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2009年5月

2009年5月31日 (日)

お土産どっさり 小樽で年越し

天下の公休日の到来。12月29日から1月3日までの年末年始休暇に、小樽市の

親元で年越しをすることにしました。しかし、元旦に新年交礼会がありますので元

旦早々に、汽車に乗り戻ってくることを下宿の奥さんに告げました。

そうね!折角親元に帰るのだからゆっくりできればいいのにね!でも、仕方がな

いはねsign01家でも父さんと娘二人が出席するからね」と助言してくれました。

いよいよ年の瀬が押迫り、部落から学校へ豚肉の注文書が届きました。私は1貫

(3.75kg)も買いました。だって親元には7人の家族が待っており、私を含める

と8人になるのです。ですから特別多いとは思いませんが、他の先生方も1貫目だ

ったので、それ以上は気が引けて注文することができなかったのです。

下宿の奥さんは、可なりの量のもち米をお土産に持たせてくれました。私は大きな

風呂敷にお土産を包み、背負って国鉄バスの停留所へ急ぎました。バス停は下宿

から約600mの近くにあったのです。

バスは札幌駅が終点ですので大変便利でした。それから小樽行きの汽車に乗り、

駅からバスに揺られてやっと実家の近くに着きました。途中の商店でミカンの大

箱を買い、配達してもらうことにしたのです。

家に着くと家族皆が大変喜んでくれました。夕飯のおかずは焼きぶたです。ステー

キー風に焼いた肉を食べるのは、恐らく初めてのことだったでしよう。

僅か3泊の短い帰省でしたが、久しぶりに賑やかな歓談のひと時を過ごし、大晦日

はラジオから流れる紅白歌合戦を聞きながら満足感に浸って眠りについ私だった

のです。

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2009年5月30日 (土)

農家に下宿 全く違った環境?

学校の盗難事件のとばっちりを受けて、2度目の下宿を出なければならなくなっ

た私は、PTA副会長のBさん宅に下宿させてもらうことになったのです。

稲刈りが終わり農家の仕事も一段落した初冬に引越しました。下宿の奥さんは

先生も知っている通り、家は農家で下宿人を置いたことがないから、都会育ちの

先生には戸惑うことが多いと思うよsign01本当はお断りしようと思ったのですが、行く当

てのない先生が可哀想だったし、校長さんが何回も頼むものですから仕方なく引き

受けることにしたのよsign01」と。

Bさん宅は夫婦と女の子が3人(小学1年、5年、中学2年)の5人家族でしたが、

その他に出面(デメン:季節労働者)さんと呼ばれていた女性が1人住み込んでい

ました。奥さんは

今まで男1人で心細いところがあったけれど、今度先生が来られたので男2人に

なり心強く思うよsign01頼りにしていますから宜しくねhappy01」と明るく笑いながら、屋敷を案

内してくれました。

板の間の広い居間には既にテレビが置かれ、冠婚葬祭に使う床の間つきの10

畳が2間、それに8畳、6畳が4間、台所も8畳ある広い家です。私が寝泊りする部

屋は屋根裏を改築して一部屋を造ってくれることになっていましたので、それまでは

一時10畳間を使うことになりました。

その部屋は障子を開けると縁側であり、そこから見渡す限りの田圃が続いている

のです。廊下のつき当たりはトイレで、夜中に用をたす人が忍び足で歩く足音が聞

こえることもありましたが、生まれて初めて10畳間に1人で寝ることになり、まるで

大名の寝室のような気分でした。

また、屋敷の周りには、モミを脱穀したり貯蔵しておく納屋、農機具小屋、馬小屋な

どがあり、とに角、敷地全体が凄く広いのです。しかも公道から玄関まで約50mの

私道。そして屋敷の北側と玄関、居間の近くには大きな木が茂っており、約600m

先からでも我が住家が見えるのです。

こんな素晴しい住環境に一体いつまで下宿できるのか若干不安が過ぎりましたが、

奥さんをはじめご家族に余分な負担をかけないよう心がけようと決意したのです。

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2009年5月29日 (金)

盗難事件③ 思わぬ展開

先生、この度は大変ご迷惑をおかけしました。まさか甥(オイ)が泥棒するなんて、

恥ずかしくて恥ずかしくて外にも出られないのsign03」o(`ω´*)oプンスカプンスカ!!

このまま先生を下宿させておくと、世間から何と言うわれるか分らないは。ですか

ら家に泊めておくわけにはいかないの!まだ家に来て半年足らずで申し訳ありま

せんが、そうしてくれませんか?」

と下宿のおばさんから、又もや退去命令なのです。

驚きました。今の下宿を探すのに大変な思いをしたのに、また、退去命令とは・・

・アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!

早速、このことを校長に報告すると

本当に困ったことになったね!PTAの方々と相談するから、暫らくの間、そのま

ま今の下宿にいて下さい」とのこと。

それから数日して、夜分に職員室でPTA三役会議です。勿論、私の下宿の受入れ

先についての相談です。しかし、これといった解決策が見当たりません。

校長は

来年の秋になると教員住宅が2棟4戸新築され、今、私が入居している校長住宅

はそのまま残ることになりますので、どなたか1年間だけお世話してくれませんで

しょうか?」と何回も何回も懇願したとのことです。

結果的に、現役員の中で二世帯同居でない副会長宅が一番受入れ易いのではな

いかということになり、会長をはじめ他の役員方がこぞって説得したのです。

副会長宅は学校から500mの近くにあり、どちらかと言えば裕福な農家なのです。

誠実な人柄であり寡黙(カモク:ことばかずの少ないようす)な人ですので強引な説

得にタジタジとなり、止むを得ず引き受けざるを得なくなった副会長だったのです。

そのような訳で、私はこの田舎に赴任してきて僅か9ヶ月で下宿を3回変えなけれ

ばならない事態になったのです。しかし、その後も教職員構成と教員住宅数によっ

て転々と居を変えなければならないという運命を背負っていたのです。

現在は車社会ですのでこのような問題は起こりませんが、50年前は一教員ですら

このような苦労に耐えていかなければならなかったのです。

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2009年5月28日 (木)

盗難事件② PTA会長辞任

本校の盗難事件の犯人である高校生は、現PTA会長と同居している孫だったので

す。学校側が犯人名を伏せていたのですが、PTA会長が謝罪のため夜に校長宅

を訪れ会長辞任を申し出たのです。

さあ大変です。年度途中でもあり次年度に校舎増築(体育館、音楽室、トイレ)と

教員住宅の新築を控えていると同時に、開校60周年を迎えるための記念事業

の推進中だったのです。

校長は慰留に努めたのですが、PTA会長は私が辞任しなかったら責任を果たすこ

とが出来ないと涙ながら訴えたとのこと。

翌日、緊急にPTA三役会議が開かれ事件の顛末(テンマツ:いきさつ)が校長より

話されました。役員方は一様に驚き現会長の辞任を止むを得ず了承したのですが、

誰を次の会長にするかということで協議が始まりました。当然二人いる副会長のう

ちの誰かが引き受けなければならないのです。

しかし、役員選出に関わって、この地域には独特な慣習があったのです。それは

地域の元老(その分野で功労のある老人)を交えて話合いをもち、役員を決定する

という手順をとらなければならなかったのです。

今回もその手順がとられ、現副会長(男)が会長を、総務部部長が副会長を兼務す

ることになり、臨時PTA総会の議を経て役員決定となったのです。

従って、学校の盗難事件に関わっては全部落民の知るところとなり、犯人の家族

や親戚は肩身の狭い生活を余儀なくされていったのです。

なお、この犯人は私が教えている子どもの兄であったのです。ですから、学級経営

上「いじめ」問題が派生しないかと随分配意したことを思い出すのです。

さて、これで一件落着したのでしようか。

                                          (つづく)

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2009年5月27日 (水)

 盗難事件① 犯人逮捕に絶句 

私が新卒で赴任した村の子ども達は、中学校を卒業すると地元にある村立高校

(農閑期のみ開設の季節制農業高校)か隣の市町にある道立高校へ進学するの

です。

たまたま、その市にある高校より盗難届が出されたのです。マイク、テープ、擬音

レコードなど放送関係の備品のみ。警察署では私の学校から出された盗難届が

テープレコーダーでしたので、犯人の目星がつきました。本村からA市へ通学して

いる高校生に間違いがないということで友人関係などを調べ、確証を得てから本人

の任意同行を求め尋問しました。その結果あっさりと自供したとのことです。

早速、校長と私がA市警察署へ出向き、盗難届けが出ている物品に間違いがない

かどうかの検分をしたのです。正しくそうでした。

驚いたことに、犯人は本校出身で小学校時代に放送部をしたことのある子だった

のです。彼はいつもにこにこしながら時々恩師に会いに来るし、成績や人柄もよく

児童会の役員をしたことのある好感度満点の子だったのです。私以外の先生方

は全員その子のことをよく知っていましたので大変驚き、信じがたいと口々に話す

のでした。そして

学芸会前だったら大変だったよねsign01遊戯の練習など出来なかったよねsign01

とのこと。

学校側では、前途ある高校生でもあり立ち直る機会を与えようとの考えから、犯人

氏名を公表しないことにしていたのです。しかし、この事件に付随して次から次

へと大変な問題が起きていったのです。

                                          (つづく)

注釈〕 A市にある道立高校は、各市町村立小中学校の成績評価が4,5段階の

子でなければ合格できないという、いわば広域圏の進学校として有名な学校だった

のです。従って、小規模校から進学するとなるとクラスのトップ級でなければなりま

せん。

窃盗犯である生徒は、自宅から駅までの約6キロメートルを夏場は自転車、冬場は

徒歩です。駅からA市まではジーゼル列車で通学し、吹雪で列車が不通となった時

は、友人宅に泊めてもらっていたのです。

たまたま盗んだテープレコーダーを友人宅に置いていたことから足がつき、犯人逮

捕となったとの警察官の弁。

盗難品を引き取りに行った校長と私は、縦30cm、横40cm、高さ15cm程度の可

なり重いテープレコーダーを持って警察署から学校まで持ち帰ったのです。

しかし、59歳になった校長に持たせるわけにはいきませんので、私1人で持ってき

たのです。約3.5kmの道程を。まだタクシー利用が習慣化していない時代(昭和

34年)だったのです。

20歳の時の辛い思い出の1ページです。応援のクリックありがとうございます!》

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2009年5月26日 (火)

泥棒侵入 学校へ

学芸会も無事終了し一安心している秋のことです。学校に泥棒が侵入したことが

判明。被害は職員室に設置されていた公衆電話の料金箱がこじ開けられ、数十枚

の10円硬貨と、職員室前の放送室(一坪)に保管していたテープレコーダー(ソニ

ー製)です。

昨夜の9時に校内巡視をした先生の話によれば異常なかったとのこと。そうなると

犯行時刻は午後9時以降なのです。これまで学校の盗難事故は一件もない平和そ

のものの田舎ですのに、一体誰の仕業なのでしょうか?

職員室と放送室の入り口には南京錠がかけられているのに、職員室のみ錠が壊

されており、放送室の錠は鍵で開けられていたのです。その鍵は職員室の壁にか

けられているのです。警察はこの点に着目し、鍵の置き場所を知っている学校職

員か卒業生で放送係をしたことのある人物ではないのかと捜査範囲を絞ったわけ

です。

公衆電話の使用料金は月額約2,3百円ですので大した痛手ではないのですが、

テープレコーダーは相当な金額で購入したものであり、今後の教育活動の推進に

支障をきたしますので本当に困ってしまいました。

校舎内の東端に居を構えていた校務補さんは、犯人の侵入に全然気づかなかった

ことを悔やんでいましたが、教室の窓は施錠していないため犯人は何所からでも

侵入することができたわけです。従って、学校側の危機管理意識にも問題が潜ん

でいたわけです。

この事件があってから、夜の校内巡視は気持ちが悪いということで妻子のある男

子教員は奥さん同伴で巡視することもあったのです。

果たして犯人を逮捕することができたのでしょうか?

                                        (つづく)

注釈〕 学校には一般的に日直・宿直(日直当番、宿直当番とも呼ばれていた)

制度がありました。日直職員の勤務内容は、①校内巡視、戸締り、施錠、電源管

理、火気の始末等学校管理に当たり、 異状を発見したときは適切な処置をするこ

と。②施錠時刻になったら、教職員の責任者がいない場合、児童生徒の居残りは一

切認めないこと。③勤務終了後学校管理当番日誌に状況を記入すること。

また、宿直は日直当番職員から引継ぎを受け、翌日の日直に引き継ぐ時間まで

の学校管理をまかされていたのです。従って、学校の宿直室に泊り夜の10時頃と

早朝に校内巡視を行うのが一般的でした。

しかし、小規模校で校地内に教員住宅がある場合は、宿直は夜の校内巡視のみ

に止めてもよいことになっていました。

宿日直勤務には手当がつき、日曜日全日と宿直は全日当であり、土曜日午後

勤務の日直と校内巡視のみの宿直は半日当が支給されていたのです。

なお、宿日直手当額は勤務1回につき500円程度(昭和43年頃)支給されたわけ

です。

約50年前の小規模学校の様子を書いています。いつも応援のクリックありがとうございます!》

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2009年5月25日 (月)

1人3役? 学芸会

全校5学級の学芸会。私は小規模校の学芸会を小樽祝津小学校6年生の時に経

験済みですが、教師という立場で学芸会に携わるのは初めてです。とに角、1人の

教師が音楽(歌・器楽)・劇・遊戯と三種目を教えなければなりません

音楽は普段から学芸会を意識して数か月前から練習します。ところが、劇と遊戯は

そうはいきません。夏休み期間中に札幌の本屋で劇の本を買い求め、単純で面白

く、しかも出演児童が15,6名の脚本を選んだのです。確か『ころころ地蔵』」という

劇と、遊戯は講習会で習ったものを行い、器楽合奏は教科書に載っていた「

(空も港も夜は晴れて・・・・の歌)なのです。

器楽で困ったことは、一番簡単そうな大太鼓の子が、慣れてくるとリズムが速くな

のことでした。指導に当たっては、どの子が休んでも誰かが代役を務めることが

できるように留意。指導時数は約12時間。当然、放課後に残しての練習です。

総練習の前日に舞台作りがあります。何故なら、体育館のない学校でしたので

1,2年の教室前方に即席ステージを作り、3年生との教室の仕切りを取り払って

観覧会場にするのです。高学年の机を何脚か並べ、その上に舞台用として保管し

てある板を敷きます。ガタガタする所は「小使いさん」(校務補、業務主事、用務員

などと呼ばれていた人)が薄く小さな板を挟んで微調整します。

学芸会も運動会同様、部落総出の観覧で、やはり午後3時近くまで続くのです。

お昼休みはたっぷり1時間とり、母親が作ったご馳走を家族や親戚の人達が歓談

しながら食べるのです。勿論、男衆は酒を飲みますが運動会とは違って静かです。

農協婦人会に所属しているお母さん達の演ずる舞踊もありましたので驚きました。

そしてプログセムの最後は恒例になっている「全校劇」です。1年生から6年生まで

各学年から2,3名ずつ選ばれた子が演ずるのですが、選出された親御さんは鼻

高々です。

慰労会は校長住宅で行われ、奥さんの手料理と焼酎です。酒に弱い私は、自転車

に乗って下宿まで帰らなければなりませんので、付き合い程度しか飲みません。

酒の席が9時過ぎまで続いたのですが、私は舞台係の1人でしたので、バックを張

ったり大道具のセッティクグなどで疲れていため一寸横になって休んでいる内に、

完全に寝込んでしまったのです。

とに角、運動会以上に疲れた初めての学芸会でした。

なお、孫の住んでいる埼玉県では学芸会というのが無いようですが、これは北海

道独特の学校行事なのでしょうか。情報を下されば幸いです。

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2009年5月24日 (日)

教員と夏休み 今・昔

新卒教員にとって初めての夏休みです。今でも一般の人達から「先生方は夏休み

があってよいですよね!」との声を聞きますが、実は私もそう思っていました。

しかし、残念ながらそうではなかったのです。

先ず、日直として夏休み期間中でも5日間出勤しなければなりません。また、子ども

達の生活指導と学習指導を兼ねて、教員がペアを組んで五つの部落巡りが2回。

全校の一斉登校日が1日なのです。ですから、結果的に年休を行使できるのは僅

か5日足らずというハードな夏休みです。

しかも部落めぐりでは、「紙芝居」をしたり「夏休み帳」を中心とした学習指導の個

別指導をするのです。私は3年生の担任ですから1~3年生を担当し、もう1人の

先生が4~6年を担当します。何せ、テレビを持っている家がクラス23名中、僅か

3名という時代でしたので、夏休み中、子どもは退屈しており紙芝居を楽しみにして

いたのです。

紙芝居を見ている子ども達の瞳はみんなきらきらしており、感動を素直にあらわす

子ども達でした。あの純真な子どもの瞳が懐かしいです。

注釈〕 教職員は教育公務員特例法第20条により「授業に支障のない限り、

本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。」ことになって

いるのです。このことに関わって、昭和46年に北海道教育委員会と北海道教職員

組合との間に協定書が結ばれ、夏季休業期間中に於ける校外研修(自宅研修)と

独身教員の帰省が認められ、居場所と研修内容の項目のみを校外研修処理簿に

記載さえすれば、自宅にいることができた時代が数年前まであったのです。

また、海外研修も教育委員会の承認を受ければ、長期休業期間中に行くことがで

きるのです。

私が残念に思うことは、長期休業期間に子ども達や保護者との交流活動を1度も

行わなく、本人のみが自由を謳歌している教員がいるという実態です。教職員の

意識変革を強く求める者の1人です。

なお、現在、長期休業中の日直は完全になくなっており、校長・教頭が勤務し学校

管理に当たっているのが実態です。昔とは随分違うことがお分かりいただけたと

思います。

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2009年5月23日 (土)

社会見学 大河を海と?

小規模校では社会見学を学年単独で実施することは困難です。何故なら、バス

代金の一人当たりの負担が大き過ぎるからです。従って、私が赴任した学校では

3年間に1度、1,2,3年生が合同で行い、2年毎に4,5年生、そして6年生の

修学旅行は毎年実施というふうに、変則的な実施計画だったのです。

さて、1~3年生は小樽水族館でした。自家用車がまだ普及していない時代(昭和

30年代)でしたので、海へ行くとなると大変な時間と経費がかかります。当時、水

稲の小作農家は一戸分3.5町歩か4町歩(4ha)でしたので豊かではありません。

ですから、今のように家族総出で行楽地などへレジャー旅行するという家庭は皆無

といっても過言ではありません。

学校もPTAも、子ども達に海を見せてあげたいという願望でした。貸切バスを借り

て63名の児童が、校長以下5名の教職員とPTA会長、副会長(女1名)、それに

校務補をまじえた8名の引率者によって出発しました。

バスは田園地帯を約30分進んで国道に出ました。数分後、1人の児童が突然大

きな声で「あゝ、海だ!海だ!」と叫んだのです。全児童が右側の車窓に近寄り、

口々に「海だsign01海だsign03」との叫び。

違うよ!あれは海ではないんだよ!海はもっともっと広く水も青い色をしているん

だよ。」と私が説明し納得させたのです。石狩川を見て海と勘違いした子ども達が

無性に哀れに思ったのです。

今、この子達は57,8歳になったわけですが、100年来の大不況を何とか乗り切

っていくことのできる精神力を持ち合わせた大人になっているような気がします。

注釈〕 平成30年代は北海道の国道はまだ舗装化が進んでおりませんし、高速

道路も整備されていませんでした。従って、見学旅行で小樽へ行くとなると、今より

約3倍の時間を費やしました。しかし、海を見た子ども達の感動は言葉に表すこと

のできないほどのものがあり、唱歌に出てくる「海は広いな大きいな・・・」の意味

やっとあの時の見学旅行で分ったとクラス会で語る教え子達でした。

現在、少子化にともなって学校の統廃合が進んでおり、小規模校は極めて少なく

なってきております。それらの学校の見学旅行や修学旅行は2~3校合同で行わ

れております。

また、北海道では平成22年度から中学校の修学旅行に飛行機を利用しても良い

ことになったそうです。随分世の中も変わったものだなあとつくづく思うのです。

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2009年5月22日 (金)

有線放送電話の利用

昔の田舎には”有線”とか”有線放送”と呼ばれていた定額型の地域内電話があ

りました。私が赴任した学校にも設置されており、30回線の1番です。農業共同組

合が運営しており全村一斉放送もできますし、指定した回線内にも一斉放送がで

き、緊急連絡には大変便利なものです。

例えば、豪雨による農道の冠水や吹雪による臨時休校措置や一斉下校、行事日

程の変更などの連絡には大変な威力を発揮します。

農協主催で「学校教育における有線放送の利用」について各学校代表の出席

のもとに、協議会が開かれ利用についての協力体制がとられていました。

学校に関係した放送としては、「学校だより」という番組があり、各学校のニュース

やトピックス、子どもの作文の朗読、学芸会の様子などを放送するのです。

また、「夏休み帳」「冬休み帳」の指導も、各学校に担当学年が割り当てられ、

15分間の指導内容を録音したテープを農協の有線放送本部に提出しなければな

らないのです。

僅か15分の放送ですが、指導内容・方法を決めるまでに数日を要します。そして、

いざ録音するためにマイクに向うと、誰も見ていないのに緊張して滑らかに話すこ

とができないわけです。結果的に何回も部分修正しますので可なりの時間を費や

します。と言う具合で学校側の負担が過重になりますが、便利さといえば電話以上

です。

しかし、弱点もあるのです。同じ回線内であれば受話器の前で盗み聞きすることが

できるのです。ですから、今の電話のようにプライバシーを守ることは難しいわけ

です。

電話名簿が各家庭にありますので、「○回線の○番さん」と電話交換手が呼び出す

と、知っている家の回線番号であれば、何かあったのかとつい聞きたくなるのです。

また、こんな事もありました。ある農家の納屋に米泥棒が入ったのです。軽トラック

に積んで逃げた車の音に気づいたご主人が有線放送本部に連絡しました。本部は

直ぐに一斉放送です。

緊急連絡します。緊急連絡します。只今、○線○号のAさん宅に米泥棒が入り、

軽トラックで逃げました。何か情報がありましたら至急本部へご連絡下さいsign01」と。

放送を聞いた殆どの農家は一斉に明かりをつけて、道路にライトが見えるかどう

か確かめ、関係部落の消防団や青年団が出動して、見事に犯人を逮捕したので

す。これも有線放送のお陰です。そう言えば、この田舎では戸締りをする家が一軒

も無かったのです。本当に平和な村でした。

なお、地域外と通話する一般電話は学校だけしか無かっため、部落の人達が村

外の親戚への連絡や、近くにある小さな店の主人が品物を注文するため学校の

電話を利用しておりました。

要するに学校の電話は公衆電話の働きをしていたわけです。なお、地域によって

は平成初期までこの有線放送を利用していたのです。

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2009年5月21日 (木)

朝刊が昼刊 田舎の学校

村の中心街と周辺の部落とでは生活に大きな違いがあります。中でも一番驚いた

ことは新聞です。

学校は駅から3.5kmキロメートル、役場から4kmあり、しかも車社会ではありま

せん。おまけに農家は300間(約540m)おきにポツリポツリと建っており、部落

全体の戸数も110軒程度でしたので、新聞配達の効率が悪いのです。ですから

配達員は農家兼業のアルバイトであり、昼過ぎに自転車で配達していたのです。

私の下宿は中心街にありましたので朝刊は朝に配達されますが、学校をはじめ教

員住宅や部落民は昼過ぎでなければ新聞を見ることができません。また、学校に

もテレビが入っていない時代でしたので、情報に疎くなっており「情報の田舎」とも

言える状態だったわけです。

校長はグランド脇にある公宅で昼食をとり(学校給食未実施の村でした)、学校へ

戻って来ると直ぐ新聞に目を通します。私達が5時間目の授業を終えて職員室へ

煙草を吸いに来ると、いつも新聞を広げながらこっくりこっくりとうたた寝をしてい

る校長の姿があったのです。

何事もない長閑(ノドカ)な学校の昼下がりの情景です。

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2009年5月20日 (水)

弟思いの 兄達

書き仕事の多い教員にとって、机は必需品です。しかし、新卒の安月給で下宿代を

払い、自転車の月賦もあります。ですから、机を買うことができませんでしたので布

団にうつ伏せになり、枕を胸に当てて字を書いていました。しばらくすると腰が痛く

なるのです。

何とかしなければならないと思っていた時、兄(次男)から座り机と小型茶だんす、レ

コードプレイヤー付きラジオとレコードアルバムが贈られてきました。凄く助かりまし

た (v^ー゜)ヤッタネ!!

これ等の品物は長男が次男にプレゼントし、そして、4男である私に贈られた

お下がりなのです。この座り机と茶だんすは結婚する際に下宿のお婆ちゃんから

そんな古い物、捨てちゃいな!嫁さんが立派な家具を持ってくるから!」と強く指

示するため、残念でしたが廃棄してしまったのです。

しかし、私の胸の中にはいつもその机と茶だんすが置かれているのです。

SPレコードの何枚かは今でも保存しています。ベサメムーチョなどのアルゼンチン

・タンゴや「マドンナの首飾り」などのアルバム。そしてドリスディーの「ケセラセラ」な

ども手元にあります。今は、通販などで多くのCDを買い求め聴いていますが、

思い出の曲を聴くと兄に対する感謝の念で胸が熱くなってくるのです。

困っている時や悩んでいる時に手を差し伸べてあげることの大切さを、この無い物

だらけの田舎村で、兄達や村人達の心温まる行為から感得したのです。助け合い

の精神はこのような体験を通してくつくつと醸成(ジョウセイ:酒などをかもしつくるよ

うに気分・機運をつくりだすこと)されていくものではないでしょうか。

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2009年5月19日 (火)

幽霊? 指導主事から質問攻め

農業繁忙休暇や運動会が終わり、校内に落ち着きが戻ってきた時期です。北海

道教育委員会○○教育局から指導主事(教育委員会が所管する学校における

教育課程、学習指導その他学校教育に関する専門的事項の指導に関する事務を

職務とする人)が、本校に訪問するとの連絡が入りました。

学校では学籍関係(指導要録、出席簿、転出・転入事務処理簿など)が正しく処理

されているか点検し始めました。私だけは、幽霊の指導要録作成です。何せ幽霊

ですから名前、生年月日、保護者名、続柄、住所、教科の成績(5段階評価)、学

習の様子、生活の様子などを書かなければなりません。

しかも3人の幽霊です。名前だけは1,2年の複式学級の担任が名づけてくれてい

ましたし、出席簿に使うゴム印も作られていたのです。私は平均的な人物を想定し

て勝手に書きました。

そして、いよいよ訪問日。学校全体に緊張感が走ります。

1時間目の授業中に校門から職員玄関へ向ってタクシーが来るのが見えます。

校長室がありませんから職員室に長机を用意し、学籍関係の書類が置いてあり

ます。小使いさん(用務員、校務補、業務主事などとも呼ばれている人)がお茶を

出すのです。

当日の指導主事の日程は学校側が設定。

・指導主事到着 ・職員室へ案内(校長) ・お茶を出す(小使いさん) ・職員への

挨拶 ・授業公開(各学年8分程度) ・午前授業で児童下校 ・昼食(校長住宅で)

・講評並びに指導助言、質疑  ・懇親会(教育委員会、PTA会長も招待)

さて、指導主事が指導要録を点検中に新卒の私に質問です。

「先生、松浦君の国語と算数の評価は何点ですか?どのようなお子さんですか?

住所は何所ですか?」と質問攻めです。私は、幽霊の評価は全て「3」にしていまし

たので即答できました。学習の様子についても「授業に集中できるが、発表力が

やや不足。」と一般的なことを書いていたのでセーフです。

しかし住所は何所か答えることができません。校長をはじめ先生方の顔が一瞬こ

わ張りました。私は「ここへ来たばかりですから住所はよく分りません。とに角、向こ

うの方ですsign02」と指さしながら答えました。指導主事は笑いながら

あゝ、そうですか?早く覚えて下さいねsign01」とのこと。ほっとしました。

今思うと、学校側も危機意識に乏しかったと思うのです。幽霊の在籍は何時の時

点からかを想定して、指導要録の学籍欄(氏名、保護者名、住所、生年月日などの

欄)は想定した当時の先生の字で書くべきであったし、在籍数や1,2年前の出席

簿との整合性を図るなど改ざんする必要があったのです。

恐らく指導主事は幽霊の存在を知っていて、「万が一会計検査院や道の監査の折

に不正が暴(アバ)かれないように注意せよ!」との警告の意味で質問したものと思

うのです。なぜなら3人の幽霊だけのことを聞き、他の児童については一切質問が

無かったのです。

なお、翌日の職員室では昨日の幽霊に対する私の答弁のことが話題となり、「向こ

うの方です」といったのが可笑しくて可笑しくてと言い、「よく機転がきいたね!」と褒

めてくれたのです。

注釈〕 指導主事の学校訪問について、北海道教職員組合(略:北教組)は依然

として反対闘争を展開しております。もし学校が要請するには「民主的討論に基

づいて」と言っていますが、この件に関して職員会議で討論しても職員の大多数が

反対を表明し、多数決の原理で決定するのが「民主的な手続き」であると組合員

が主張するのです。まして校長・教頭に対する指導助言で訪問するのであれば止

むを得ないとの姿勢を示すところもありますが、反対勢力の強い地域も多いのです。

私の赴任当時は北海道教育委員会から一方的に訪問の日時が示され、新聞に

各学校の訪問日が掲載されておりました。

今のように指導主事訪問拒否体制をとるようになったのは、「主任制度」の導入

からであったと思うのです。いずれにしても、学校内部で管理職と教職員間に対立

構造があることは「子どもの教育」にとって大きなマイナス要因です。

教職員が己のご都合主義で「権利主張」するのは問題です。子どもの教育が基

本です。

私は、学校現場の重要問題を公開の場で討議し、地域住民の参画する中で問題

解決するよう路線変更することが大切であると思うのです。組合員も大胆な発想と

組合本部の指令・指示によるトップダウンから、現場の先生方から組合本部の変

革を迫るボトムアップが重要であると思っているのです。

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2009年5月18日 (月)

組合員証って 何なの?

5月に入ってから「公立学校共済組合北海道支部」から『共済組合員証』が交付さ

れました。何に使うか分りませんが、総務係の先生から

「大切なものだから紛失しないように気をつけて下さいよsign01」とのこと。

農業繁忙休暇中に帰省した折、母に

「こんなもの貰ったけれど、これ、何に使うの?」と聞いたところ、

病気の時、病院へ持って行くと治療費が安く済むんだよsign01そうだねー。ヒロシ(仮

名)は病気や火傷をした時も病院へ行ったことが無かったもね!ごめんねsign03」と謝

るのです。

「あゝそうか!大切なものなんだね!今のところ元気だから使うことが無いけれど、

そのうち使わなければならない時も来るだろうね?なるべく使いたくないけれどsign01

と言うと、うなずく母だったのです。

私は、小学校時代に黄疸になったり、火傷を2回、高校時代はトラコーマーなどに

罹ったことがありました。しかし、母の指摘どおり1度も病院へ行ったこともなく、医

者に往診してもらったこともなかったのです。父が家庭教師をしていた医者から薬

を貰ってきて家庭療法一辺倒だったのです。ですから『共済組合員証』など見たこ

ともなかったのです。

幸いにも怪我や病気に罹っても大事にならないうちに完治してしまったのです。

強力な免疫力を持ち合わせていたのでしょうか。とに角、健康を維持してこれた

ことを感謝した私だったのです。

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2009年5月17日 (日)

運動会 酔った姿て指揮台へ

今日は運動会です。前日から部落毎に決められた場所にはさ木(刈り取った稲を

乾燥させる為の木)に使ったタモの木を組んでテントを張り、地面にはムシロやゴ

ザと座布団が敷かれています。年寄りのいる家では、馬車に祖父母を乗せてきま

すし、ご馳走などをリヤカーで運んで来る人もいます。

開会式が始まる時には、父母をはじめ地域の方々は全員集まっているのです。

近隣の親戚の方も応援に来ております。開会式の後は準備体操を兼ねてラジオ

体操第一です。競技に参加する地域の方々も参加します。指揮台の上には新卒

の私が立ち、模範的?な体操を示します。

種目の最初は徒競走です。応援の声が大きく響きます。随分威勢のよい応援だな

あと思いましたが、理由が分りました。既に焼酎を飲んでいたためです。部落対抗

リレーの時にはグランド全体が応援の輪に包まれるのです。

全校遊戯の番になりました。指揮台に登りホイスルで合図です。曲に合わせて演

舞する子ども達。無事終了すると会場から大きな拍手です。数秒して指揮台から降

りた私の所へ、コップに焼酎をいれた1人の男が

先生!上手くいったお祝いだ!一杯飲んでくれ!」と言うのです。私は

今、運動会の最中です。お昼休みに頂きますので勘弁して下さい!」と頭を下げ

ながら言いました。その様子を見ていた父母達は一斉に笑い出すのです。

ところが、お昼休みになり校長さんの奥さんが作ってくれたご馳走を食べていると、

コップ酒を持ってきたあの人が、一升ビンとコップを持ってきて酒をしつこく勧める

のです。その様子を見ていた校長が

先生、少しだけ頂きなさい!」と言うものですから、ほんの少しだけ口にしました。

しかし、驚いたことに数人の人が同じように酒を勧めるのです。私は、また少しだけ

口にしたのですが、だんだん顔がほてってきます。さあ大変です。午後の最初に

ラジオ体操第二を指揮台の上でしなければならないのです。トイレへ行ったついで

に鏡で顔を見ると、既に真っ赤になっているのです。

グランドに戻ると私の顔を見た子ども達は

先生、顔が真っ赤だよ!酒に弱いんだね!」と笑いながら言うのです。

いよいよ、午後の開始です。真っ赤な顔をした私は指揮台の上で体操です。

誰かが「先生、酔払って落ちるなよ!」と野次ると、近くにいた人達が一斉に笑うの

です。酒に強い父から、どうして私のような子ができたのかと一瞬、惨(ミジ)めな気

持ちになりました。

いずれにしても、運動会は盛会裏に終了。4時半から通し教室(2つの教室の仕切

りを取り外して使う教室)で行われた反省会(ご苦労さん会:宴会)で、

赤い顔でラジオ体操をした先生は、本校のこれまでの歴史で誰もいなかったが、

よく頑張ってやってくれたね!全校遊戯も良かったし新しい種目も楽しかったよ!」

とお褒めの言葉をいただき、酒を飲んだ不謹慎な態度を批判する人は誰もいなか

ったのです。

この出来事から、この地域の人達がますます好きになっていったのです。

なお、二次会は校長住宅で行われます。PTA役員や部落会長、青年団、消防分

団の役員さんと教職員です。夜中の1時近くまで飲み会が続くのです。中には、

酔っ払って校舎の中に寝込み、朝6時近くなってから帰る保護者もいたのです。

とに角、田舎の運動会は大変ですし、校長や奥さんの気遣いも大変なものがあり

ました。

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2009年5月16日 (土)

小規模校の運動会 午後3時半まで?

全校児童数が98名なのに、運動会は午後3:30までかかるとの話を聞いてびっく

り仰天。

各学年の徒競走は1組5人で走っても6組で終わり、時間も数分足らずです。運命

競争がその2倍の時間を要したとしてもたかがしれてます。紅白で競い合う団体競

技と全校紅白リレーと全校遊戯などの時間を計算しても、午前中で終了できる内

容なのです。

ところが、昨年度のプログラムを見て (ノ∀`) アチャー。 部落対抗の団体ゲームと

リレー、農協婦人会の運命競争と団体ゲーム、青年団の運命競争、そして消防

団の個人競技、幼童(学齢前の子ども)競争があるのです。まさに、地域上げての

体育大会と言っても過言ではありません。

しかし、それらの種目の考案や用具作全て学校側で行わなければならないの

です。教職員数の少ない学校であるにも関わらず、種目数は大規模校よりも多く

先生方の負担増は計り知れません。しかし、日頃より地域の方には何かとお世話

になっているものですから、文句を言うわけにはいきません。

学校では私が新卒であるので、斬新な種目を考え出すことができるであろうと期待

し、地域関係の種目全てを考案することになったのです。大変なことです。

運動会関係についての臨時職員会議で私から種目の内容と判定方法を説明し、

職員の了解をとった後に、部落や関係団体の役員を招集しての種目説明会の開

催です。

とに角、運動会一つ実施するのに、これほどの労力を費やすものとは思ってもいま

せんでした。しかし、運動会終了後の反省会で父母をはじめ地域の方々からお褒

めの言葉を頂戴したのでした。

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2009年5月15日 (金)

運動会の遊戯講習会

田植え後の6月上旬に運動会が開催されます。私は全校児童を対象に遊戯の指

導をすることになりました。遊戯指導は大学時代の「体育教材研究」や「小学体育」

でも習ったことはありません。悩んでいると先輩が、

心配ない!今に遊戯の講習会が開かれるからそこで覚えてくればいいんだよ!」

とのこと。

先輩の言う通り、数日して講習会の案内がきました。私は札幌市の大通小学校

会場で「丸岡遊戯研究会」?主催に参加することにしました。

受付で参加費とテキスト代を払い体育館へ行きました。

そこには近隣の市町村から100名近くの女教師が集まっていましたが、男教師は

数名足らずです。講師の丸岡先生は男。遊戯の指導者が男とは何だか変・・・・・。

はじめに基本的なステップの指導です。スキップ、ツーステップ、ギャロップ、マズル

カ・ステップ、ヒールタッチなどなどです。

次に運動会用の遊戯指導です。丸岡先生の助手を務める若葉みどりさんが、

受講生の端の方にいた私を指さして、

そちらの男の先生、一寸此方にいらしてくれませんか?」と促すのです。その後、

他の男の先生も呼ばれ、男二人、女二人で手を取り合い、右へ4歩、左へ4歩とい

う具合に、私達を生徒にしたてて遊戯の手順を指導し始めたのです。

私はみんなの前で女性の手を握ったのは小学校のフォークダンス以来です。

その私が美人でスタイルの良い女子の手を握ったものですから、顔が赤くなってい

くのを感じました。でも、浮かれているわけにはいきません。何か一つしっかり覚え

なければならないのです。

数種類の遊戯を習ったのですが、どれが指導し易く分り易いかで迷いました。でも

一番単純で直線的な動きと、「静と動」の変化そのものに集団美を求めて種目を

決めました。講習会終了後に私の選んだ種目のレコードを買い求めました。

帰りの汽車の中では、テキストにある私の選んだ種目を何回も何回も読みイメージ

化したわけです。そして下宿に戻ってから早速練習に取り掛かりました。先ず指導

者である私が、しっかり覚えておかなければ98名の全校児童を教えることができ

ません。

寝床に入っても念頭で練習です。凄いプレッシャーを感じました。この遊戯の指導

場面を、10数年前までは時々夢に見ることがあったのです。

注釈〕 私は丸岡遊戯講習会に連続12回参加しました。秋に学芸会(歌、器楽

演奏、遊戯、劇の発表会)で遊戯を教えることになっていましたから、1年間に2回

講習を受けるのです。10回受けると丸岡遊戯講習会の準会員ということで、参加

料が無料になるのです。ですから、ダンスについては結構見る目がある積もりです。

教育長時代に、「よさこにソーラン祭り」の審査員を仰せつかりもしました。

とに角、田舎での教職経験が、その後の教育に多大な影響を及ぼすとは、その当

時思ってもいませんでした。

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2009年5月14日 (木)

農業繁忙休暇

5月中頃です。水田地帯では代掻き(シロカキ:田植え前に田に水を入れてかきな

らすこと)作業が始まります。人馬一体となっての作業です。いよいよ田植え時

期の到来。学校ではPTA三役が打ち合わせに来ます。『農業繁忙休暇』(略:農繁

休暇)を何時から取ったらよいか学校側に情報提供するためです。

例年、1週間実施されます。この年は5月下旬に設定されました。

さて、いよいよ農繁休暇です。久しぶりの休暇に喜んだ私は、早速、実家のある小

樽へ帰省しました。僅か1月半くらいしか会っていなかったのに、母の喜びは一

入です。下宿が変わったことや風が強いが朝日・夕日の美しさは素晴しく地平線に

沈む太陽の大きさは水平線に沈む太陽と同じなどと1人でしゃべり続ける私でした。

夕飯に何を食べたいかとの母の問いに、すかさず魚と言ったのです。純農村に住

んでいたものですから、新鮮な魚はなかなか手に入らなかったのです。ですから、

下宿ではホッケの開きがよく食卓にのりました。

2泊して学校へ戻ると、先輩の先生が

農繁休暇は子ども達のためにあるのであって、教員の休暇ではないんだよsign01」と

教えてくれました。「他の先生方はどうして過ごすのですか?」と聞くと

クラスの児童の働きぶりを見たり、時にはお手伝いなどしに行っているんよ!」

とのこと。

私はこの助言に従って残り3日間、各児童の様子を見回ったのです。田植えをする

子、苗運びをする子、小昼(コビル:朝食と昼食の間にとる軽食~おやつ)を買いに

行く子など、それぞれが何らかのお手伝いをしている姿を見て、感心させられたの

です。

注釈〕 農繁休暇は「生業繁忙休暇」の一種で、農村や漁村で家庭の生業が忙

しく、子どもの手も借りたいときに、授業をしないで家業を手伝わせるための休暇

であり、法令で認められているのです。祭りで学校を休みにするのもこの生業繁忙

休暇の拡大解釈によるのです。

現在は授業時数を確保するため、生業繁忙休暇を取り入れる学校は皆無である

と思われます。私が最初に赴任した学校も1週間が3日間となり、やがて無くなっ

たのです。これは、人手に変わって機械を取り入れるようになっていったと言って

も過言ではありません。

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2009年5月13日 (水)

同窓会で歓迎会

私が赴任した村には小学校6校と中学2校(1校は小中併置校)がありました。

各学校の家庭訪問の終わった頃に、同窓会の歓迎会が開かれました。私の学校

は全校5学級であるにも関わらず、北師同窓会会員(札幌師範や学芸大学出身)

が3人で、E小学校が2名。中学校に5名、役場の教育委員会に1名。民間人1名

の計12名です。

ところが、一番大きい小学校には1人も同窓がおりません。不思議です。教職員

の異動の際に、校長が自分の同窓を部下職員として迎える傾向があったわけな

のです。いわゆる「同じ釜の飯を食った仲間」を集めようとする派閥人事が行われ

ていたのです。

派閥抗争は熾烈なものがあります。教育研究や職員団体の役員獲得も競争し合

っていたのです。

私とE小学校の校長のために開いてくれた歓迎会で、同窓会長が

歴史と伝統ある我が北師は、北海道の教育の先駆者であり、絶えず各方面で

リーダーとして活躍している。嬉しいことに、我が村も今回の人事異動で新鋭教員

が1名増強され、今後の活躍が期待される。どうか皆さん、一番星のようにきらっと

輝く存在になって欲しいsign01

との挨拶です。

教育界と派閥の関係は亡父から聞いていましたが、あまりにも極端すぎると感じ

ました。ですから、同窓会に睨(ニラ)まれたら大変なことになるのです。不意転

(突然不意に転出させられること)を食らうこともありますし、人事での要望事項が

適えられることが少なくなるわけです。何か狭い世界の話で情けないと思いました

が現実はそうだったのです。

       《とりとめのない内容を書き綴っていますが、

             いつも応援のクリックをいただせ心からお礼申し上げます》

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2009年5月12日 (火)

新しい下宿先 発見!

下宿探しの途中、またもやラーメン屋に立ち寄ると、女将さんが

先生!直ぐそこの踏み切りの傍のBさんの家へ行ってごらん!頼むと引き受けて

くれるかも知れないよ」と言うので、急いで訪ねました。

奇遇です。その家の奥さんは現PTA会長の妹であり、その甥(オイ)の担任が私だ

ったのです。Bさんは、

先生が下宿探しをしていることは知っていました。でも、私の家は2階があるとい

っても、屋根裏部屋で父さんの手作りなの。4畳半で窓も小さいですよ! それに

農繁期は実家へ手伝いに行くので、晩御飯は遅くなるし、たいした料理も出せない

よ!それでも良かったらきてもいいですよsign03」と快く引き受けてくれたのです。

助かりました。これでラーメン問題ともオサラバです。しかも駅まで数分であり通勤

も500以上近くなります。先輩も鉄道官舎(長屋)の隣に見つけることができ、私の

新しい下宿先の窓から見える位置なのです。

早速、日曜日にリヤカーを借りて引越しです。H先生と一緒の荷物運び。荷物とい

っても寝具一組と電気スタンド。それにこの地で買った自転車と雨具だけです。

H先生は私より座卓が一つ多い程度ですので1時間もしない中に引越し完了です。

昼食時にラーメン屋へ行き、お礼を述べると

「毎日ラーメンでなくて良かったね!」と喜んで下さったのです。

人情深い人達に支えられて、また新しい下宿生活がスタートしたのでした

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2009年5月11日 (月)

下宿の退去命令 夜間行動?

下宿生活3週間目のこと。5月の連休明けまでに下宿を出ていくようにとの退去命

令が出たことを同室のH先生から聞かされました。私は特に悪いことをした覚えが

ありません。家庭訪問期間中、毎日のように酔っ払って帰宅したからでしょうか・・。

これと言って、退去命令を受ける理由が見当たりません。

H先生からの話によると、下宿の奥さんは近くの季節制保育園の園長をしており、

田植えの始まる5月中頃から保育園を開園しなければならないわけです。

したがって、3人の下宿人のお世話をする時間的余裕がないとのこと。H先生もそ

のことを既に承知しており、昨年の11月から期間限定で下宿させてもらっていた

わけです。もう、どうすることもできません。

H先生の考えでは、2階建ての家を次から次へと訪れ、下宿させてくれないかと依

頼して歩くしか方法はないとのこと。2人一緒ではなく1人1人が探さなければ効率

が悪いということになり、夜間、2階建てで電灯の点いている家を一軒一軒尋ねま

わりました。

「ごめんください!私は○○小学校の教師ですが、下宿を探しているのです。お見

受けしたところお宅には2階がありますので、下宿させて下さいませんか?」と頼

むのです。5,6軒回っても全て拒否されます。

「何所か受け入れてくれそうな家はありませんか?」と尋ねても知らないと言い、

こんな田舎で下宿を探すのは大変ですね。学校で面倒をみてくれないのですか?

先生も大変ですね!力を落とさず頑張って下さいね!

と激励してくれる家もあったのです。

夜の7時過ぎから9時近くまで下宿探しをしたのですが、数日経っても見つかりませ

ん。それで思いついたのがラーメン屋です。

日曜日のお昼にラーメンを食べながら、店の女将さんに

「この街場で下宿人をおいてくれそうな家を知っておりませんか?」と聞いたのです

が「知らない」とのこと。「奥さん、すいませんがお宅で下宿させてくれませんか?」と

頼みました。直ぐ断られましたが私の再三に私の再三にわたるお願いに対して、

家に来ても晩ご飯はいつもラーメンですし、学校が休みの時はラーメンの出まい

に行ってもらうことになるのよ。それでも良かったらきてもいいよ!」とのこと。

この話を聞いて、いよいよ無くても寝る所だけは確保できたと先ず一安心。しかし、

教師が出まいするということは恐らく許されない行為でないかと思い、また夜な夜な

捜し求めたのです。

果たして、新しい下宿先が見つかるのしょうか?ヤレヤレ ┐(´(エ)`)┌クマッタネ

                                            (つづく)

20歳のときの体験を書いています。いつも応援のクリックありがとうございます》

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2009年5月10日 (日)

待望のジンギスカン 

田圃の真ん中に建つ学校へ来たのは、スカウトに来られた先輩H先生の「ジンギス

ン鍋で羊肉を腹一杯食べれる」との言葉に魅力を感じ、赴任すると即答したこと

を以前に書きましたが、いよいよそれが実現することになりました。

朝、下宿を出るとき奥さんに

今日、ジンギスカンを食べてきますので晩ご飯は宜しいですから!」と告げます。

何とジンギスカン屋は下宿から100メートル足らずの所にあったのです。

初め2人前を注文し鍋が熱くなるのを待ちました。脂肪の塊で鍋の表面をなで肉を

載せます。ジュージューという音がして美味しそうな匂いが漂います。モヤシを回り

に置き焼けるのを待っていると、H先輩が「もう食べ頃だよ!焼きすぎると硬くなり

味しさが半減するんだよ!」と教えてくれました。

とに角、初めて口にするジンギスカンです。美味しくてたまりません。

瞬く間に無くなり、また、2人前を注文。結果的に1人で2.5人前をペロリと食べて

しまい満足感で一杯でした。

注釈〕 私達が現在食べているジンギスカンはオーストラリアから輸入した冷凍も

のが中心です。しかし、私が初めて口にした当時(昭和34年)は、地元で育ててい

た羊を自分達で屠殺(トサツ:家畜などのけものを殺すこと)しますから美味しさも

格別です。我が家ではカレーライスに入れる肉は豚の細切れでしたし、一皿に2,

3個の肉が入っている程度でした。従って、肉を腹一杯食べるれるなどとは考えも

及ばなかったのです。

なお、部落で羊をつぶした(屠殺)ということで、生ラムを大きなボールに一杯貰うこ

とがありました。勿論、自分達で味付けするのです。それぞれの家では秘伝の味付

けがあるのですが、私達はりんごと生姜をすり、ねぎを入れ、醤油と少々の砂糖、

お酒で混ぜ合わせます。肉が新鮮ですので、刺身のように食べる人もいたのです。

焼き方はレアの方が柔らかく美味しいのです。

ジンギスカンは北海道を代表する食べ物の一つで、滝川市の「松尾ジンギスカン」

や長沼町の味付け生ラムがよく宣伝されております。

なお、文献によれば千葉県成田市(三里塚)が「ジンギスカン料理の発祥の地」と言

う説もあります。

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2009年5月 9日 (土)

新卒教員の 家庭訪問

家庭訪問週間になりました。児童数23名のクラスですから1日に4軒訪問すると

終わる予定でいました。ところがそれは見事に覆されてしまったのです。

理由は焼酎です。プリントで訪問予定日と時刻を連絡していたのですが、最初の家

からつまずいてしまいました。訪問先で焼酎を用意しているのです。家に上がる

と早速、用意していたコップに焼酎をなみなみと注ぐのです。酒に弱い私ですので、

「これから、まだ○軒行かなければなりませんので結構です」とお断りすると、

先生や!家の酒が飲めないと言うのか?この前、Sさんの所で飲んだというのじ

ゃないですか!次の家に連絡しておくから、今日は楽しく飲もうや!」としつっこく勧

めるのです。

やむを得ず少しずつ飲み始めました。お湯割りや水割りでないのです。おかずは

お煮付けと漬物。飲みながら父母の質問に答えたり、とりとめもない話をして退散

したのです。

ところが大変です。ふらふら状態ですので自転車に乗れません。自転車を押してい

くうちに胸が悪くなり用水路の脇で嘔吐です。喉がヒリヒリします。

やっと次の家に着きました。最悪です。またもや焼酎です。父親が無理に勧めると

傍にいた奥さんが、私の顔を見て可哀想に思ったのでしょう。

お父さん、そんなに無理して飲ませたら気の毒ですよ!先生辛そうよ!」と助け舟

を出してくれたのです。お陰でコップ三分の一位飲んで止めてしまいました。

このような調子でしたから思うように日程を消化することができず、悩んでいました

が地域には地域のしきたりなどがありますので、焦(アセ)らないことにしました。

結果的にはやや3週間かかりましたが、そのことに対して批判する保護者は1人

もいなく、若くて素直な教師との評判がたちました。

このことからも保護者の気質が分り、胸に飛び込んでいくと喜んでくれることも分っ

たのです。その後、陰に陽にお世話になっていくことになるのです。

なお、勤務時間中に酒を飲みしかも酔って家庭訪問すれば、今なら懲戒処分にな

るのですが、とに角、良い時代だったのです。

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2009年5月 8日 (金)

辞令が届く

就職難であるため、4月25日までに着任した教員は4月1日発令とするということを

教授から聞いていましたが、本当かどうか不安でした。しかし、4月10日前後に辞

令が届き安心しました。内容は極めて簡単なもの。

     北海道○○郡○○村公立学校教員に任命する。

     教育職給料表2等3号俸を給する

     北海道○○郡○○村立○○小学校教諭に補する

             昭和34年4月1日    北海道教育委員会

この辞令の発令月日によって次期昇給が変わるのです。4月1日発令で2等級3

号俸は次年度の10月1日に2等級4号俸になります。勤めて最初の昇給期間が

1年6ヶ月であり、その後は服務違反で戒告以上の懲戒処分を受けていなければ、

原則的に1年間で1号俸昇給するシステムです。

一般的に定期昇給は4月1日と10月1日ですが,戒告処分を受けると3ヶ月延伸

されるのです。そうすると、人事院勧告の実施日が10月1日であれば、年末手当

が1号俸上がらない給料で計算されますので大変な損失になるわけです。

なお、減給、停職の処分を受けると6ヶ月延伸ですので、その損失ははかり知れま

せん。

しかし、そういうことを知りつつも争議行為に参加して戒告処分を受ける身になって

いったのです。

注釈〕  私は最初の赴任地に6年間勤務しました。その時の給料を参考までに

紹介します。なぜなら、50年前のことなのでインターネットでなかなか調べることが

できません。何かのお役に立つのではないかと思ったからです。

34.4.1   2等級3号俸   10,000円→10,700円(人事院勧告による)  

35.10.1  2等級4号俸   11,500円→12,800円

36.10.1  2等級5号俸   13,800円→15,600円

37.10.1  2等級6号俸   16,500円→18,100円

38.10.1  2等級7号俸   19,100円→?

39.10.1  2等級8号俸   22,300円→25,470円

なお、年度によって人事院勧告以外に給料の不合理是正措置により、昇給期間を

3ヶ月短縮するなどの措置がとられました。

この時代は高度経済発展期であったため毎年のように給料が上がりましたが、

最近は人事院がマイナス勧告をし、更に平成21年度は国家公務員の夏季期末・

勤勉手当(ボーナス)の0.2ヵ月分を減額する勧告がなされました

これは世界同時不況の影響で、民間企業の支給予定額が大幅減の見通しとなっ

たことが理由とのこと。

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2009年5月 7日 (木)

雨具不備 下着もずぶ濡れ

自転車通勤で楽になり喜んでいたところ、困った問題が持ち上がりました。それは

雨降りの日です。雨まじりの強い風が吹くと、傘をさして自転車に乗ることは極めて

危険です。ですから、学生時代通学に使っていたバーバリーというコートを背広の

上に着て、学校まで行ったのですがズボンも下着もずぶ濡れです。

見るに見かねた同僚のK先生が公宅へ案内し、自分のズボンを貸してくれたので

す。しかし、下着のパンツまで借りることはできません。奥さんがタオルを用意してく

れ、それで拭くようにと促します。

K先生は「下着を一枚持ってきておきなさい!家で預かっておくからsign01」との温か

い言葉。その言葉を聞いて胸に込み上げてくるものがありました。本当に助かり

ました。

そのようなことを数回繰り返していたところ、H先生が雨合羽を買うよう勧めてく

れました。二十歳まで雨合羽というものを利用したことがなかったのです。

小樽の祝津町の漁師が腰長のものやフードの付いたゴム合羽を着ている姿は見

ていたのですが、特定の職業の人しか着用しないものと思っていたのです。

都会育ちは困ったものです。雨具は必需品であることの認識がなかったため、赴

任してくる時に用意してこなかったのです。小樽なら大きなゴム会社が二つもあり、

サイズも揃っていて簡単に買い求めることができたのでが、そこまで知恵がまわら

なかったのです。

とに角、この地に来て初めて雨合羽を買い、K先生のズボンを借りる必要がなくな

ったのです。慣れない地の1ヶ月はこのように戸惑いの多い生活でした。

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2009年5月 6日 (水)

自転車購入 月賦で

下宿から学校まで約4キロ。着任から1週間は徒歩で通勤したのですが、朝7時に

家を出るとなると大変です。それで先輩のH先生の斡旋で自転車を購入することに

したのです。値段は6,800円。初任給が約9,000円。手取りが約8,000円。

下宿代が4,000円。たばこ代が約900円(しんせいが30円/箱)です。

ですから月賦でなければ買うことができません。交渉の結果、5月は1,800円で

後は月1,000円ずつの6回払いとすることにしました。やっと自分専用の自転車

を自分の稼ぎで買うことができたのです。

お陰様でその後の通勤時間が4分の1に短縮することができましたし、家庭訪問も

歩かずに済みます。

新品の自転車にまたがって、どこまでも続く一本道を夕日に向ってサイクリングした

り、校下をいろいろと回ってみました。その結果、通学距離の広さに驚いたわけです。

注釈〕 私が新卒教員として赴任した学校は、公共施設である役場や駅から約4

キロメートルあり、国鉄バスの本数も少ないのです。ですから、北海道教育委員会

に申請すれば僻地1級の認定を受けられる学校だったのです。しかし、申請書を提

出した当時の校長(25年間特認校長として勤務)が僻地の校長と呼ばれることを

嫌って正しく申請しなかったとのこと。

また、この校長はグランドで牛を飼っていたことで有名になっていた人物でした。

ところが、隣の学校は本校より便利で、農協の支所で生鮮食品も売っており、郵便

局、魚屋、バス停も学校の傍にあったのですが、僻地1級だったのです。

この学校は所在地の役場を基準として学校までの距離を書くところを、国鉄バスの

終点である札幌市からの距離を書いたとのこと。嘘か本当かよく分りませんが、誰

の目から見ても矛盾していることは明白なのです。

なお、僻地1級となると僻地手当が8%つき、そこに3年間勤務していると給料が

1号俸上がるという特権があったのです。

なお、自家用車を持っている教員は誰一人としていない時代(昭和34年頃)でした

し、駅前に農業兼タクシー会社を経営しているところがありましたが、車は1台のみ

であり、農家以外の村人が急病人の搬送ぐらいしか利用しなかったようです。

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2009年5月 5日 (火)

両陛下ご成婚を カモ鍋で祝う

1959年(昭和34)4月10日。新卒教員として着任後4日目。教え子の父親Sさんが

ミッチー(皇后陛下)の結婚式を我が家で祝おうhappy01 俺が獲ってきた鴨があるから

鍋にして、つっつきながら酒でも飲もう!家内も待っているから絶対に来てくれよ

」と私の歓迎会の折にお誘いしてくれました。

たまたま同室のH先生もSさんの長女の担任だったので、二人でお邪魔することに

なりました。訪ねた時には既にカモ鍋の食材がテーブルに置かれています。プロパ

ンにすき焼き鍋をのせ奥さんが手際よく作るのです。

コップに焼酎が注がれました。生まれて初めてカモ肉を口にしました。実に美味し

いのです。酒に弱い私は飲むよりも食べる方に夢中です。

その内にテレビで天皇・皇后両陛下馬車パレードの様子が実況です。沿道に

群がる大観衆。皇太子であった天皇陛下が美智子妃殿下のドレスの裾を直してや

る姿が映ると、Sさんが大きな声で「いいぞ!いいぞ!」と声援を送るのです。

私達はテレビの画面に釘付けです。放送が終わったときSさんが

「良い時代になったよなーsign01戦争当時なら・・・・・・・。」と、いつしか戦地の体験談

に移っていったのです。

その内容はこうです。

□中国に侵攻している時の出来事である。

□或る部落で食料を調達している時、反抗してきた男の1人を後ろ手に縛りつけ、

 上官の前に引き出した。

□上官は度胸だめしをすると言い、二等兵の1人にこのチャンコロ(中国人を軽蔑

 していう言葉)の首をはねれと命令した。

□尻込みしている二等兵は、何回も催促され、銃剣(小銃の先につける短剣)で刺

 しに行った。しかし、恐ろしさのあまり目を瞑ったため、顔面を刺し、血がほとば

 しった。

□チャンコロはもがき苦しんでおり、上官は二等兵を殴り

 「貴様!それでも日本兵か!」と恐ろしい剣幕。

□上官は私に「首をはねて来い!」と命令した。私は苦しんでいるチャンコロを見

 るに見かねて軍刀(軍人が戦闘用に持つ刀)ではねてやった。

□これが私が人を殺した初めての体験であり、今でもその時の様子が夢に出てく

 る。戦争は人間を人間でなくしてしまうものだ。その時の私は獣になっていた。

□平和な時代になって本当に嬉しい。「平和に乾杯!ミッチーにも乾杯!」と涙ぐ

 んで乾杯する。

新卒教員にとってはあまりにも強烈な話です。戦争中における人間の残忍な行為

は本で読んだことがありましたが、直接人間を惨殺した本人から生々しい体験談

を聞いたものですから、得体の知れない悲しみと恐ろしさが伝わってきたのです。

純農村で素朴な人達の中に、このような辛く衝撃的な体験をした人もいるのだとい

うことを知り、のどかで何事も無かったような生き方をしている人達ではあるが、人

それぞれ精神的に大きな荷物を背負って生きているのだなあーと強と感じたわけ

です。

なお、この訪問を契機にSさんのご両親とは、何事も腹を割って話すことができる

間柄になりました。ですから、子どもの躾や勉強のあり方などについても心を開い

て、ざっくばらんに話せるようになっていったのです。

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2009年5月 4日 (月)

3人の幽霊出現?

着任した次の日のことです。出席調べをしていたら三人の児童が欠席です。

何で休んだのか聞いたのですが誰も分りません。その内に1人の児童が

「先生、二年生までそんな人いなかったよ!」モヒャ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!

実在しない児童が三人も在籍していることになっていたのです。

まさしく幽霊なのでーす。

どうしてこのようなことが起きたのでしょうか?それは学級編成基準によるのです。

昭和33年に「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する

法律」が制定され34年度から実施です。当時の学級編制の具体的な数は忘

れましたが、3名の幽霊を在籍させることにより、複式学級から単式学級

と移行することができたわけです。このことは小規模学校にとって切実な問題であ

るため、教育委員会ぐるみで不正が行われていた実態が全国的にあったわけで

す。

現在は編制基準が随分緩和され1学年の場合は1人いれば1学級編制なのです。

即ち1人の児童を1人の先生が教えるということなのです。

いずれにしても、不正が見つからないように机・椅子・雨具掛け、指導要録(シドウ

ヨウロク:児童・生徒の学籍並びに指導の過程及び結果の要約を記録し、その後

の指導及び外部に対する証明等に役立たせるための原簿となるもの)も、あたかも

在籍しているようにカモフラジューしなければならないのです。

もし、関係部局の調査でも入ったら大変です。しかも、幽霊児童は私のクラスだけ

におかれていたのです。そのようなカラクリになっているとは予想もしていなかっ

たのですpout。しかし、後日、この件に関して危機的場面に遭遇することになった

のです アブネ━━Σ(゚д゚;)━━!!。

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2009年5月 3日 (日)

新卒教員としての 第一日目

昭和34年4月6日、着任式の日です。田舎の学校は始業時刻が早く8:15で、職

員出勤は8:00です。下宿から学校まで約4キロですので、7時に家をでることに

しました。同僚の先生は自転車ですが、私に付き合って歩いて下さいました。私が

事前視察で通った道ではなく、幹線道路を教えてくれたのです。

学校の近くへ来ると登校してくる児童達が元気に挨拶してくれ、その後こそこそと話

しているのです。新しい先生を迎えることを父母や先生方から聞いていたから関心

があるのです。

いよいよ着任式です。驚いたことに体育館がありません。職員玄関と廊下がTの

字になっているスペースを上手に利用して、全校生徒98名が整然と並んでいま

す。校長の紹介と歓迎の挨拶の後、私の挨拶です。

朝、明るい声で挨拶してくれた子ども達に囲まれて、皆と勉強したり遊ぶことができ

ると思うと、大変嬉しいです。田んぼのある地域に住むのは初めてですが、早くこ

の地に慣れるよう頑張りますので、皆さんもいろいろと教えて下さい。というような

内容の挨拶をしたのです。

校長の案内で3年生の教室に入りました。教室には23名の児童が着席しており

ました。校長が戻られた後、子ども達に自己紹介をしてもらいました。ある子が僕

は本家の○○ですというのです。本家、分家という言葉を初めて聞き戸惑ったので

す。そして、座席換えをすることにしました。なぜなら、二人ずつ並んで座っている

列が二列。そして、何故か3列目に女の子が只1人だけ座っているのです。

どうしてこの子だけが1人なのか聞いても、誰も答えてくれません。理由を確かめも

しないで座席換えをしたのです。何だか皆の表情が暗くなったような気がしました。

1時間目は国語で詩です。「カンコン カンコン 鐘が鳴る 時計台の 鐘が鳴る

・・・・・。」と一斉に音読し、暗唱するよう課題を出し、できた人から発表です。・・・・。

2時間目は算数。「大きな数」で万の単位について知る学習です。

そし3時間目です。「春の小川」の歌唱指導です。音楽室は職員室の隣にあり教材

室と兼用なのです。職員室とは半紙版のガラスの入った引き戸で仕切られています

ので、私の声も聞こえるのです。

はじめに「春の小川」の全曲を簡易伴奏をつけて弾きました。ピアノの旋律が廊下

に流れて行きます。1小節ずつ歌唱指導し全員で斉唱して授業が終わりました。

僅か5分のトイレタイムにも関わらず、全員の教員が職員室へ来るなり、

「○○先生、ピアノが弾けるのですね!これで交換授業(不得意な教科を他の担

任に変わってしてもらうこと)をしなくて済むな!」とのこと。

音楽に関しては随分関心が高いことを知りました。しかし、校長や他の教職員に褒

められ嬉しかったことを思い出すのです。

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2009年5月 2日 (土)

新卒教員 田舎に赴任

昭和34年4月5日。私をスカウトに来られた同僚の教員に案内されて下宿先に到

着。2階には6畳が2部屋。その一室をで過ごすのです。

布団二つ敷くとスペースはほんの僅か。先輩の小さな折りたたみの式テーブルが

窓側にあり、隣の座敷との境は障子なのです。しかし、隣人も教員でしたので気が

ねがありません。

この下宿の主人は村役場に勤めており、奥さんは農繁期に開園される季節制保

育園の園長さんなのです。5,6歳の男の子が二人おり、円満そうな家庭の雰囲気

が伝わってきます。

初めての夕飯。7人が食卓テーブルを囲み和やかです。今朝までの我が家と同じ

人数でしたので特別違和感はありません。ご主人が私の歓迎パーティーということ

でウイスキーで乾杯です。

夕飯が済んでしばらくすると、お風呂が用意されており奥さんの細かな気の遣いよ

うが分りました。同僚と二人して内風呂に入り背中を流しあいました。急に親近感

が湧き先輩に対する感謝の念で一杯になりました。

こうして最初の赴任地の第一日目は無事に終了し、明日からの勤務に対する夢と

希望と不安が交差する中、いつしか眠りに入った私でした。

〔注釈〕 北海道の各市町村教育委員会では教員住宅を用意しておりましたが、

絶対数が不足していたため、昭和60年代までは「住宅選考委員会」という組織

を市町村ごとに作り、点数制によって入居を決めていました。

しかし、自家用車の普及と居住手当・通勤手当の支給、通勤時間片道1時間以内

の人事異動という方針が出されているため、利便地である都市部に居住する教

職員が急増しました。従って、各自治体の教員住宅は閑古鳥が鳴いているという

状況にあるのです。僅か30年間で住環境が激変したと言えます。

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2009年5月 1日 (金)

新卒教員への歓迎会

春休み期間中のことです。着任前にも関わらず私の歓迎会PTA主催で開催して

くれました。母が校長への挨拶を兼ねて同伴してくれると良いのですが、関節リュー

マチを患っていましたので、田舎道を40分程度歩くのは無理です。従って、教員を

していた兄が同伴してくれました。

歓迎会は6時?でしたので、一端校長宅へ挨拶に伺い今後の日程のなどを打合。

時間がきたので校長の案内で歓迎会会場(教室)へ移動しました。既に部落の

人達が殆ど集まっています。

冒頭、PTA会長の挨拶。はるばる小樽からこんな田舎へよく来てくれた。PTA会員

は児童のいない家庭も準会員になっていますので112軒の人達です。○○小学校

が開校以来初めて三年生以上が単式学級となる画期的なことなのです。

これまで複式学級が多かったため、中心校の□□小学校に遅れをとっているので

はないかと大変心配していたが、これで安心できます。地域は村の中で一番まとま

りがあり学校への協力体制も抜群ですので活躍のほど宜しく願いしますとのこと。

続いて、校長からの歓迎の挨拶です。○○先生は学芸大学札幌分校を出られ、

教員採用試験も素晴しい成績だったので自慢できる人物です。既に○○市に内定

していたのですが、本校へくるようスカウトした結果、それに応じてくれたのです。

(._.)アリガト・・・・・・・・・・・・・・・・。

続いて私の謝辞。このように教育熱心な方々の居られる学校から教員のスタート

をきれたことを大変嬉しく思う。皆さんの期待に応えるべく努力をしてまいるので、

何卒宜しくお願いしますと決意を表明したのです。

も一言お願いしますと促され、弟が皆さんに暖かく迎えられ幸せ者である。しか

しまだ未熟者なのでご指導ご鞭撻の程を宜しくお願いしますと謝辞を述べてくれ

たのです。それを聞いていた私は、早く私も兄のような立派な挨拶のできる教師に

ならなければと思ったのです。

和やかな内に歓迎会が終了し、その晩は校長宅に泊まることになりました。奥さん

がすき焼きをして歓迎してくれたのです。

翌日、校長一家に見送られ帰路に着いたのですが、道すがらのどかな田園風景を

眺めながら、素晴しい地域に赴任できることを兄弟して喜びあったのです

《次回から教員生活について綴っていきます。応援のクリックを宜しくお願いします》

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