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2009年6月26日 (金)

親への仕送り

教員になって3年目を迎えた3月に母から手紙がきました。内容は妹のM子が私

立高等学校に進学することになったので、学費を仕送りして欲しいとのことでした。

父が亡くなった(43歳)後の我が家の家計は兄達が支えてくれていました。しかも、

私を高校、大学へ進学させてくれたのも兄達のお陰なのです。ですから私も当然、

妹の学費の一部を送金しなければならないのです。家族皆の協力がなければ10

人兄姉妹(妹:1歳で肺炎で死去)の我が家は崩壊してしまいます。

さて、送金額が問題です。当時(昭和36年4月)の本俸は月額12,800円(2等

級4号俸)です。所得税や共済組合の長期・短期掛金を差し引くと10,000円

程度。食費、光熱費、新聞代、煙草代などで5,000円はかかります。それで仕送

りを3,000円と決め送金しました。

この送金は妹の高校卒業まで続けました。当時の我が家の様子を直ぐ下の妹

が次のように記してくれましたので一部紹介します。

<妹の私記>

我が家の生活が良くなってきたのは、アポチャン(私のあだ名)が就職して送金が

始まったからです。M子の学費はアポチャンの送金が当たられておりました。

母は洋裁ができたので、大家族でも私共の高校の制服は母が縫って下さり、小さ

い頃から全部縫って着せて、見苦しい身なりになった事はありませんでした。

それがM子にだけデパートで制服を買い与えたのです。こんなことは今迄の我が

家では考えられないことだったのです。おまけにバスや汽車で通学させ、ソロバン

塾にも行かせました。きっとゆとりが出来、ほっとしたのでしょうね。

私はソロバンを部活で練習し1級を取り、それと同時にアルバイトにソロバンを教え

ていました。末の妹の友達や近所の人達で10人位集まって1週間に5日です。

妹は上達が早く小学3年生で2級を取ったと思います。教室は1年半位開いてお

りました。

私のアルバイトの使い道は、授業料だけは母が払ってくれるので、ソロバン部の外

に生花の方もしておりましたのでその花代、学校でスキーがある時のスキーの借り

代(学校で用意してありました)。雨の日のバス代。タンスが壊れておりましたの

でタンスも買い、妹や友達と2ヶ月に一度位、近くの手宮館で映画を観に行けるよう

になりました。母は映画を観に行くと不良と言ってブツブツと機嫌が悪いのです。

でもまだ、高校の修学旅行に行ける程にはなっておりませんでした。

1クラス(50人位)に5人ほど行けない人がおり、行けない人ばかりを集めて一教室

にし35人位になり、午前中は自習しておりました。でも、いつも一緒に通学していた

友人もおりましたので、悲観することはありませんでした。

注釈〕 我が家では父が苦学をしてきたため、その姿勢が兄達に求められおりま

した。私や妹達も兄達の後姿で育ったことと、父が早くに逝ってしまったので、やは

り私達と同じように中学、高校時代からアルバイトをしていたのです。しかし、

高校生2年生がソロバン塾を開設するとは考えてもいませんでした。

私の記憶では、確か1人1月300円の月謝を取っていたと思うのですが、10人分

の月謝は新卒教員の月給の約三分の一に相当するものですから、結構な額だっ

たのです。

今は生活保護などの社会保障が充実しておりますが、昭和三十年代の話ですから

まだ、そのような社会保障制度がなかったわけです。

いずれにしても、兄弟姉妹が協力しあう姿勢がどの家にもあったように認識してお

ります。それに比して現在の家庭はどうかと問えば、課題山積の感を強く抱くわけ

です。昔は「貧しいながらも楽しい我が家」があったと思うのです。

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