどその対応に汗したわけです。

私が教員になるために就職活動に取り組んだ時代は、団塊時代への対応が終わ

った時代であり、新規採用をそんなに必要としていなかったのです。定年退職や結

婚退職する教員を補充する程度の採用だったのです。ですから大変な就職難に突

入していったわけです。

世の中、採用試験の点数の高い順から採用されるというシステムではなかったの

です。コネが一番です。北海道教育委員会や市町村の教育長、中には国会議員

などに知人がいればその方に依頼するなどの方法を取り入れるのが得策です。

そのことを知っている母は、動き出しました。

兄の場合は小樽市の教育長にお願いして実現したのですが、また、私の場合

もお願いするということはあまりにも図々しい行為です。まして私は4男坊であり母

の身近に置いておく必要がなかったのです。

早速、母は古い年賀状から亡き父の親友の住所を調べ、息子のための就職依頼

状を書き始めました。友人の1人は一部上場企業の役員である市の教育委員長を

しているのです。他の1人は中心校で校長を務めその市の校長会長をしている

人物です。

数週間して返事が届きました。どれも厳しい就職戦線で新採用教員予定がない

のこと。母は落胆し、「早く大学へ行って頼んできなさい!」と急かせます。仕方なく

担任教官に就職依頼をしたのですが、

今のところ、どこからも推薦依頼がなく年々厳しくなってきている。もし、依頼がき

たら君を一番先に推薦するから気を落とさないで!」と激励してくれたのです。

その後私は就職状況の把握と就職依頼のため数週間おきに教官室を訪れました。

なお、小樽からの汽車通仲間で数学所属の親友は、叔父さんが室蘭市にある北

海道教育委員会胆振(イブリ)教育局の局長であったため、学芸大学入学当初か

ら「俺の就職先は苫小牧市なんだ。叔父さんが約束してくれているから心配ない

けれど、お前は大変でなあー!」とのこと。

もし父が生きていれば、旭川師範の同期や知人に依頼すると就職も楽だったと思

うのですが、それも出来ず、要は全て己の力で開拓していかなければならない

という宿命だったのです。

2,3年前、大分県の教員採用に関わって金品の授受が問題になりましたが、

私達の時代は、お願いやお礼に行く時は菓子箱持参(商品券のない時代でしたか

ら)が礼儀でした。

〔注釈〕 北海道教育委員会では、平成7年に地方公共団体(自治体)の公務員が

中央官庁の公務員を接待する、いわゆる「官官接待」(ゴルフ、マージャン、釣り、

飲食などの接待と金品贈与)の禁止を打ち出しました。これを契機にこれまで教頭

・校長に推薦されたり採用・昇任したお礼として、商品券やお金を謝礼として渡す

習慣が根強くありました。

贈与する対象は、北海道教育委員会○○教育局の局長、次長、企画総務課長、

生涯学習課長が中心であり、自分がお世話になっている教育委員会教育長です。

また、同窓会の会長、副会長、事務局長であり、これらの人は論文・面接試験に対

する指導を年間数回にわたってしてくれていたからです。

「官官接待」の禁止の内容は各学校長段階まで厳しい指導がありましたので、悪し

き習慣は無くなってきました。しかし最近、また復活の兆しが見え始めているとの指

摘もあります。

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2009年4月25日 (土)

教員採用試験 実技・面接

昭和33年のことです。教員採用の学科試験も無事終了し、後は面接と音楽の実

技試験のみとなりました。面接は自分が教員になりたい地方(北海道には石狩支

庁、上川支庁など14支庁がある)を指定し、その支庁所在地である市・町へ出向く

ことになるのです。

私の指定した地域の試験会場は学芸大学です。

初めに音楽の実技試験(北海道ではこの年から実技試験が始まる)。受験番号

を呼ばれ入室すると女性試験管がオルガン前の椅子に座るよう促します。

小学校の音楽教科書をランダムに開いて、「さあ、弾いて下さい」と言うのです。

簡易伴奏をつけてつまずきながら弾き始めると、

「もういいです!教育実習で音楽を教えましたか?」との質問。「はい」と応えると

「では、その曲を弾いて下さい」と言い、メトロノームで拍子をとるのです。

私は4年生の教材であった「もみじ」を弾き始めましたがリズムが合いません。

「単音で宜しいですからリズムに合わせて弾いて下さい!」と催促され緊張しながら

弾いたのです。

しかし、オルガンの実技試験は参考程度に見るとのことで、採用の条件には入っ

ていなかったので助かりました。

次に面接試験です。試験官が4人。最初は「貴方の尊敬する人は誰ですか?」

とのこと。「父です」と答えると「その理由は?」と問うので、教員だった父は教育に

情熱を傾け多くの教え子から信頼されていたし、水泳やスキーの指導員、ピアノの

演奏など努力によって技能を磨いたことです」と答えました。

すると次の面接官が「貴方は階級闘争について、どのように考えていますか?」

とのこと。意味が解らず困っていると

「世の中にはいろいろな階級があることは知っていますね。そのことはお分かりでし

ょう?」と再質問です。質問は何を意図しているのかわからず躊躇していると、

諦(アキラ)めて、「教員になったら何所へでも行けますか?」と確認して面接が

終わったのです。きっと、思想調査や学生運動への関心度などを調べたくて、階

級闘争の質問をしてきたのではないかと思われるのです。

赴任してから分ったことですが、教員採用試験の結果は、学科がA、面接がCラン

クでした。しかし、結果的にA登録でしたので採用してくれる市町村があれば、昭和

34年度中に就職できる条件が調ったわけですが、即、採用保障ではないのです。

もし、年度内に採用されなければ次年度に再度試験を受けなければならないシス

テム。

現在、北海道ではA登録になれば4月1日発令であり、B登録は年度内採用

です。しかし、大学受験よりも教員採用試験の方が高倍率で大変な時代です。

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2009年4月24日 (金)

ニキビと かけそば

私は高校時代から顔にニキビが出るようになりました。毎日石鹸で洗顔していなか

った罰なのでしようか?それとも脂肪分の多い食物を好物にしていたせいなので

しようか?

母の話では父も結婚当時は出たそうです。二番目の兄も大きなニキビをよく手で

つぶし、白い脂肪の塊のようなものを取り出していました。

実は、私も無意識の内に同じような行為をしていたのです。授業中にもかかわらず

ニキビをつぶし、摘出した小さな脂肪の塊をちり紙で拭き取るのです。時々、つぶ

したニキビの所から血が滲(ニジ)んでくることがあるのです。そんなことに気づか

ずにいると、横に座っている友達が「血が出ているよ!」と教えてくれます。

そんなことが何度か続くと、友達は言葉ではなく、人差し指を自分の顔に向け指を

数回小刻みに震わせて合図を送ってくれるのです。

ニキビは思春期のシンボルとはいえ、格好の良いものではありません。母は

そんなニキビだらけの汚い顔をしていたら、先生になった時、生徒さんに嫌われ

よ!」と忠告してくれるのです。私が「どうしたら治るの?」と問うと

油物をあまり食べないことだねsign01そうだ、お昼はかけ蕎麦だけにしてみたらどう?

」とのこと。私は仕方なくそうすることにしたのです。

この話は大学2年生の夏休み中のことです。母は私のためにお昼は毎日かけ蕎麦

を作ってくれました。後期の授業が始まっても学生食堂でかけ蕎麦1杯です。

2ヶ月ほど経つとニキビの数が減ってきました。嬉しい限りです。

人間は面白いもので、効果が確認されるとその後も継続して取り組むことが出来

るのですね。

また、ニキビをつぶすと痕(アト)が残るとの兄の忠告を素直に受け入れ、変な癖を

直すよう努力したお陰で、顔のブツブツの痕は殆ど気にならない程度におさまっ

たのです。俳優のケーシー高峰のようなニキビ面にならなくて良かったと思ってい

ます。

今、改めて鏡で顔を見ているのですが、母や兄の忠告のお陰でニキビの痕がほ

とんど分らず、ただ皺(シワ)とシミの増えが少し気になる顔になっているのです。

しかし、こんな顔でも教え子や元職場の同僚などに会った時に、

「あら先生、お若いですね!昔とチットモ(少しも)変わりませんね!」とお世辞を言

われて喜んでいる、単純な高齢者になっておりますが、顔が広い(付き合いの範

囲が広く、知り合いがたくさんいる)ことでは定評ある部類に属しているのです。

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2009年4月23日 (木)

学生運動を エスケープした私

昭和32、33年の学芸大学(略:学大)札幌分校では、結構、学生自治会活動が活

発でした。登下校時には毎日のようにビラが配布され、昼休みには中庭で国政の

動きや大学の民主化と学生自治のあり方などについて訴える自治会役員の姿をよ

く見かけました。

時には、大講堂で全学学生集会が開催され、大学当局の姿勢を批判し今後の学

生運動の展開について理解を求めたりしていたのです。

また、市電の始発が学大前であることをよいことに、学生集会や抗議デモに多く

の学生を参加させようと、自治会の連中が停留所前でピケを張り、市電に乗せまい

として説得活動や阻止行動をとるのです。

私は汽車通です。1列車遅れると帰宅時間が7時以降になり、デモに参加すると9

時過ぎになります。ですから原則的にエスケープすることにしていました。

そのためには、市電を学大前から乗るのをさけ、付属小学校前の停留場へ移動

し、若干遠回りになるのですが医科大学経由の西線に乗ります。また、時には自

治会の連中に見つからないようにカモフラジューして、学大前の次の停留所まで歩

き、そこから乗ることもあったのです。

当時の私にとっては、大学自治とか再軍備・ファシズム化がどうだとかは切実な問

題ではなかったのです。如何に食い、如何に学費を稼ぐかが重要な問題なの

です。ですから、学生運動にのめり込んでいる輩(ヤカラ)は、経済的に心配のな

い連中ぐらいに思い、時には羨ましく思ったりもしました。

しかし、後で分ったことですが、当時の学生運動のリーダーであったW君は、北海

道教職員組合(略:北教組)の委員長になりましたし、「世界一受けたい授業」(日

本テレビ系)の人気講師としてテレビでもお馴染みの人物であり、『あらすじで読

む日本の名著』『あらすじで読む世界の名著』編など多くの著書があるO君は、

77歳の現在でも埼玉県入間市にある狭山ケ丘高等学校の校長として頑張っ

ております。また、Aさんも歴史のある研究所の所長やある教育学会の会長を務

めるなど、教育界においてもやはりリーダー的存在として活躍していたのです。

いずれにしても、リーダーになるような人物は変わり身の早にかけても天下一品

であり、人一倍頑張り屋であることが伺えます。

それに比して、私のような凡人は、1人ひとりの子どもを暖かく見守り、内に秘める

何かを見出し、それをバネに健やかに育てていくという地味な営みに精魂を傾け

る生き方を選択したわけです。しかし、地味ではありますが教え子が社会人として

活躍している姿を見て「我が道に悔いはなし」と思っているのです。

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2009年4月22日 (水)

人工衛星と教育内容

最近、朝鮮民主主義人民共和国(略:北朝鮮)の人工衛星?問題が大きくとり上げ 

られておりましたが、私が人工衛星という言葉を最初に聞いたのは1957年(昭和

32)年10月5日午後7時です。

学芸大学1年生の時、多くの単位を取るため4校時まで授業を受けていましたので

6時半近くの汽車に飛び乗ったのです。車内は通勤客で混雑しており、夕刊や週

刊誌を読む人、携帯ラジオを聞いている人など様々です。

ラジオの時報が7時を告げました。NHKニュースの時間です。

数秒して「ええー」と一瞬のざわめき。乗客の1人が「もっとラジオの音を大きくして

くれませんか?」とお願いしました。どうやらソ連がスプートニック1号を世界初の

人工衛星とすることに成功したとのこと。

ショックです。宇宙科学技術はアメリカの方が進んでいると一般に思われていた

時代です。乗客の1人が「また、ユダヤ人の力で打ち上げたのだろうさ!」とはき捨

てるように言いました。車内は互いの驚きの声を乗せて一路小樽へ進んでいき、

車窓からは日和山灯台(高島岬にある)の光が断続的に見えます。

さて、一般人の私達でさえ驚いたのですから、アメリカ人のシュックは計り知れな

いものがあったことでしよう。その後、ケネディ大統領

わが国はこの10年間(60年代)が終わる前に、人を月に到着させ、安全に地球

に帰還させるというゴールに向けて全力を傾けなければならないと信じる。」と宣言。

そして、アメリカでは科学教育改造の論議が沸騰し、数学・自然科学教育のカリ

ュラム(教科内容)を改造する運動が急速に全米に広がっていったのです。

やがて、科学教育に革命をもたらすとも自負されたPSSCの物理教科書をはじめ

学校数学研究グループ(SMSG)の作成した教科書が次々と作成されました。

我が国でも、「教育内容の現代化運動」という名のもとに、昭和46年現代化カリキ

ュラムといわれる濃密な学習指導要領の改定によって小中学校から可なり高度な

教育が行われるようになったのです。

例えば、小学校で「集合的な見方・考え方」「関数的な見方・考え方」「統計的な見

方・考え方」が導入され、内容過多と新しい考え方による授業改善が、後に

新幹線授業」とか「落ちこぼれ」などの言葉で批判を受けたわけです。

また、民間教育団体のカリキュラム研究が盛んになり、遠山啓の提唱した

水道方式」による「数と計算」体系や理科の仮説実験授業の授業書など、

いわゆる検定教科書にはみられない創造的なテキストが作成されるようになった

のです。

また、ブルーナー(アメリカの教育・心理学者)の『教育の過程』を読まずして教育

の現代化を語ることはできないとまで言われるようになったのです。

しかし、それから約40年。ゆとりカリキュラム、個性を生かす教育をめざした新し

い学力観の重視、「生きる力」の育成、「基礎・基本の習得」などと変遷をとげ、

本日(平成21年4月21日)平成に入って3回目の全国学力・学習状況調査

(学力テスト:小学6年、中学3年を対象)が行われました。

いずれにしても、スプートニックショック以来、学習指導要領が時代の要請を受けて

6回も改定されました。しかし、私が教員になってからの約50年間を振返ってみる

と、学校教育はスパイラル(螺旋状:ラセンジョウ)に発展するのではなく、振り子

現象(極端から極端へ飛んだり、同じことの繰り返し)を起こしているような気がす

るのです。

公教育の推進上、学習指導要領の基準性や拘束力はやむを得ませんが、現場に

おける柔軟性や弾力性をも、一部尊重するような余地を残して欲しいものと思うで

す。なぜなら、現在小・中・高の一貫教育を先駆的に実践している学校が脚光

浴びているのもその一つの表れではないでしょうか。

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2009年4月21日 (火)

学生運動に参加 教生の分際で!

1958年(昭和33)10月。突如、小樽市で教育実習をしている仲間の代表から学

校へ電話です。用件は警職法反対闘争についてのオルグが来るので、全員参加

して欲しいとの要請でした。意味がよく分らなかったのですが、何かしら大変な事態

になっているような気がして、もう1人の教生と一緒に参加することにしたのです。

指導教官に外出許可をもらい寿司屋通りにある喫茶店の二階へ行ったのです。

小樽市内で教育実習をしている仲間が全員集まった頃、学芸大学の自治会役員

の1人である社会科研究室所属の4年生がきてオルグ(ある特定の考えや勢力の

拡大を図る目的で啓発活動に努める人やこと)を始めました。

オルグは概ね次のような内容でした。

10月4日に岸信介内閣が「警察官職務執行法改正案」(略:警職法)を突然国会

に上程した。この法案は警察官の警告、制止や立入りの権限を強化し、また「凶

器の所持」を名目とする令状なしの身体検査や、保護を名目とする留置を可能に

するという内容であり、戦争中の特別高等警察(略:特高)や戦前の「オイコラ警察

」を想起させるものであり、断固として反対闘争を組まなければならない。従って、

後ほど小樽市の労働者が中心となって集会やデモが行われるので、その時には

参加するようにとのこと。

私は特高と聞いて直ぐ「蟹工船」作家の小林多喜二の拘置場における拷問・忙

を思い出したのです。長男の話では、小樽高等商業学校(略:小樽高商で昭和

19年に小樽経済専門学校と改称)先輩に当たるの多喜二は共産党員の疑いで

拷問され、身体中に約64箇所も釘で刺されたあとがあり、あまりにも無残な亡骸

(ナキガラ)であったため、死体を遺族へ引き渡されなかったとのこと。

私は、学生運動に対してやや非協力的な人間でしたが、協力すべきと判断した

のです。そのことを教員をしている兄に話すと、

教生期間中は子ども達のために時間を割くべきで、学生運動に参加するなど許

されるわけがない」と叱られました。

翌日、出勤すると、校内マラソン大会の折に嫌みを言った先生がきて、

教生の分際で学生運動に参加するとはとんでもないことだ!!俺らの教生時代

にはそんな行動をとる者は1人もいなかったのに!」と怒りをぶつけるのです。

私は、兄も職場の教師も同じようなことを言うので、警職法にかかわる反対闘争に

は参加しなかったわけです。しかし、闘争への参加・不参加を抜きにして、国民が

油断をすると恐ろしい法律が突如として上程されることがあるので、絶えず関心を

持たなければなせないと思ったのです。

〔注釈〕 この警職法改正への国民の対応はすばやく、3日後の10月11日に、

社会党、総評、全日農、護憲連合など7団体が共闘連絡会議を開催に端を発し、

警職法改悪反対国民会議へと拡大され、組織人員が1,000万人ともなったので

す。そして、大衆娯楽誌『週刊明星』が「デートも邪魔する警職法」の特集を組むほ

どに発展し、11月5日に労働者のスト・職場大会、400万人が参加した街頭での

抗議行動へとなっていったのです。

このような盛り上がりの中で、22日政府は改正を断念。戦後日本で議会外の運

動が院内多数党に勝利した初の体験となったわけです。

                      (Yahoo百科事典 警職法反対闘争を参照)

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2009年4月20日 (月)

教育実習時の研究授業

今日は、教育実習の成果を見ていただくための研究授業で、勿論、得意分野の

算数です。教材(教える内容)は少数点以下2桁の概念を学ばせる授業。

前日に走り幅跳びをし、グループごとに測定させています。今日はその結果を○m

○cmの表記で発表してもらい、その数値をメートル単位で表す方法です。

すでに少数第1位の表記法を1ℓ=10㎗の関係から学んでいますので、既習事

項から類推させました。子どもの多様な拡散的思考を大事にしながら、収斂させ

ていきました。

この授業研究には、小樽市から三好学教育長も見えられ、懇談に加わり指導助言

をしてくれました。その後、校長室で池田指導教官を交えての話し合いで教育長が

「貴方はピアノを弾くのでしょうね?」と聞かれたので、「いいえ、殆ど弾きません」と

応えたところ、

変ですね。貴方のお父さんは何でも弾けたし、学芸会ではいつも他の学年のピア

ノ伴奏までした人でしたよ!あなたも血筋をひいていますので、努力してみたら如

何ですか

と笑みを交えながら諭すのです。

この教育長は、私が誕生した時に養子として欲しいと名乗った人で、亡き父と

同じ職場に勤めたことがあり、彼が指導主事の研修会の折に父が三好学級の子

ども達を自分のクラスに集め、2クラス合同の授業をしたのだそうです。私が小学

校へ入学するときに学生服を一式買ってくれたのもこの教育長だったのです。

帰宅後、母にこのことを話すと「そう、三好先生に授業を見ていただいたの。良か

ったはね!お父さんは本当にピアノが上手だったのよ。ひろし(仮名)も頑張らなく

ちゃあー」と励ますのでした。

二番目の兄から聞いたところによると、北海道博覧会の会場が小樽であった時

に、開会式でブラスバンドを披露したいとの要請を受けて、父が旭川師範卒業後、

直ぐ使命を受けて小樽に赴任したとのこと。

小樽市に初めて吹奏楽を導入したのは父なのだから、お前も誇りを持て!」

と兄が言ったことを懐かしく思うのです。

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2009年4月19日 (日)

衝撃の本 私はガス室の「特殊任務」をしていた

オーバーな言い方かもしれないが、文字通り寝食を忘れて読み通してしまった本。

義兄が感動して私や妻に読むことを薦めるために持ってきてくれたのです。

副題は「知られざるアウシュヴィッツの悪夢」とあり、ギリシャに住むイタリア系ユ

ダヤ人のシュロモ・ヴェネツィアが「質問」について「語る」という形式で編集されて

います。

語り手のシュモロは、ドイツ軍による占領の後、アウシュヴィッツ第2収容所に収容

され、特殊任務部隊の一員として終戦まで生き延びた(10人も生き残っていない)

数少ない証人の1人なのです。

彼の仕事・役割は、ガス室行きの宣告を受けた同胞ユダヤ人たちを・誘導し、ガス

室に入れ、扉を閉じ、ガス室の上の蓋を持ち上げ、毒ガスが注入されるのを見、

死亡が確認されると扉を開け、遺体を取り出し、運び、墓穴で焼却することだった。

私はこれまでテレビや映画の画像を通して、ガス室に送られる老若男女の裸体を

見たことはあるが、ガスで死亡した遺体の状況や全裸にさせられる前の女性たち

の悲鳴やためらいなど、生々しい状況は単なる想像の域を脱することができなか

ったのです。

しかし、この本は細部にわたって書かれており身震いするほど衝撃的な内容です。

また、第三帝国(ナチス・ドイツ時代の国名)におけるユダヤ人迫害のシステム

と段階も解説されており、国家という巨大な機構がユダヤ民族の撲滅を目的に、

政治的、経済的、産業的に実施した前代未聞くの大惨事が理解できます。

1933年(昭和8)4月のユダヤ人店舗ボイコット・キャンペーンを火ぶたに、新公

職法(公職追放令)による迫害。1936年~1939年に大規模な強制収容所が

開設され、異なる色の三角形で収容者を区別したとのこと。

赤は政治犯、黒は反社会的分子、褐色はジプシー、紫はエホバの証人、ピンクは

同性愛者、緑は普通犯、ブルーは無国籍者、黄色い三角形を二つ交差させたの

ユダヤ人

1939年から1941年にかけての期間は、第二次世界大戦の勃発と重なり、ユダ

ヤ人が迫害され、ヨーロッパから根絶される様相を呈していくのです。

1941年からは、ドイツ国民の純血を守る目的で精神的疾患者の抹殺、障害者

の薬物殺害、占領したヨーロッパのユダヤ民族の組織的な処刑へと拡大していっ

たとのこと。

暗号でT4作戦と呼ばれた大規模な死刑作戦は、私が生まれた1938年(昭和

13)から1944年(昭和19)までの期間に実施されたものであり、1945年5月、

ドイツの降伏で戦争が終結する数か月前まで大量殺戮(サツリク)が行われてい

たのです。

この本を読んで、人間とは何なのか?イデオロギーとは何なのか?生きるとは?

極限状態におかれた人間の行為を見て極限を超えた感性は理性を麻痺させる

ものであると感じました。

とに角、身の毛もよだつ歴史的な事実に触れ、二度とあってはいけないことを訴え

たくてブログに書いた次第です。多くの方々に読まれることを期待しております。

       『私はガス室の「特殊任務」をしていた』

     2008年12月30日  初版発行

     著 者  シュロモ・ヴェネツィア      訳 者  鳥取 絹子

     発行所  河出書房新社          2,000円

私はガス室の「特殊任務」をしていた Book 私はガス室の「特殊任務」をしていた

著者:シュロモ ヴェネツィア
販売元:河出書房新社
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2009年4月18日 (土)

若いのに? ある叱責

教育実習の中頃のことです。校内マラソン大会が開催され、私が先導することを

仰せつかったのです。距離は3キロ足らずです。

スタートしてから十数分までは先頭を走っていたのですが、喉の渇きと魚の匂いで

胸が悪くなってきました。しかし、先導ですので歯を食いしばって走りましたが、折り

返し点をすんでいよいよゴールの坂道にさしかかりました。六年生の数名が私を

追い越て行きます。これは拙(マズ)いと思っても足がついて行きません。

校門をくぐり、グランド一周して6番目にゴール。見るも無残な私の姿。ゴールと

同時に芝生に横たわり、ムカツキをしきりと抑えています。

傍にきた教員の1人が「何だ!若いのに子どもに負けおって!だらしないぞ

ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…」と叱責するのです。

私は、「教生だから速いとは限らないでしよう!」と文句を言いたかったのですが、

それを口にする元気もないのです。前日、12時過ぎまで指導案を書き、午前中は

緊張した中で授業なのです。コンデェションが最悪だせったわけです。ですからこ

の叱責した教員の名前を今でも覚えております。

根は良い人ですが口が悪いのです。私もこの人に似ているところがあります。

反省、反省の連続です。

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2009年4月17日 (金)

オルガンとの格闘

小学校教諭の2級普通免許状を取得するためには、8教科のうち6教科の「教材研

究」を履修しなければなりません。大学時代の勉強で一番現場で役立つのは「音楽

教材研究」です。

指導教官は千葉日出城教授。「コーリュウブンゲン」という教則本を使って音符の

読み方を徹底的に学ばさせられましたし、「むすんで ひらいて」「どんぐりころころ」

「大きな栗の 木の下で」などの唱歌を身体表現(身振り手振りを使って)しながら

歌うのです。

髭(ヒゲ)のはえた大人が 「むーすーんで ひらいーて 手をうってむーすんでー、♪♪♪♪♪・・・・・・・♪・・・。「かえるの合唱」の輪唱している姿を想像してみて下さ

い。初めは恥ずかしさでテレていましたが、「野ばら」の合唱は真剣に歌ったことを

思い出します。

歌うことは楽しいのですが、「一曲でもいいからオルガンをマスターしておくこと

との課題が提示になり、実技テストも行うとのこと。さあ、大変です。

家には鍵盤楽器がありません。練習は第二校舎のオルガン教室で練習しなければ

ならないのです。一坪程度の広さにオルガンが一台置いてある小部屋が六つし

か?なく、いつ行っても誰かが使っているという具合です。中には「ソ」の音が出ない

オルガンもありイライラします。

先ず小部屋を確保するのに苦労するわけです。私は小樽市から汽車通学ですの

で時間に制約があります。しかし、一列車遅らせてでも練習しなければ単位が取

れません。ですから休講の時や授業開始の9:00前に10分程度でもオルガンの

小部屋が空いていれば練習しました。

私が一番先に弾けた曲は「きらきら星」。左手は簡易伴奏です。「ドミソ」「ドファラ」

「シレソ」の和音であったり、「ドソミソ」「ドラファラ」などの伴奏。これで二拍子や4

拍子の曲は弾くことができます。

ところが、ある時です。同じ数学仲間で汽車通仲間の一番の友達が「川は呼んで

」の三拍子の曲を、簡易伴奏ではあるが滑らかに弾くではありませんか。びっ

くりです。彼も時間を盗んで練習に励んでいたのです。私は早速、彼に手ほどにを

受けました。

右手は「ミード ミード ミードレー」で、それに合わせて左手で「ドミソ」「ドミソ」

「ドミソ」「シレソ」とゆっくりとリズムをとりながら弾かなければなりません。指に力が

入り一苦労です。左手に注意を集中させると右手がついていきません。何度も何度

も練習し、やっとマスターできた時の気持ちは今でも鮮明に思い出します。

お陰で三拍子の曲である「こいのぼり」「背くらべ」「おぼろ月夜」「うみ」「おどろう楽

しいポーレチケ」「赤とんぼ」「故郷」や八分の六拍子の「きよしこの夜」「知床旅情」

なども簡易伴奏で弾けるようになりました。また、リコーダーを買い求め家で練習し

たため数曲を弾けるようになっていたのです。

このことが教員として第一歩を踏み出したとき、大変役立ったのです。教職15年経

った頃には、技能は不十分でしたが3年生や4年生の音楽専科を担当するほど

の度胸がついたのです。

学生時代の練習が基礎になり、職場仲間の刺激や励ましにより練習を重ねてきた

成果が現れてきたことになるのです。たとえ小さな一歩であっても、着実な努力によ

って成果を修めることができるということを学んだのです。

今でも机の側にCASIOのキーボードと本箱にはシニア・ピアノ教本を置き、時々

思い出の曲である「川は呼んでいる」「サウンド・オブ・サイレンス」などを弾いて楽し

んでいる昨今です。

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2009年4月16日 (木)

母校で教育実習 

学芸大学二類小学課程は2年の後期に教育実習をしなければなりません。私は

小学5年生の3学期から通学していた、母校の小樽祝津小学校を希望しました。

祝津小学校で教育実習生を引き受けることは初めてとのこと。高島地域から学大

へ通っていた私より背の高い女学生も一緒です。

母校の祝津小学校には知っている先生は二人しかいません。その内の1人の先

生が指導教官になったのです。この先生は札幌師範時代の付属小中学校出身で

師範も札幌です。従って、教頭をしていた父の後任候補の1人として赴任してきた

先生であり、私が祝津小の公宅にいた時に隣に住んでいた先生なのです。この

先生とは、夏休み中にアサリ貝を獲りあった間柄でした。ですから、何でも聞くこ

とができたのです。

実習の最初は算数の授業を毎日することとなりました。指導案は細案に近いもの

を要求されました。しかし、兄が教員をしていたためいろいろと聞きながら何とかク

リアすることができました。

ところが実習に入って一週間目のことです。指導教官の池田博先生(故人)が痔を

患い1週間程度休むことになったのです。従って、4年生の全教科を私が教えな

ればならない羽目になったのです。指導案ぬきですが指導時数が他の教育実

習生よりも何倍も多いのです。

前日に教材研究をし、授業後の反省を書き指導教官から助言やコメントをいただく

ことになっているのですが、現段階では無理ということで後で一括してもらうことにな

りました。

いずれにしても、数多くの授業を通して指導の難しさ、教材研究の重要さが骨身に

沁みるほどわかりました。しかし、毎日家へ帰ってから夜の12時近くまで教材研究

をしたことを懐かしく思い出しています。

なお、出勤簿の押印、ガリバン(ロウのついた原紙をヤスリのような鉄板の上に

置いて、鉄筆で文字や図表を書くこと)のきり方、謄写版(トウシャバン:印刷用具)

の刷り方、子どもとの触れ合いの重要さ、叱り方と褒め方なども教えてもらいまし

た。実習期間に教わったことは教育現場で即、役立つことばかりで大変貴重な体

験でした。

教育とは奥の深い営みで、子どもと教師との信頼関係が大切です。また、より

い目を目指せば目指すほど、更なる問題・課題が生まれてきます。そして苦労

して一つ一つ壁を乗越えたとき、初めて達成感・成就感・満足感などの大きな

感得することができるということを、多くの先生方に学んで欲しいと願ってい

ます。

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2009年4月15日 (水)

パンパンと学割

汽車通学をしていて迷うことがありました。それは小樽駅に着いた時、今日はどの

道を通って帰ろうかなと思うことです。最短距離で帰る日は、遅い時刻の時、お腹

が減っている時、小雨が降っている時、友達と一緒の時です。道草を食う時は、

その逆で時には映画館に寄ることもあったのです。だって通学路に映画館が4軒。

しかも学割で安いのです。

天気が良く時間に余裕がある時は、第一大通りから港の方に下った色内2丁目辺

りの薄暗く人通りの少ない道を選ぶのです。目的はパンパン(売春婦)へのひや

かしです。彼女等は電柱と電柱の間に3~4人くらい立っており、大通りとの交差点

の範囲内に多い時で26人もいる時がありました。

はじめの頃は成熟した女性に近寄られ「お兄さん、寄っていかないsign01」と声を掛け

られ腕を取られると胸がドキドキして、まともに女性の顔を見ることが出来ません。

パンパンの呼び掛けもいろいろあり、

「学生さん、寄っていきな!安くしておくよ」 「お兄さん、封切り(まだお客をとってい

ない)だから寄っていきな」 「チョイト、遊んでいかないsign02」 「お客さん、あがってい

かない?」 「ネー、学割にしておくからさ、いいでしょう?」などなどです。

パン助も年齢差によって値段が違います。相場は200円から500円です。若いと高

くなり、年老いたパン助は150円でもいいと言うのです。

大体2週間に1回はパン助通りを歩きましたので情報には詳しいのです。しかし、

角帽をかぶって歩くものですから段々パン助も相手にしなくなり、面白さが半減。

人間慣れるということは恐ろしいことで、初心(ウブ)な頃は胸のトキメキと得体の

知れない欲情が湧(ワ)いてきましたが、数ヶ月経つと言動が大胆なり、やがて

パン助を物色し綺麗どころに近寄り顔定めです。

時には「おゝ、なかなか良い乳房だね。」と服の上から触ってみたり、「おやー、新

顔だね。初心なところが素敵だよsign01」などと言いながら、数10歩腕を組みながら歩

き「帰りに寄るから待っててね!」と期待を持たせてお別れするのです。

しかし自慢ではないが、一度も部屋に上がったことがないのです。性病の恐ろしさ

を母から教わっていましたし、高校3年の保健体育で「花柳病」(性病)についてレポ

ートに書いたことがありましたので、恐ろしくてその気にならなかったのです。

ですからパン助とキスをしたわけでもないのに、唾がかかったかもしれないと思

い、帰宅後ウガイをし手も石鹸をつけてわざわざ洗ったのです。

いずれにしても、理性が感情(性に対する欲望)をコントロールしていたとは、我な

がら見上げたものであると思うのです。

なお、1956年(昭和31)に売春防止法が制定され、売春を助長する行為は処罰

されるとともに、遊郭や待合(色茶屋)も禁止されたため、パン助が街頭で客引きを

し前もって借りていた部屋でもぐりの商売をしていたのです。

今は援助交際という言葉がそれに当たりますが、呼び込み行為が携帯電話のメー

ルに代わり、連れ込み旅館がホテルやモーテルなどに代わっただけで、パンパン

の年齢が小学生高学年から一般主婦までの広がりがあり、値段も4,5万円から

500円(札幌市の中学生の例)までの範囲らしいです。しかも、罪悪感のないのも

特徴の一つのように思われます。

中には、パチンコで摩(ス)ってしまったので、男子トイレ内(大便用)で立ちながら

の売春行為もあるのです。また、性感染症も蔓延状況のようですので恐ろしい世

の中になったことを憂う者の一人です。

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2009年4月14日 (火)

支庁税務課での アルバイト

大学2年生の前期(4月~9月)のことです。1年生で可なりの単位を取っていたの

で時間割に余裕が出てきました。また、代返や受講カードを出してくれる友達も増え

ましたので、長期のアルバイトを物色中でした。ところが同じ数学科所属の先輩が

素晴しい情報を持ってきたのです。

勤め先は、札幌市にある石狩支庁の税務課。履歴書持参で面接を受けました。

無事合格です。日当は1日150円ですが月給扱いで約4,000円。

仕事の内容は納税通知書の手書き作業です。自動車税、固定資産税、不動産取

得税などなどです。馬や牛にも課税され、家も窓の数によって課税額が異なること

を知りました。

納税通知書は年間4回期に分かれているため、同じような内容を4箇所に書かな

ければならないのです。縦が約12センチ、横が70センチ幅の横長の紙を机上に

1束300枚が3束分書くのがノルマです。

朝9時から夕方5時までが勤務時間です。午前、午後に15分の休息時間があり、

昼休みは45分あるのです。しかし、単純労働です。来る日も来る日も通知書とニ

ラメッコ。うんざりします。無駄話もせず手が腱鞘炎(ケンショウエン)になるのでは

ないかと思うほどきつい仕事です。支庁に勤める事務方はよくもこんな仕事を毎年

毎年していられるものだと驚きました。

役所の人の仕事ぶについても不思議でした。仕事の取り掛かり時間は正確です

が、勤務終了の15分前から机上を整理し勤務終了と同時に退勤するのです。

チャンムの合図で行動するロボットのように思ったのです。

昼休みになると、支庁の食堂へ行き格安なラーメンやカレーライスを食べ、その

後、中庭で剣道の練習を見たり、大通り公園のベンチで休むなどそれぞれが休憩

時間を有効にエンジョイしているのです。

私は、役所の仕事は変化に乏しく生産的でないと感じ、特別、頭脳労働者とは思い

ませんでした。今思うと浅はかな考えです。しかし、僅か1ケ月の仕事でしたがやは

り教員の方が、はるかにやりがいのある仕事との思いを強く持ったのです。

それは、日々成長を遂げる子ども達の姿を見ることができるし、世に出て活躍する

教え子の姿も見ることができるからです。

私は、ある時点で自分の現在ある姿を評価するときには、必ず以前の私、これま

での体験・経験などと比較しながら考察します。「何事も経験してみなければ分

らない」というのが、私の人生訓です。これも終戦直後の生活苦や学生時代の苦

学などで自然に身についたことのように思うのです。

お金ではなく人生哲学ともいうべきものを持てたことに感謝している昨今です。

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2009年4月13日 (月)

抱っこして!の誘惑

映画好きな私は、アルバイトで貯めたお金でよく映画館へ行きました。手宮館へ行

った時のことです。隣に座っている若い女の子が、

おじさん!抱っこしてー、ねーねーいいでしょう!」と鼻声で耳元にささやくのです。

まだ19歳の男です。何も知らない男なら誘惑に負けて抱っこしたことでしょう。そし

て、小部屋の一室で熱々になるのが一般的です。

この手にはカラクリがあるのです。誘いにのり抱っこしようものなら大変です。恐ら

く数分後に大変な目に遭うことになるのです。後ろで監視していたやくざが傍に来

て、

オイ、俺の女に手を出し上がって!この始末をどうつける積もりだ」と脅され、

お金、上着、時計、靴まで脅し取られ挙句の果てに殴られ、蹴られるなど散々な目

に遭うこと間違いなしです。

実際に大和館という映画館でそのような場面を目撃していましたし、中学時代の友

達から情報をもらっていましたので、誘惑には負けず席を移動して鑑賞を続けまし

た。

このような誘惑に負ける男を私達は田舎者(イナカモノ)と呼んでいました。

君子に三つの戒(イマシ)め有り」(君子は、年少のときには女色、壮年のときは

人と争うこと、老年のときには利欲心と、歳に応じてその三つを戒めなければなら

ないということ)の論語を思い出します。今は、女色と利欲心にブレーキがかから

ない人があまりにも多いような気がします。くわばらクワバラ!(災いを避けるた

めの呪文)

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2009年4月12日 (日)

不良に助けられて 通学

私の住んでいた小樽の手宮地区に、通称『本田沢』(現:梅が枝町、末広町の一

部)という細長いだらだらした坂道があります。近くには小さな女郎屋(ジョロウヤ:

遊女を抱えておき、客をとらせることを商売にした家)があり、お世辞にも環境が良

いろとは言えませんでした。

中学時代に、日中にもかかわらず2人の与太者(ヨタモノ:不良、やくざ)が堅気

(カタギ)の若者を呼び寄せ「おい、キサマ、オラニ眼(ガン)つけやがって、ちょっと

こっちへ来い!」と強引に小路へ連れ込むのです。数分後、その若い人は顔に殴

られた青いあざ。

与太者の一人は手にカツアゲ(脅しとること)した時計をぶら下げているのです。

夜になると本田沢は電柱の一本おきに街灯が点いているため薄暗いのです。

その下にハイが群がるように数名の与太者がたむろしていることがあるのです。

難癖をつけてカツアゲする魂胆です。そのような危険な道を毎日通学するのですが

日中は人通りも多く顔見知りもいるので恐ろしくありません。しかし、人通りの少な

い夜道はやはり物騒です。

学校帰りのある日、夜9時近くのことです。本田沢通りを数分歩いた辺りで、街灯

の下に与太者が数名立っています。獲物を物色中です。「おい、学生さん!夜遊び

でもしてきたのか?チョット用事があるからコッチヘ来いや」とのこと。「君子危うき

に近寄らず」と思っても逃げ場がありません。私は聞こえないふりをして通り過ぎよ

うとしたのですが、その内の一人が追いかけてきました。

下手に逃げても多勢に無勢です。しかし、万が一襲われたらあの家の軒下で戦う

より仕方がないし、ゲタを脱いでターゲットにした与太者の顔面を殴りつけてやろう

覚悟を決め、やせ我慢しながら近寄って行きました。

「なんですか?今、学校帰りなんですが」と言うと、「おや!ヒロシ(仮称)でないか。

おい、お前らこいつに手を出すな!中学時代の仲間なんだ」と言い、

おい、もし変な奴に捕まったら、俺の名前を出せや!」と支援の言葉?を投げ

かけてくれたのです。本田沢を角帽スタイルで歩くのは友達の北大生2人と私だけ

だったので、与太者仲間には直ぐ私の存在が伝わり、その後、声を掛けられるこ

とがなかったのです。

なお、私を窮地から救った与太者は、このブログでも紹介したことのある人物で、

バケツに小便し二階の教室から投げた友達であり、不登校気味の彼にプリント物

を届けたり、登校時に声を掛けてきたクラスメイトだったのです。

面白いことに、教師になってからも悪と言われる子供に、何故かラブコールをか

けたり、温かい態度で接するようになっていたのです。そして、彼らから情報を入手

生徒指導に役立てましたが、これも本田沢での出来事が潜在的に影響していた

のではないかと思うのです。

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2009年4月11日 (土)

母の後姿

子供に手がかからなくなった母は、突如として私も働こうかなと言い出し、ある洋裁

店に勤めることになりました。私が大学からの帰り道、母の勤め先のまど窓ガラス

ごしにミシンに向かっている母の姿を見て、痛々しい気持ちになったのです。

母は、18歳から39歳まで10人の子供を産み、44歳で夫を失い、48歳にして初

めて勤めなければならないなんて、あまりにも酷で惨めに思えたのです。歩きなが

ら胸に込み上げてくるものを抑えることができませんでした。母のために早く教員

になり、少しでも楽にさせてあげたいと思ったのです。

また、無鉄砲で何を仕出かすか分からない私でしたので、せめて

         母を悲しませたり迷惑をかけるような行為

だけはとってはいけないと決意したのでした。

母の仕事は長続きしませんでした。1ヶ月?位だったでしょうか。職場の人間関係

が上手くいかず、給料ももらわず一方的に辞めてきたのです。今まで勤めたことが

なく、まして一人娘同様に育ってきたため、我がままなところがあったのでしょう。

ところが、面白いことに高校生の妹が、たとえ期間が短いにしても、ただ働きする

必要がないとのことで、嫌がる母を連れて談判に行き、一定額のお金を貰ってき

たとの話を後で聞き、へーえー妹もなかなかやるものだと感心させられました。

これも家庭教育の成果?影響なのでしょうか。とに角、教員の安月給と飲兵衛の

父、子沢山の家庭に育った子供が必然的に身につけた資質なのでしょうか。

何れにしても、子供は「親の後姿を見て育つ」と言われますが、いつのまにか妹

もしっかりした少女に育っていたのです。

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2009年4月10日 (金)

『勉強の説明書』 画期的な本

春です。教員時代の私は、春休みには欠かさず書店で参考図書を物色する癖が

ついていました。理由は校内分掌係のひとつである「研修係」が長かったからです。

実に25年間もです。

この度、70歳と6ケ月になろうとしているにもかかわらず、これまでの人生で一番

高価な本を購入したのです。代金は17,663円(本代14,900円、送料・手数料

2,763円)。

偶然ニュースレターで、『勉強の説明書』という本が間もなく発刊されるのを知り

楽しみにしていました。現在、勉強法に関する図書は、相当数発刊されているも

のですから、この本もその種のものかと思いました。また、金儲け主義で内容の

貧弱な本ではないかと疑いもしました。しかし、度重なるニュースレターを読んでいく

うちに「勉強法研究会」代表者の勉強についての、次のような悩みに共感を覚え

たのです。

■ 「このままじゃ行く大学なんてないぞ!」と担任に脅かされた高校時代

■ 「もうあとがない」と、もがき苦しんだ浪人時代

■ 「ヤバイ!単位が足りない!」と慌てふためいた大学時代

■ 「絶対に受からなければ後がない!」と崖っぷちに立たされた資格受験

また、彼の勉強法を研究するようになった動機の切迫感。体験を通しての強い課

題意識に支えられ「勉強の基本法則(普遍的)」の体系化に関する研究をして

いる彼と、教員時代の自分とを同一視するようになったのです。

彼は勉強本52冊、成功哲学書57冊、心理学書38冊、その他の参考図書を含め

て実に200冊以上を読破し法則性を見つけたとのこと。この姿勢にも共感を覚え

たのです。

私も歴任校や研究所の研究紀要、小学校算数科の教師用指導書の執筆を手がけ

た関係上、教育図書を数百冊も購入し役立てたことがありました。ですから、彼の

説明は特別大げさでもなく、嘘ではないと思います。

4日前にオンライン通販で注文しセイコーマートで代金支払いをしましたら、昨日そ

の本が郵送されてきました。勉強の説明書が220ページ。その他、「記憶術大百

科」「Speed Reading」の特典もついております。

早速、妻ともども効果的な暗記法の一つとして紹介されている「身体暗記法」によ

る実践を試みたところ、10個の言葉を順番に言うことができたのです。そして、

今朝、昨日の10個の言葉やランダムに書かれた7桁の数、自動車のバックナン

バーが記憶されているかどうか調べてみましたら、完璧に思い出すことができた

のです。

この本は勉強の入口(取り掛かり)から出口(合格・資格取得)までの過程をスモ

ール・ステップの原理を用いて導いてくれる画期的な大作との感想を持ちました。

また、ここに書かれているものは時代が変わっても変わらない(不易)な内容・方法

でなかろうかと思うのです。したがって、高校、大学受験や教員採用試験、公務員

採用試験、各種資格試験において即戦力となる勉強法の説明であると感じました。

もっと早くにこの本との出合いがあれば、教員採用試験、教頭・校長昇任試験など

で、そんなに苦労しまなくてもよかったのにと残念に思うのです。

しかし、世の中にはいろいろな人がおりますね。勉強法などは大学の教授や国立

教育政策研究所員などの有名な学者が執筆するものと思っていました。また、読

者も有名人(例えば竹中平蔵:慶応義塾大学教授、元経済財政政策・郵政民営化

担当大臣~竹中式マトリックス勉強法)の著書ともなればハエが群がるように飛び

つきますが、そうでない人の本には見向きもしない傾向にあります。問題は中身で

あり己にとってどれほど価値ある内容なのか吟味することが大切ではないでしよ

うか。

『勉強の説明書』はイラスト入りでわかりやすく徹底的に解説しています。ノウハ

ウを読むことで、すぐに効果的な勉強方法がわかると思います。

なお、詳しい内容は下をクリックして覗いてみたら如何でしようか。

             http://www.benkyousetsumei.com/list.html

                  勉強の説明書

私もまだ青春です。「青春とは若き肉体の中にあるのではなく、若い精神の中にこ

そある」とのサムエル・ウルマンの詩「青春とは(Youth)」にあるように、若い精神

で目的志向・価値追求的な人生を歩もうと思っています。その友の一人としてこの

『勉強の説明書』から助言をいただこうと思っているのです。

彼の言葉によれば、勉強には人生を変えるパワーがあるということを、炭鉱夫で

あったアメリカの第22代大統領と同僚の脱獄囚についての逸話をもとにニュース

レターを配信されてきましたが、「志を高く」持つことの重要性がわかります。また

購入済みの私にもかかわらずレターをくれる「勉強法研究会」の代表者の誠意あ

人柄の一端を垣間見、嬉しく思った昼下がりでした。

※人を褒めてあげるという行為は自分自身も嬉しくなり、心がさわやかになるもの

ですねhappy01

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2009年4月 9日 (木)

家訓 学費は自分でかせげ!

今日は妹Y子の手記の一部を紹介します。

私が高校に通っている頃、H兄が札幌の「雪まつり」に末の妹と私と2人を連れて行

ってくれました。兄は定期券があり2人分の交通費だけで行けたのです。わくわくす

る気持ちで汽車に乗り、大通り会場の雪像を観て実物の迫力に圧倒され、寒さも

忘れ1日を楽しく過ごしたのを、毎年雪祭りの時期になると思い出すのです。

この話を妹のM子に話したら、私も行きたかったけれど連れて行ってもらえなかっ

たとのこと。M子はアルバイト中だったと聞いて思い出しました。

この時期には水産加工場ではスケソウダラの寒乾し作り紅子(モミジコとも言い、

タラコを紅色で着色したもの)作りが始まっていて、M子は友達が水産加工場の人

だったので、その友人に頼まれてのアルバイトです。

仕事の内容は簡単。タラの頭を切りメスとオスに分けるのです。つまり、紅子にる

ものとタチに分け、身の方は乾すのです。

加工場内は魚の鮮度を落さないためストーブがありません。湯を入れた桶があり

手がかじかんだら湯に入れて温め、また作業するのです。しかし、足元は長靴の

下からじんじんと冷たくなるのです。

お昼に家へ帰りストーブで体を温め、また夕方迄するのです。帰りにスケソウタラ

に混じって入っているホッケやカレイを集めてバケツに持たせてくれるのです。

しかし、重いし早く帰りたい一心でしたので、嬉しさも半減したことを覚えています。

実は、私も頼まれて日曜毎に10日間位そこでアルバイトをしたのです。

[注釈] 我が家では、「教育を受けたければ大学へ行っても良い。しかし学費

自前で」というのが家訓でした。父も師範学校時代苦学をしていましたから、

我が子に対してもそれを強いたわけです。ですから、父存命中は3人の兄達は中

学時代からアルバイトをし大学まで行ったのです。私も兄達と同じような構えで生活

しておりましたが、妹達まで同じ道を辿るとは思っていなかったのです。

水産加工場て寒さに耐えながらアルバイトをした妹のM子はまだ中学1年生であり

Y子は高校1年生だったのです。NHKの朝のドラマで高視聴率を上げた『おしん

と同じように妹達も苦労したことをY子の手記で分かった私です。

でも、みんな幸せそうに生きている姿を見て、若い時の苦労が実ったのだと思って

おり、「自主自立と何事も自前」の精神を育ててくれた両親に感謝できる歳にな

ったのです。

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2009年4月 8日 (水)

男2人 裸で寝る?

学大1年生の12月、二類小学課程の数学所属の仲間で担任の宇喜多義昌教授

を囲んでコンパ(会費制の懇親会)が狸小路の鍋万という老舗で開催されました。

すき焼きを食べながらビールとお酒をちゃんぽんにして飲みました。まだ飲むこと

になれていない私は、胸がムカつきトイレで嘔吐です。折角美味しいご馳走を食べ

ながら・・・・もったいない・・・・・・・・。

10時過ぎまでドンチャン騒ぎをし、友達3人と寮までタクシーで帰りました。今晩は

初めて寮に泊めてもらうことにしていたのです。

11時過ぎに、1枚の布団に大人が2人。多少窮屈ですが文句は言えません。

学生服を脱ぎシャツ1枚で寝ようとすると、寮の先輩が「ヒロシ(仮称)、裸になって

寝るとその内にポカポカしてくるから、嘘だと思って寝てみれsign01」と言うのでやって

みました。初の内は布団の冷たさが直に伝わり寒さを感じましたが、その内にポカ

ポカし始め、いつしか深い眠りに入ったのです。

まさか、この体験が後々までの習慣になるとは夢にも思っていなかったのですが、

実に49年間続いたのです。ホテルへ行っても温泉に行っても、外国へ行ってもベ

ットには上半身裸で寝るのです。寝返りが楽であるし、血行もよく健康維持には素

晴らしい方法ですが、妻が「シーツが直ぐ汚れるし、火事や地震で急いで外へ逃げ

出すときは困るので、パジャマをはいて下さい」と注意とます。しかし、長年培った

習慣をなおすにはひと苦労するものです。

70歳を契機に上半身だけはTシャツを着るようになりましたが、これも病気で入

院でもしたら裸で居るわけにはいきませんので今から練習を兼ねて寝ているので

す。しかし、寝返りの際にシャツが身体を締め付けるような感じになる時があり、

なかなか寝付かれない時もあるのですが最近やっと慣れてきました。これで上半

だけは人並になったわけです。下半身のパジャマ着は入院した時にでみ直そう

と思っています。変なところが頑固なジジイになっているのです。

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2009年4月 7日 (火)

死に目にあった アルバイト

登校してきて一番先に行く場所は学生掲示板です。今日はすごい情報です。

<アルバイト情報。1日500円の肉体労働。行先→琴似駅、日本通運へ>

1日500円のアルバイトとは聞いたこともありません。事務系の約3日分happy01

急いで友達に代返(出席の返事を代わってしてもらう行為)を頼み、目的地へ。

最初の仕事は、セメント袋を貨物列車から日通の倉庫へ運ぶのです。腰に乗せリズ

ミカルに運びながら、こんな仕事で500円かと喜び勇んでいたのです。

さて、午後の3時頃です。駅の引込み線に石炭を積んだ貨物列車が到着しました。

一両15トンの石炭が山積みになっているのです。それを次の貨物列車が来るま

での2時間半?の間に線路脇に降ろさなければなりません。次の貨物列車が空き

になった車両を連結して行くことになっているのです。ですから、時間厳守です。

さて、戦争のような苦しみです。戦争体験はないのですがボルネオやスマトラの

ジャングルの中を、数十キロも行進した苦しみを憲法学者であった教授から聞いて

いたことがありましたので、仕事をしながら思い出していたのです。大型スコップで

降ろしても降ろしても石炭は半分も減りません。現場監督が来て「時間内に降ろさ

なかったらアルバイト料は一銭も払わないからな。しっかりヤレよsign03」とのこと。

時々、時計を見ながら無我夢中です。喉の渇き、滴(シタタ)る汗、・・・・・・・・・・・。

遂に、やり遂げたのです。腕、腰、手の感覚も失せ意識がもうろうとしています。

その後、何をしたか分かりませんが、着替え室の鏡をみて驚きました。目だけがギ

ョロギョロし誰が誰だか判別できない顔。顔全体が真っ黒。鼻の穴も真っ黒。

日当500円をもらって5時近くの汽車で帰路についたのですが、小樽までの僅か

50分間、熟睡し、小樽駅前から久し振りにバスに乗って帰宅したのです。

[注釈] 昭和30年代、日雇い労務者は1日労働して240円だったのです。ですか

ら、それらの人達をニコヨンと呼んでいました。つるはし一つで水道管を埋める穴

を掘る仕事も240円なのです。彼らは肉体労働に携わっているだけあって、筋肉

が隆々としているのです。それに比して、私は身長167cm、体重54kgのモヤシ

のような体型。ですから過酷な労働に耐える身体でなかったので教員志望が正解

であるとの意を強く持ったのです。

現在、派遣社員や労働者の解雇問題が社会問題となっておりますが『蟹工船

の労働者や炭鉱の工夫港湾の荷役作業員などの厳しい労働に耐えてるような

人達が多かったら、これほど深刻にはならなかったと思うのです。本州のある市で

は労働者の三分の一の人が、東南アジア系やブラジル、アルゼンチンなどの外国

人労働者に依存しているという実態があるのです。今後、考えていかなければなら

ない重要な問題ではないでしょうか。

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2009年4月 6日 (月)

はじめての アルバイト

明日の1校時は休講。2,3校時は代返や受講カードを提出してもらうことにして、

初めてアルバイトをすることにしたのです。行先は学芸大学の近くにある

電気学園。仕事の内容は実習室の後片付で日当は250円です。

実習室に入って驚きました。教室内に背丈の低い電柱があり、電線を巻きつけた

ケーブルと呼ぶものもあるのです。ところが、同じ形をしたケーブルでも挿入された

銅線の太さや本数によって重さが全く違うのです。このアルバイトは結構な肉体労

働を伴うものでしたので日当250円の価値は十分あったのです。

なお、以前にも触れましたが事務系のアルバイトの相場は150円から180円です。

そのことを思えば250円は可なり高いことになります。

さて、このことに味をしめた私は、電気学園のアルバイトと(株)弘電社札幌営業

所の倉庫整理を行い、学生食堂でのラーメン代(1食30円)稼ぎをしたのです。

お陰で前期は、家庭教師と数回のアルバイトで家からの持ち出しがゼロにするこ

とができたのです。

今のように失業者続出の世であれば、大変なことになっていたでしょう。

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2009年4月 5日 (日)

下駄で校内闊歩 学長の姿勢

ぽかぽかと春の陽射しが射す頃、私は足駄(アシダ:高下駄とも言う)を履いて通学

するようになったのです。理由は二つ。

①革靴の底が磨り減らず経済的。 ②足が蒸(ム)れず衛生的。

ところが、ある日、校内を歩いていると向こうから恰幅(カップク)のよい紳士が来ま

す。そして、すれ違いざまに「君々!校内の下駄履きは禁止になっていることを知

っているでしょう」と声をかけ、私が「いいえ」と言うと「駄目なのだよ」とのこと。お金

が無くて新しい革靴が買えないことを訴えたのです。

すると「そうか、講義に邪魔にならないよう静かに歩きなさいよ」と、温和な表情

で諭すのです。先輩に聞いたところによると、その人物は学長の武田一郎氏(昭和

32.11.1~37.10.2まで在任)だっのです。お茶の水女子大学付属主事から

来られたと聞き、さすが小中学生を相手に教育してきただけあって、実に柔らかな

物腰であり威圧感を全く感じさせなく、教育者の中の教育者という感じの学長さん

だったのです。

学長の注意を胸に留めた私は、それから数日してから婦人用の日和下駄(歯の

低い下駄)を買い、歯の底にスキーの皮バンドを釘止めし音の出ないように工夫し

て下駄履き通学を通しました。それでも毎日約10キロ近く歩くものですから、1月に

2足必要なのです。

この工夫のお陰で、校内を歩いても静かでしたので同じ通学仲間が、私を模倣し

下駄履き通学をしたものですから、力強い味方が増え「皆で渡れば怖くない

の心境になったものでした。

但し体育実技の時だけは、寮の友達の所に預かっていた運動靴を履いたのです。

指導者の一挙一動(ちょっとしたふるまいや素ぶり)が、影響力を及ぼすことにな

るのです。

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2009年4月 4日 (土)

パッチワーク的 学生服

市電のつり革にぶら下がっている私の腕に、ある女学生の視線が留まりました。

4   

その子が隣の友達に耳打ちするとその子もちらっと袖の方を見るのです。何か不思

議な物を見るかのごとくです。

Photo_2

この子達は、南16条西6丁目の電車通りにあった「札幌静修高等学校」(女学校で

昭和60年に高校演劇日本一に輝いた学校)の女学生です。私のことが校内で噂に

なったのでしょう。私の袖を注視し時にはくすくす笑い出す子も出てきたのです。

私も付き合って笑い返すと一層遠慮なく笑うのです。このようなことが数ケ月続きまし

たが、その内に見慣れてしまって注目されないようになりました。

Photo

実は、私の学生服は世界中で1つしかない素晴らしい芸術作品なのです。大学に

入ったお祝いに母が作ってくれたのです。記念品として残して置くべき代物です。

母は若い時に札幌で洋裁の修業をし、紳士服専門の縫い子だったのです。国鉄の

制服を縫ったり、背広、オーバーなどが専門です。ですから私は小さい時から母の

踏むシンガーミシンの音を子守唄代わりにしていたのです。学生服は一晩で縫い上

げるほどの腕前です。

しかし、母には凄い裏技があったのです。一枚の布を製図し,断ち、縫うというは腕

に憶えのある人は誰でもできます。母は、紺色の兄や親父の古着を解き、日焼けの

少ない部分を活かしたり半端布を縫い合わせるのです。

しかも、服の前と後、袖の人目につかない部分を継ぎはぎし目立たないように色を

組み合わせて作るのです。出来上がった学生服を前にして、母は「ひろし(仮名)、

この服何枚の布を使って出来たと思う」と問われ「5、6枚かいsign02」と応えると、「残

念でしたsign0116枚も使っているのよhappy01」と自慢顔で言うのです。創意工夫しながら作

り息子の喜ぶ姿を見て、満足感にしたる母なのです。

しかし、母の作品は「作る」と言うよりは「創る」と言った方がぴったりです。直立

姿勢でいると殆ど継ぎはぎしてあるとは気付かないほどの出来栄えです。妹達のセ

ーラー服も同様です。父の背広なども古くなったら布を裏返しにして作り直します。

ですから、胸ポケットだけは左右が逆になるのです。

私は、中学時代からバンカラスタイで通学しておりましたので、多少違和感のあ

る服装であっても全く気に留めることがなかったのです。しかも、この学生服は母の

愛情が一枚一枚の布に籠(コ)められたものであり、私にとっては誇らしく思えるも

のだったのです。

なお、身だしなみに拘(コダワ)らない性質は?今でも直らず、妻同伴で外出する際

によく注意され、他所行きの服装に着替えることが度々あるのです。

また、変わった性質と言えば、レストランや居酒屋へ行った際も、ウエイトレスやお

客さんに「その料理は美味しそうですが何と言うメニューですか?」と聞くことがあ

るのです。私と同伴した人に、恥ずかしいから止めなさいと注意されます。

疑問に思ったことは直ぐ聞くという態度は、中学生の頃から培ったものなのでなか

なか直すことはできません。ですから、外国旅行でも、エックス・キューズ・ミーとアイ

ム・ソリーの二言と数個の単語で聞きただすことができるので、「海外旅行に適し

た人間」として自負しているのです。

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2009年4月 3日 (金)

同じ釜の飯を食う

学大へ入学した当初、困った問題がありました。休講になった時や体育科の授業の際に運動着に着替える部屋がなかったことです。学生はどれかの教科に所属し研究室を持っていたのですが、私達二類課程(2年課程)はゼミナール(大学の専門教科の演習などで教官の指導のもとに少数の学生が研究発表する形式の学習)の部屋がないのです。

私は数学科に所属していたのですから数学の教官室を利用できる建前になっていたのですが、一類(4年課程)の学生や中学課程の数学専攻生が独占しており、遠慮せざるを得ないのです。従って、空き教室を利用しておりました。

この話を聞いた汽車通仲間のY君が、友達が寮生活をしているのでその部屋を利用しているとのこと。そこで彼の紹介で数学仲間の3人がご厄介になることになったのです。助かりました。着替えは勿論のこと、空き時間は囲碁をしたり花札などをして時間をつぶすこともできましたし、何よりも誰にはばかることもなく煙草を吹かすことができたからです。

寮は先輩も同居しているので、いろいろな情報を入手することができたのです。あの教官は厳しいので要注意とか、レポート提出で済むとか・・・・・・・・・。ですから、先輩達の情報を参考にして授業に臨むことができたことです。

ところで、ある時のことです。農家出身の先輩M君のもとに親御さんから米が送られてきました。すると他の先輩がM君の米を勝手に盗んで飯を炊いてご馳走してくれるではありませんか。「見つかったら大変だよ」と忠告したのですが、同室のよしみ許してくれるだろうとのことでした。

それから36年後、私が北海道教育委員会指導主幹になって各地の学校を訪問していた時のことです。寮で米を盗んで食べた時の被害者M君が、母校の教頭として勤めていたのです。私は思い出話の1つとして、寮での米の一件を話しました。

すると彼は「知っていたよ!あの当時は米が配給であり皆腹を空かせていたので、黙っていたんだよ。私の所は農家だったので、あの位の米は自由になったんだ。でも、よく憶えていてくれたねsign02」とニコニコ顔で話してくれたのです。

昔から「同じ釜の飯を食った仲間」(いっしょに生活して苦楽を分かち合った親しい友人関係)という言葉がありますが、私にとってはM君の言葉で胸が熱くなりました。現在は寮に入る学生が減少してきているようです。しかし、人間関係の良し悪しや幅広さは社会に出てからの力となりますので、寮を蔑(ナイガシロ)にする姿勢には疑問を抱くわけです。

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2009年4月 2日 (木)

大学入学直後に 手痛いミス

「学生番号○○番 NH 教官室へ出頭せよ」との文言が、数学担当教官であった宇喜多義昌(元東京理科大学学部長、統計学)教授の研究室前の掲示板に書かれていたのです。それを見ていない私は、友達から「NKはさっぱり顔を出さないがどうしたのだろう?もし君達が会ったら早く来るように伝えておいてくれ (・A・)イクナイ」と教官が言っていたとのこと。

慌てた私は早速教官室へ出頭しました。教授は「君、奨学資金の申請をしなくてもやっていけるのか?」と言うので、「いいえ、凄く困ります。すぐ申請します。」と応えたところ、「残念だねー。申請書の提出がもう締め切られたているからどうにもならないのだよ」とのことです。「何とかなりませんか」と幾度も頼んだのですが、「事務処理は全て終ってしまったので、どうにもならないのだよ。だから2週間前から出頭するように掲示してあったのに、君が無視していたからこんなふうになったんだよ」と咎(トガ)められたのです。

日本育英会奨学資金の返還免除制度があることを兄から聞いていた私ですが、ガイダンス指導の際に聞き漏らしたか、それとも学生掲示板のお知らせ文を読んでいなかったのか分かりませんが、手痛い重大なミスを犯してしまったのです。

国公立大学における日本育英会奨学金の一般貸与は月額3,000円です。授業料が年額9,000円(月額750円)、交通費が月額780円(小樽~札幌間480円、電車300円)でしたから、奨学金が貸与されていれば月額1,470円残になるのです。そうなれば、学生食堂で30円のカレーライスが49回も食べることのできる計算になるのです。

しかも、卒業後、教育・研究職に就職し貸与期間の2倍の期間小中学校の教育の職にあったものは、全額返還免除です。したがって、この制度の適用を受けれないことは学生にとって死活問題なのです。

しかし、自分のミスですので仕方がありません。そこで教授に「父が若くして死に妹達もまだ3人おり生活が大変なのです。なんとか、救済策はありませんか?」と聞いたところ、「授業料免除という制度があるよ」とのこと。「それでは、すぐ申請しますから宜しくお願いします」と頼みました。教授は「人物、学業成績優秀で、授業料の納付困難な者について、本人と連帯保証人連署の申請に基づいて、学長が許可することになっている。君の入学試験結果では優秀とまでいかないから前記は無理です。前期の成績が10点満点中7.5以上なければ申請できないので、後期から適用になるよう頑張りなさい」と励ましてくれたのです。

宇喜多教授の助言により、1年の後期から授業料が免除になり一息つくことができました。なお、妹の友達への家庭教師代として月額1,000円の収入があり、月に3回アルバイトをすると(事務系150円、労働系180円)540円になりましたので、家からの持ち出しがなく自前で賄うことができたのです。1年の時は、前期7.5以上の成績をとるため必死に頑張ったことを思い出すのです。

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2009年4月 1日 (水)

「代返」と アヴェ・マリア

授業をさぼった学生に代わり出席を装って返事をする行為を「代返」(ダイヘン)と言います。たまたま汽車通仲間の1人に、今日アルバイトに行くので代返をして欲しいと頼まれました。この講義は受講生が多いので見つかることがないと言われましたが、もし見つかったらどうしようとハラハラしていました。しかし引き受けたからには、堂々と成功させなければなりません。

彼の名前が呼ばれました。一瞬緊張しましたが大きな声で「ハイ」と代返しました。教官はまた次の学生の名前を呼ぶのです。特別不審に思った様子もなく講義に入ったのです。この代返に味を覚えた私は、時には2回も代返したり、してもらったりすることがあったのです。

出席確認は教官によって違うわけです。出席簿による確認方法の他に、受講カードによる方法がありました。この方法では①前列に座っている学生の前に適当にカードを置き後方へ回す方法。 ②前列の学生の前にその列の学生数分のみ置く教官。 ③自らカードを配って歩く教官です。学生は①の時に余分にカードを取っておき、他の講義の際に偽装出席として利用するのです。

しかし、多くの教官の中で音楽専門の遠藤宏教授の印象が一番強烈です。一般教養として「音楽通論」を履修した時に、初回の講義で次のような事を話したのです。

① 私は出席をとりません。単位と出席数は無関係ですので安心して下さい。

② 貴方達は一般教養として受講されたのです。音楽家になるわけではありません。ですから、私の講義を聞きたくなった時のみ来られてもよいのです。

③ テストはしません。音楽に関するレポートを提出してくれれば全員に単位をあげます。

④ なぜ、このようにするのかの理由。東大で教えている時にペーパーテストを白紙で出した学生がいたので不思議に思い、テスト用紙の裏を見たら俳句が一首書かれており、何故かこの俳句に心が動かされ単位を上げたこと。後で調べてみると東大俳句クラブの部長をしていた学生であり、後に社会に出て素晴らしい活躍をしていたことを知ったとき、あの時、単位を上げておいてよかったと思ったからとのことです。

私は遠藤教授に凄く人間的な魅力を感じ、毎回講義に出たのですが途中で教授が病気になり休講が続いたのです。結果的に前期にシューベルトの「アヴェ・マリアの魅力」について原語の意味や情景・心情などについて数回講義したのみでしたが、レポート提出で4単位(通年分)もくれたわけです。

私のレポートの題は『音楽と詩の限界』でした。札幌で一番大きな書店であった富貴堂で買い求めた書物の書名と同じわけです。雨だれの音は音楽か?音楽とはどのような要素が具備されていなければならないのか?などなどですが、70歳になってもこの遠藤教授が忘れられないのはどうしてなのでしようか。教育のありように一石を投じた教授の一人であり、アヴェ・マリアの曲は心に深く刻み込まれた歌になったのです。

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