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2009年7月

2009年7月31日 (金)

子どもの夜遊びを防ぐには ①

教育長になってからのことです。北海道警察署A管内における深夜徘徊と18歳

未満の青少年の非行件数を見て驚きました。本町は管内で1,2番に人口の多

い市の次に多いのです。この実態は学校関係者や保護者も知らなかったのです。

青少年の健全育成には、先ず実態を知る必要があるとの考えから、教育委員会

が事務局となって夜間パトロールを年間3回(夏の期間)実施することにしました。

青少年育成会、防犯協会、PTA、校長会、教頭会、各学校の生活指導部、警察署

に呼びかけ、代表者1名を選出していただき班編制をしました。

巡視時間は午後9時から10時まで。その後、巡視結果の報告会の開催。

その結果、子ども達がタムロする場所はコンビニ近くの公園が圧倒的に多く、その

他人通りの少ない広場や学校のグランド、公共の野外施設(球場のダグアウト)

などが多かったのです。

補導された子ども達は、高校生が一番多く次に中学生でした。関係機関は子ども

達や保護者、地域住民に報告し、深夜徘徊と非行との関係について啓発に努め、

各機関が取り組める範囲内で巡視・補導する態勢をとったのです。

さて、その成果ですが、警察署の統計によれば、当初A管内でワースト3に入って

いたのですが、毎年漸次(ゼンジ)減少し5、6年後には深夜徘徊に伴う非行・補

導数が激減し警察署でも驚くほどの成果を収めたのです。

住民が身近な青少年問題に関心を示し、小さな実践をすることが青少年の健全育

成に結びつくことになるということが分ったのです。

では、その他にどのような方法があるのでしょうか?

                                           (つづく)

《今は夏休み最中です。青少年の深夜徘徊と非行が気にかかります。

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2009年7月30日 (木)

逆境に勝る教育なし

夏休み前の職員会議で、プール利用についてが議題の一つとして取り上げられま

した。本町にはプールが一つしかありません。しかも屋外プールで屋根なしです。

このプールの利用に関して、保護者からの次のような要望が上がっていたのです。

子ども達が折角プールに行ったのに、今日は気温も水温も低いので利用できま

せん、とプールのおじさんに言われて戻ってきたことがあるのです。わざわざ20分

かけて歩いていったのに、泳げない日だったとは、子どもが可哀相です。学校で

とか善処してもらえませんか。」とのこと。

何せ、一般家庭にまだ電話が普及していない時代(昭和40年)でしたので、子ども

達がプールの管理事務所に電話を掛けることはなかったのです。ですから何とか

子ども達に便宜を図ってやろうとの声に押されて、その方法について論議すること

になったのです。そして、まとまりかけたその方法は、

■ 日直(休暇中や日曜日に出勤し来客や問い合わせ、安全管理に当たる仕事を

すること)の先生が8時に出勤し、10時までの間にプールの管理事務所に電話

絡をし、利用の可否を聞いて、もし利用できるのであれば青旗を、利用できない

合は赤旗国旗掲揚塔に掲げること。そうすることによって、子ども達がわざわ

プールまで行かなくても、学校の旗を見て行動することになるから効果的ではな

か、と言う結論なのです。

司会の先生が「この方法で異議はございませんね?」と確認。全教職員が賛成と

声を上げましたその時です。「ちょっと待って下さい!」と私が大きな声を出したので

す。全職員が何事かと言わんばかりに一斉に私の方を見ました。

「早く発言すればよかったのですが、何か変だと思いましたので言わせて下さい。

私は小樽市出身で小学校1年から5年生まで、1週間に2回ほど海水浴に行きまし

た。片道約1時間かかるのです。ところが波が高かったり水温が低すぎて泳がずに

帰ってきたこともありました。行く前に近所の上級生が、今日は風が冷たいし雲が

出ているから、海に行っても泳げないかもしれないな!と予想して行った時は、

ほとんど泳げなかったのです。

小学校6年からは水族館のある祝津町へ転校したのですが、子ども達は空模様や

遠くの岩場の波の状態を見て、灯台の裏側は白波が立って泳げないぞと予想す

るのです。私は本当にそうなのかどうか確かめたくて、約20分ほど歩いて行って

見ると、友達の指摘の通りなのです。

このことから、私は空模様や風の強さなどから海水浴に適しているかどうかを自分

で判断する力が備わったわけです。

本校では、主体的な子どもの育成を重点に掲げておりますが、家庭や学校が子

どもに良かれと思って、何でも手取り足取り、至れり尽くせりの教育をしていって

いいものかどうか疑問に思うのです。私は、子ども達が失敗経験を通しながら主

体的なものの見方や考え方が培われると思うのです。皆さん如何ですか?」

ところが、私の発言が終わるや否や校長が、「うーん!先生の言う通りだ!私も間

違いを犯すところだった!」と言い、生活部長も「私も先生の考えに賛成します」と

言ったものですから、他の職員も私の主張に賛同してくれたのです。

子どもに苦労させないことが子どもの幸せに通ずる」との考えを持っている大

が多いように思うのですが、「逆境に勝る教育なし」(ディズレーリ:イギリスの政

治家、小説家)の言葉を噛み締めたいものです。

私は、「苦」ぬきの教育は「楽あれば苦あり」につながること体験的・実践的に

学んだ者の1人なのです。

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2009年7月29日 (水)

学校で軍隊教育?それとも北朝鮮の真似? 

20分のロングタンム終了のチャイムが鳴っています。しかし、遊びを止めて教室へ

入ろうとする子ども達が殆どおりません。5分後に再びチャイムが鳴ります。この

合図は授業開始なのです。しかし、本校の実態は、チャイムの合図で教室へ入り

学習の準備をしている子どもは殆どおりません。しかし、担任の中には、子どもと

共に遊びチャイムの合図がなり終わるとホイスルを吹き、自分のクラスの子ども達

を整列させ玄関まで誘導するのです。

このように学習への構えが学級によって随分差が出ているのです。そこで、このよ

うな実態を改善するために生活指導部で話合いが持たれました。いろいろ議論し

た結果、次のような行動をとるよう指導することにしたのです。

① 遊びに出る前には必ずトイレで用を済ませる。

② チャイムが鳴ったらその場に立ち、鳴り終わるまで静止している。

③ チャイムが鳴り終わったら、学級の体育委員が掲げる学級旗のもとに駆け足で

  集合する。

④ 体育委員の号令で整列し、整列が終わった順に校内に入る。

このような行動パターンを定着させるために、2週間の指導強調週間を設け全職

員がグランドに出て指導することになったのです。そして、5分以内に校舎に入れ

た学級に赤の布テープを渡します。体育委員が学級旗にその赤テープを結びつけ

教室の入口に掲げておくのです。

教育とは恐ろしいものです。僅か2週間にも関わらず殆どの学級にこの行動パタ

ーンが定着したのです。

なおこの実践は、当時、恵庭市(千歳市の隣)の島松小学校の実践に学んだので

す。この学校は昭和40年から47年度まで毎年継続して公開研究会を開催した

学校であり、その実践がNHKラジオの第2放送で時々取り上げられるほどの

先駆的な実践校だったのです。

島松小では全校集会の時に、学級旗を持った学級委員の下に、クラス全員が整列

して体育館へ入退場していたのです。担任は子ども達の後からついて行くだけで

十分なのです。まるで戦時中の軍事教育(兵隊さんへの教育)に間違われそうな

集団行動に近いのでが、子ども達の自主性・主体性を育てる一場面なのです。

学校を変えるということは、誰にでも分る具体的な行動目標を先ず掲げ、全職員

がその目標達成に向けて取り組める態勢をとることが大切と思うのです。しかも、

どのような状態になった時に目標が達成されたかという評価基準が明確でなけれ

ばならないわけです。

学校現場では学級間の競い合いが行われます。学級間で順位を付けるのではな

く、設定した一定の基準に到達しているかどうかという観点で評価し、子ども達の

変容を皆で確かめ合い、喜び合う仲間づくりが大切なように思うのです。

私は、チャイムの合図で行動するという実践の取組みを通して、学校づくり、学年

づくり、学級づくりの基本的なことを学んだような気がするのです。

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2009年7月28日 (火)

ランドセルで 脊柱側湾症?

PTA総会でのある会員の要望事項です。

「最近、脊柱側湾症の子どもが増加しているとの記事を目にします。これはランドセ

ルを背負うことによって成長ざかりの子ども達に現れた身体的な障害であると考え

られます。従って、教室にお道具箱を設置し、子ども達が教科書等を持ち歩きしない

で教室保管が望ましいと思われます。先進校ではそのような措置をしているそうです。

どうぞ本校でも1、2年生の子どもに対してそのような設置をして下さるよう強く要望

致します。」

答弁に立った事務局長の教頭が、

「早急に調査・検討してまいりますので今しばらくお待ち願いたいと存じます」と言っ

たのです。

さあ大変です。今のようにインターネトのない時代(昭和40年)ですので、どのよう

に調べたらいいかも分りません。結果的に私に大学へ行って情報収集をしてくれな

いかとのことです。しかし頼まれた私も困りました。仕方がないので保健体育の教

官に手紙を出したのです。

数週間して回答が寄せられました。それによると、日本保健体育学会医学学

へ問い合わせた結果、ランドセルと脊柱側湾症との関係についての学術論文

見当たらない。但し、ランドセルを背負っていたため交通事故に遭遇した際に、そ

れがクッションとなって命を救われた事例は数多くあるとのことでした。

この教授の回答を下に職員会議で検討した結果、従来通りの体制でいくという結

論を得、そのことを学校便りに掲載し保護者の不安解消に努めたのです。

なお、脊柱側湾症の中で一番患者の多いのは特発性側湾であり、現在の医学

でも原因が分らないようです。詳しくはインターネットで検索するとよいでしょう。

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2009年7月27日 (月)

会議の多さと 教員の能力差に驚く

新年度が始まってまもなく、校内でいろいろな会議がもたれました。

校務分掌部会と称して教務部会、生活部会、保健体育部会があり、教科部会

(A部会:国、社、算、理 B部会:音、図、体、家)もあるのです。これらの部会は

月初めに開催され、その月の職員会議に提案する運営事項を協議するのです。

また、学年部会(各教科の指導内容と実践状況の確認、学年行事、生活指導内容

と留意点などの協議)が毎週開催されるわけです。

1学年1学級の場合はそのような組織が必要ではなく、殆どのことは月1回開かれ

職員会議で済むわけです。また、学級に関することは全て担任に一任されてい

るのです。

このような学校に新卒から6年間勤めてきた私は、大きい学校になると何かと煩雑

だと思ったのですが、一つの決定事項がそれぞれの学級に確実に定着するとは限

らないということも分ったのです。同じ会議に臨んでいても認識や理解の度合いが

違うわけです。

学級担任の指導姿勢如何で、子ども達の活動に違いや変化が現れてくるのです

例えば

・授業開始のチャイムが鳴っているのに遊んでいるクラス

・全校朝会へ臨む際の行動や話を聞く態度の悪いクラス

・外(グランド)遊びや内(屋内体育館)遊びの決まりを無視するクラス

・給食時間の厳守と食器の後始末がきちんとなされないクラス

・掃除用具を整理整頓できないクラス

・学力検査で他のクラスに比して可なり成績の悪いクラス

・学習の構えがおろそかなクラス  などなど。

したがって、これ等の状況をどのように改善していくかが、学校として大きな問題な

わけです。このことを考えると、教員の力量とは、自分の学級のことのみを考える

学級王国的な姿勢ではなく、全校的な視点で課題・問題を把握し、改善していこう

とする意欲・態度・能力をいうのではないかと、教員になって7年目にしてやっと認

識を新たにした私でした。

やや大きな規模の学校で戸惑う私です。応援のクリックに感謝します》

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2009年7月26日 (日)

新1年生 下校時に交通事故死

5月の連休明けのことです。お昼少し過ぎにある病院から学校へ電話が入りました。

「お宅の学校の1年生のA君が、いま交通事故に遭い病院に搬送されてきました。

しかし、残念ながら亡くなってしまいましたのでお知らせしておきます」とのこと。

ランドセルに記名がしてあったので被害者はすぐ分ったとのことです。私達1年生

担任はびっくりしましたが、年配女性のB担任は一瞬真っ青になり、

「転任早々このような事故を起こしてしまって、私どうしたらよいだろう?あのチョロ

が死ぬなんて!」と戸惑うばかりです。

教頭も慌てた声で

「B先生、早く病院へ行かなくちゃ!私も行くから準備して!」と言い、タクシーを呼

びました。

教頭、学年主任、B先生の三人が病院へ直行しましたが、およそ1時間ほどして戻

ってきました。教頭は校長会へ行っている校長へ連絡し、その後教育委員会へ

に行ったのです。B先生はショックで目を腫らし説明するどころではありません。

学年主任が加害者のトラック運転手から聞いた話を私達に伝えてくれました。

A君は学校から約3kmほどある農家の子で登下校にバスを利用していたのです。

この日は、家の近くの停留所で降り、すぐバス後方から反対車線に飛び出してしま

ったのです。そこへ進行してきたトラックが避け切れずに撥(ハ)ねてしまったという

わけなのです。

学校では1年生の安全な登下校のため、2週間は先生方が分担して交通指導に

努めており、下校時にはバスに乗車していき現地指導もしてきたわけです。

にもかかわらず、このような事故が起こってしまうとは・・・・・・

学校では、早速、臨時職員会議が開かれ本日の事故の報告と再発防止のため、

各担任が学級指導を徹底することを確認しあったわけです

私は、1年生の生活指導担当でしたので、指導の手抜かりを悔い、翌日、1時間目

を学級指導の時間に切り替え、黒板に絵をかきながら道路横断の危険性について

指導しなおしたわけです。

放課後には生活部会が開かれ、交通安全指導の強化とその具体的な策について

討議されたのです。

この事故をきっかけに、本校の交通安全指導は他校から指導計画の提供を求め

られるほどの成果を収めるようになったのです。

注釈〕 昭和40年のことですから国道といえども信号機が1個しか設置されてい

ない時代でした。しかし、国道の交通量が結構多くPTAも交通安全指導に力をい

れつつあったのですが、市街地の離れた場所では手抜かりがあったのです。

現在は交通安全指導員の「緑のおばさん」が複数配置されており、登下校時の指

導をしてくれますし、PTAの方々も当番で指導してくれているのが実態です。

しかし、無謀運転や酒気帯び運転が後を絶たず大きな社会問題になっております。

何事もそうですが、特に交通事故に関して言えば学校の指導にも限界があるという

ことをご理解いただきたいと思うのです。

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2009年7月25日 (土)

大分教委の汚職事件 その温床は?

昭和40年4月中旬。前任校の校長から電話あり。内容は、私が転勤の際に教育

委員会へ挨拶に行かなかったので、教育長がカンカンに怒っている。だから

① 早急に挨拶に出向くこと。

② くれぐれも丁寧にお詫びをしなければならないこと。

③ 手ぶらは失礼だから、何かちょっとした物を持って行くこと。 

とのことです。

私は転勤早々に1年生担任であり、4月6日の入学式までに明るいムードになる

教室環境の設営や出席簿の作成、机の天板や雨具掛けに記名の貼付、入学式

当日の配布物の点検などに忙しい春休みを送っていました。

また、転出の際に教育委員会へ挨拶に行かなければならないことも分っていなか

ったのも事実です。

前任校の校長の指導を受け、早速、土曜日の午後にニッカウイスキーを片手に

教育長(旭川師範出身)の家に出向きました。玄関先に出てこられた教育長は、

「忙しいのにわざわざ挨拶に来られて・・・・。聞くところによると1年生担任だそうで

すが、これまで培ってきた力量を十分に発揮して下さいね!」

とにこにこしながら応じてくれたのです。私が、

「教育委員会へ転出の挨拶にも出向かなかったことを、皆さんにお詫びしておいて

いただけませんか。」とお願いしたところ、

「君の事情は分ったので皆に伝えておくよ!」と言ってくれたのでひと安心しました。

翌日、前任校の校長から

「今朝、教育長から電話があり、君が挨拶に来てくれたと大変喜んでいたよ。転出

する前に私が君に指導しておかなければならなかったのに、つい忘れていて申し訳

ない!」との電話です。これで一件落着したのです。

注釈〕 栄転(小規模校から大規模校へ)、昇任(一般教員から教頭へ)、採用(教

頭から校長へ)などで転出する際は、関係者のところへ挨拶に伺うのが常識となっ

ていました。

一般教員の場合は、教育関係者として自校と転出先の校長、同窓会会長、教育長

などであり、教頭、校長の場合は、校長、同窓会長・事務局長、教育長、北海道教

育委員会の地方事務局(教育局)の学務課長、企画総務課長、次長、局長が対象

です。

挨拶といっても手ぶらではないのです。商品券に菓子箱をセットにしてお礼の挨拶

に伺うのです。このような悪しき慣習は、教頭、校長への狭き門の頃から行われて

きたそうです。これは同窓会幹部からの指導です。

問題は、派閥によって贈呈する額に違いがあるということです。人事に有利になるよ

うにとの下心からの行為なのです。

この悪しき慣習は、官官接待と同じであるとの見解から、北海道教育委員会が平

成7年度に禁止し、各教育委員会や校長会等を通じて金銭贈与、餞別、ゴルフ

等の接待、お中元、お歳暮のやりとりが禁止されたのです。

なお、市町村段階は教職員の転出・転入にあたっての教育委員会への挨拶は日

時を決め、関係者全員が一同に会した中で実施されるようになったのです。

転入教職員の場合は辞令交付式の際に行うのが一般的なようです。

2年前に大分県教育委員会汚職事件が大きくマスコミで報道されましたが、

北海道の教育界もこれに近いことが行われていたのです。

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2009年7月24日 (金)

寺の幽霊?

昨日(7月23日)、北海道新聞朝刊の『朝の食卓』に『寺の幽霊』と題して書かれて

いる随筆に目が留まりました。筆者は山本徹浄氏です。

彼は現在、秩父別(チップベツ)町にある常楽寺の住職です。寺の息子であるにも

関わらず、教育大学札幌校の特設音楽課程で学び(昭和54年卒業)、その後、

育大学付属校の教師となった人物です。

ところが、父親の住職が体調を壊したとのことで付属中学校を退職し、親元の近く

にある深川小学校へ転勤してきたのです。その年に全国音楽教育に関する懸賞

論文に応募し見事に最優秀賞をとり、学校へ楽器1セットが贈られ、彼も幾らかの

賞金を手にしたのです。

彼の音楽活動は自分の学校だけではなく、全市的な視点で活動しておりましたの

で、高く評価されていたのです。

ところが、父親の病気が可なり悪くなり、住職としてのお務めも困難になりつつあ

ったため、檀家の皆さんが長男の徹浄さんに僧侶になるよう強く説得したのです。

彼は数ヶ月(?)本山で修行し僧侶になる資格を見事取得したそうです。

私は、彼と同じ地方にすんでいる先輩からこの話を聞き、歌の文句ではないので

すが「人生いろいろ」だなーと強く感じたのです。

その彼が、『朝の食卓』に随想を書いていましたので、いつも興味を持って読んで

いたのです。彼は、お寺の本堂で演奏会を催したり、近辺の人達を指導しながら

音楽活動も継続してやっていたそうですが、昨年の10月だったと思います。妻を

くしてしまったのです。僅か52歳?にして妻を失い、お寺の住職の仕事と音楽

活動などと忙しい身でありながら、よく『朝の食卓』の原稿を書くことが出来るものだ

と感心しているのです。

では、「寺の幽霊」の全文を紹介します。

8月が近づくと、緊張感が増します。僧侶の私にとって、お盆という1年で最

も忙しい時期を迎えるからです。

檀家を一軒ずつ回りますが、込み合ったスケージュールをどう乗り切るか、

あれこれ悩みながらの毎日は、つい会話も上の空となりがちです。

なるべく、メモをとるなど、気をつけているつもりですが、昨年も約束事を忘

れ、先方から苦言をいただいてしまいました。この失敗談を僧侶の友達に

話すと「おまえのところにも、ついに幽霊が出るようになったか」と笑われま

た。

日本の怪談の幽霊は民間信仰の話で、仏教には本来関係がありません。

しかし、友達が言うには、三つの条件がそろえば、寺でも幽霊が出るとい

うのです。

一つは、あれこれと過去にこだわり、「恨めしや」と後ろ髪を引かれる思い

で生活している時。二つ目は、先の不安ばかりを口にして、取り越し苦労

の多い生活をしている時。そして三つ目は、過去や未来にばかり気をとら

れ、地に足がつかない気持ちで生活をしている時だそうです。

なるほど幽霊の絵は、手をだらりと前に垂らし、足が描かれていません。

友人の話は、忙しさに心をなくした状態で、ふらふらと幽霊のような生活を

    している私自身の姿を指摘した言葉でした。

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2009年7月23日 (木)

同じ1年生担任でも こんなに違うとは

在籍児童が僅か13人の学級から今度は1学級45人で4クラスある1年生の学級

担任です。約19倍の規模です。1学年1学級の場合は、教科の進み具合や生活

指導など全て独断で進めることが出来たのですが、今度は違うのです。

松、竹、梅、桜の4クラスであり、学年主任が取りまとめ役となり、「学年部会」と称

して教科の進度、学年行事、生活指導上の留意点など、各クラスが協調しながら

教育活動が展開されるよう協議するのです。したがって、学年を運営するために

1人ひとりの役割分担が決められ、責任を負うことになっていたのです。

私の担当は、算数と体育、そして生活指導面です。これまで田圃の真んの学校で

したが、今度は商工農がバランスのとれた町の学校です。前任地の町には信号機

がありませんでしたが、今度の町には駅前の国道に1つあるのです。ですから交通

指導についても徹底した指導をしなければ、危険この上ないのです。

私は、春休み中に札幌へ出向き、1年生担任のための「入門期指導の4週間」とい

う本を買い求め、指導にぬかりのないようにしました。

1年生の担任構成は男2名、女2名であり、私が一番若くて26歳。学年主任は36

歳。女教員は51歳と42歳のベテランなのです。しかし、ありがたいことに

「先生は若いのですから何事も思い切ってやって下さい」と激励してくれたのです。

学年の先生方が家族のような親近感があり、協力体制がとられていましたので大

変助けられました

私は、やはり大きな学校へ来ると何かと勉強になることがわかったのです。とに角

やりがいのある学校でした。

26学級での奮闘記を書いていきます。応援のクリック宜しくね!》

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2009年7月22日 (水)

変な転勤の条件 

教職員の人事異動が新聞にも掲載され、離任式を終えた私は、これからお世話に

なる学校の校長へ挨拶に伺いました。(昭和40,3,27)

校長室に案内され厳しい顔の校長とのご対面です。K校長は開口一番に、

君、好きな女はいるかい?」   「いいえ」 

所帯道具を持っているかい?」

自炊していたので鍋とガスコンロ、まな板と包丁はもっていましたが、共同自炊をし

ていた仲間に譲ってきましたので、現在は何もありません

女がいて、所帯道具を持っているような教員は本校には要らないのだよ!」

とのこと。そして

君がやりたいと思ったことは、思い切ってやってくれ!失敗しても俺が責任とるか

ら心配する必要はない!1年生担任にしてあるから準備もしっかり頼むよ!」

と鋭い眼つきでギョロット見つめ、威圧するような態度で言うのです。

暫らくして、先輩にあたるY先生が校長室に呼び出されました。下宿を空けてくれた

先生なのです。彼は私に会うなり、

「Yです。先生のお噂はよく聞いておりましたので、お会いできる日を楽しみにしてお

りました。どうぞ宜しくお願いします。早速、仕事のことですが、先生は私と同じ生

活部に所属していただき、力を発揮していただきたいのです。異動で全職員が揃

った時に部会を開きますので、それまで特段用意しておくことはありません。」

と告げ、その後、直ぐに下宿を案内してくれたのです。

この学校は全校26学級で2年生と6年生が5クラス編制です。各組の名が変わっ

ていて松組(1組)、竹組、梅組、桜組、桐組と言い、まるで少女歌劇団「宝塚」の

ような呼び方をしていたので驚きました。

この学校は、29名の教員がいて学芸大学札幌分校出身者7名、旭川分校5名、岩

見沢分校4名、函館分校3名、旧制中学出身者が10名という構成で、お互いに切

磋琢磨しあう職場だったのです。

今回は6人(男5人女1人)の教員が異動してくることになっており、私が一番若いと

のことでびっくりしました。現在私が勤めている学校の全職員に指摘する人数だっ

たからです。やはり規模が大きいといろいろ違うのだろうなと若干心配になりました

が、校長もY先生も同じ大学の先輩ですので心強く思ったのです。

はじめて多級校へ転勤した経験談を書き綴りますクリックで応援くだされば幸いです

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2009年7月21日 (火)

トムラウシ遭難 自己責任?

大雪山系のトムラウシ山(2141m)と美瑛岳(2052m)で遭難が相次ぎ、中高年

の登山者合わせて10人が死亡しました。

悪天候による夏山登山では、過去最悪の事故らしい。犠牲者の無念や遺族の気

持ちを思うと胸が痛みます。死亡された方々のご冥福を心から申し上げます。

さて、このニュースは私にとってもヒトゴトではありません。体力増進と山頂からの

雄大な眺望と達成感は登山経験者以外分らないと思います。

実は私もこれまでに初級・中級者に適した山に登ってきたのです

札幌近郊では、八剣山(498m)、夕日岳(594m)、札幌岳(1293m)、朝日岳

(598m)、砥石山(826m)、樽前山(1041m)、南暑寒岳(1296m)、雨竜沼

湿原、浦臼山(718m)、神居尻山(946m)、大雪山系の黒岳(1984mだがロー

プウェーから)など初級、中級の山々です。

でも登山の際は、事前に『夏山ガイド』ブック(北海道新聞社発行)で調べます。

・登山時間加算 ・高山差(標高) ・険しさ ・迷いやすさ がA~Dランクまで

・体力(標高差) ・総合点 が掲載されており、初級、中級、上級とのランクも書か

れているのです。自分の能力に合った山を選ぶのです。

さて、5年前、娘夫婦を神居尻山に案内しました。娘婿はまだ30代後半です。

体力に自信がありますので私達夫婦(60代)のペースに合いません。私達の忠告

を無視してハイペースで登ったのです。所が下山途中で足の痛みが酷くなり、超ロ

ーペスで歩行困難なほどまでになったのです。彼にとって登山は初めての経験だ

ったのです。

また、4年前のことです。私は66歳になっていました。これまでに7回行ったことの

る雨竜沼湿原に友人達と行きました。私は2番目の高齢者です。先頭の50代の

人のペースに合わせて下山しました。ところが、登山口に差し掛かった地点で足

を滑らせ、捻挫してしまったのです。両手にストックを持ち体重を支えながら下山し

ていたにも関わらずです。可なりの痛みがありましたが、我慢して反省会に臨み生

ビールを数杯飲んだのです。

驚きです。翌日、足首あたりが紫色に腫れ上がり歩行困難。妻にお願いして教育

委員会の事務所から車椅子を持ってきてもらい、それに乗せてもらって通勤したの

です。そして約2週間、車椅子生活を余儀なくさせられ整骨院にも通ったのです

私達、高年者は、筋力や持久力の衰えは否めないわけです。にも関わらずあの時

こうだったから、今回もこうだろうと楽観視しているわけです。しかも、注意力や危

機意識が欠如していて、準備したはずが持ち忘れたとか、注意事項のチェック

を忘れ、肝心なことも忘れていることがあるのです。丁度、小学校低学年程度のよ

うな大人なのです。

ですから今回、防寒装備の不備が一番の問題のようですが、ツアー会社社長が

参加者の責任」と発言したことを大きく報道されております。確かにそうです。

しかし、危機意識の欠如している高齢者が相手ですから、主催者もチェック体制

を整備することも大切ではないかと思うのです。特に北海道の高山は天候の急変

と寒さ、そして熊との遭遇も考えられます。

しかし、一番大切なことは悪天候や体調不良でも登山を強行する危機意識の

なさです中止したり引き返す決断と勇気が求められているのではないでしよ

うか。これが登山の基本であるように思うのです。

事故のたびに責任のなすり合いは避けるべきです。それぞれの関係者が最善を尽

くすことが大切ではないでしょうか。

私は現在、脊椎狭窄症で好きな登山ができません。しかし、筋力を高めるため毎

日簡単なトレーニングを継続して行っています。リックの中には、雨具、マッチ、

ライター、懐中電灯、電池、携帯ラジオ、乾パン、飴玉、チョコレート、着替えの

下着、靴下、紐、登山ナイフ、水筒、消毒液、湿布薬、傷薬、体温計、ホイスル、

熊よけの鈴、新聞紙数枚などを入れてます。いつでも登山できる態勢です。

しかし、非常災害の用意でもあるのです。

登山と危機意識について書きました。いつも応援のクリックありがとうございます》

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2009年7月20日 (月)

小規模校からの転勤

新卒6年間で全ての学年を経験した私は、当然異動しなければならない時期にき

ていたのです。たまたまある市立中学校の校長からお手紙が届き、本校へきてく

れないかとの依頼文です。

この校長はどうして私を知ったのか不思議でした。同僚の先輩に聞いてみると、

以前に本校へ新米校長として勤めたことがあったとのことでした。

手紙の内容は、数学と体育の二教科を教えて欲しいとのこと。私は早速、自校の

校長に手紙を見せました。すると校長は、

「あんな小さな学校へ行く必要がない。君は大きな学校で、1クラス45名の子ども

達と悪戦苦闘しながら教育の難しさを学んでいかなければならない時期なのだ!

学ぶチャンスを逃してしまったら、後に悔いが残るからね。転勤先の学校は私に任

せてもらうよ!」とのこと。

それから数週間して校長に呼び出されました。

君を引き受けても良いと言う学校が3校見つかった。一校は39学級のマンモス

小学校。この学校は教職員が50名以上で、本校の8倍位の規模だけれど、共産

党員が可なりいるので君は直ぐつぶされてしまう。

また、他の一校は35学級で研究の盛んな学校なので大変勉強になると思うのだ

が、君が力量を発揮するにはまだ少し早いような気がするのだ。

そこで、この地域体の中心校であるA小学校なら26学級であり、君が活躍する

には適正な規模と思うので、その学校の校長と教育長に話を通しておいたから、

その積りでいて欲しい。」と告げられました。そして

「立つ鳥跡を濁さず(人が立ち去るときは見苦しくないようにきれいにあと始末してお

くべきである)の言葉があるが、早め早めに仕事を済ませておいた方がいいよ!」

とのこと。

さて、私の転勤先になる学校は算数の研究会で1度訪れたことがあり、組合活

動や研究部門でも活躍している先生方がいることを知っていました。果たして私の

能力で上手くやっていけるかどうか分りませんので若干不安でした。

しかし、他流試合には絶好の場所であると自分に言い聞かせ、4月1日の発令と

同時に着任できるように準備に取り掛かったのです。

しかし、心配事が一つありました。それは下宿があるかどうかということです。校長

を通して転勤先の学校へ問いただしてくれたところ、先輩が下宿を空け、札幌から

自家用車で通うことになったのでそこに入れるよう話がついているとの返事でした。

私は、この時も札幌学芸大学の先輩にいろいろお世話になったのです。

今も若干そのような事がありますが、昭和50年代までは人事異動に際して各派閥

が強い影響力を持っていたのです。

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2009年7月19日 (日)

タラバガニ 矛盾した値段

昭和38年のことです。放送教育の実践を『第13次全道教育研究集会』で発表する

機会を得て、会場の釧路へ来ました。出発の際、校長から

「道東はタラバ蟹が安いので買ってきてくれないか?」と頼まれ餞別まで頂いてい

たのです。

毛蟹は駅前通りで山積みにして安売りしていましたがタラバ蟹は見当たりません。

それで二日目の分科会を午前中でエスケープし、厚岸でカキ飯を食い、研究発表

物を郵便局から自宅へ送りました。この厚岸町にもタラバ蟹は見当たりません。

しかたがありませんので、北海道の最東端の根室まで足を延ばしました。

急行列車で根室まで行き、折り返しその急行列車でトンボ返りする予定です。

列車が着くや否や駅前の市場に入りました。タラバ蟹が売っているのです。喜び勇

んでやや大き目のものを買い、19時発の夜行列車に飛び乗り、翌朝札幌へ。

大通りからのバス時刻に少し間がありましたので二条市場に立ち寄りました。

すると沢山のタラバ蟹が並べられており、おまけに値段が根室より安いのです。

約2割も安いとは夢にも思いませんでした。

釧路から急行に乗り、わざわざ根室まで足を延ばしたのに、札幌の方が値段が安

いとはどうゆうことなのかと腹立たしくなりました。輸送費を考えれば産地の方が安

くなければならないはずです。

きっと根室漁業協同組合が大消費地の札幌へ貨物で大量に送ったのでしょう。

そんな流通情報を知らない私は、馬鹿をみたわけです。

今思うと滑稽ですが、25歳の私にとっては真剣な問題だったのです。

後3ヶ月で71歳になります。それまでは毎日更新する予定です

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2009年7月18日 (土)

道徳教育はダメ 支部執行委員会で

北教組主催の第14次全道教研の支部代表として、誰を正会員にするかの議題で

執行委員会が開かれました。各教科・問題別分科会別に選考していき、生活指導

に関するレポートの審議の時です。ある執行委員が、

「この内容は道徳教育ではないか!こんなの討議する必要がないですよ!」と。

今まで執行委員会で意見を述べたことのない私(25歳で一番の若手)が、勇気を

持って発言したのです。

「ちょっと待って下さい!本部の運動方針では確かに特設道徳反対となっていま

すが、道時教育そのもの自体に反対しているとは思えないのです。徳目主義を中

心とした戦前・戦中の修身のような指導内容や指導方法に問題があるのであって

道徳教育は人づくりにとって大切な教育内容だと思うのです。内容の良し悪しを

問わずに、道徳という名だけで切り捨てるのは、余りにも了見(考え)が狭いのでは

ないでしょうか?そのような態度で組合員を指導していったら、組織離れの人達も

出てくるのではないですか。私は、このレポートが全道教研の場で堂々と論議され

ることを望みます。」と一気に主張したのです。

委員長をはじめ他の執行委員もビックリした眼差しで私を見つめ、一瞬静まりかえ

りました。すると、情宣部部長のC先輩が、

「よし、分った!よく意見を言ったな!このレポートを全道につなげていいですか?」

と問うと、全員が「いいです!」と認めてくれたのです。

それから14年後、私が勤めている学校へC先輩が着任してきました。依然として

組合活動の闘士で名を売っており、地区労働組合委員長を務めてる人物なの

です。

このC先輩が卒業式にキューバのカストロ議長が着ているような服で出勤してきた

わけです。卒業担任の私が、

「C先生!そんな服装で卒業式に臨んで欲しくないのですけど!何故、背広姿で来

なかったのですか。着替えて下さいよ!!」と抗議しました。

辺りにいる先生方はビックリです。若造の私がC先生に対して言える言葉ではな

いと。

その忠告を聞いたC先輩は、にこにこしながら

「なかなか言うね!」と軽く受け流したのです。結果的にC先輩は卒業証書授与式

には教職員席に座らず、保護者席の後方に座ってくれたのです。

式典が終わり、最後の学級指導を終え、子どもや保護者に挨拶を済ませた後、

グランドに出て学級歌を歌いながら学級旗を焼却し最後の別れを惜しんだのです。

「蛍の光」に送られ、全職員と全卒業生と別れのセレモニーを終えたあと、職員室

に戻ってきたC先生に対して、

「先輩、今朝ほどは大変失礼なことを言いました。お許し下さい」と陳謝したところ、

「気にするな!俺とお前の仲ではないか!でも、良く言えるようになったな!」

と許してくれたのです。

そのやり取りを聞いていたある女の先生が、

「先生とC先生とはどんな関係があるのですか?」と訊ねましたので、

「十数年前に支部の情宣部長と副部長の関係だったんです」と言うと、

「どおりで変だと思ったわ。普通なら喧嘩になってもおかしくないことなのに」と納得

してくれました。

私は、組合活動に対して絶えず疑問を抱きながら取り組んでいましたが、C先生の

言動に対して職員会議の場でも時々批判するようになっていたのです。

忘れられない発言の一つを取り上げました。いつも応援のクリックありがとうございます。》

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2009年7月17日 (金)

一晩で心臓病に

北教組本部総会において私達の所属していた前支部長が本部副委員長に再選

され、その祝いがパーラー石田屋で開催されました。豪華な鯉のあんかけ料理

などを食べ、その後、書記長の親戚が経営している「すすき野」近くのホテルで、

北師同窓会の仲間だけで二次会が催されました。

酒に弱い私は、まだ、先輩達とは親しい人間関係ができていませんでしたので、酒

は少し飲み煙草ばかりをふかして緊張しながら話を聞いていました。

そして、宴会終了後、情宣部長のE先輩が「一緒にお風呂に入ろう」との誘いにのり

入浴したのです。

しばらくして、いつもより胸の鼓動が激しいのに気づき、早めに部屋へ戻り疲れた

ので先に寝てしまいました。

ところが、翌朝目覚めると心臓が激しく鼓動しているのです。時々息がつかえるよう

な感じなのです。急いで脈を数えてみると約120。そして時々速くなったり26拍目

に1度の割合で止まるのです。要するに不整脈になっているのです。

数日後、隣町の病院で診てもらったところ『心室性期外収縮』とのことで、飲み薬

をもらいました。この病気は安静にしていてもなり、丁度100mを走った後のように

息苦しくなることがあるのです。

しかし数年後、余り気にしなくなった30代前半に自然に治っていたのです。しかも

薬を飲んでいなかったにも関わらずです。再発もしないから不思議です。

今思うには、酒の酔いがまだ醒めていないにも関わらず、お風呂に入ったのが

接的な原因でしようが、極度の緊張と煙草のふかし過ぎと強いストレスが起因し

いたのではないかと思うのです。

このことも、物事を「ケセラセラ」(為るようになる)と楽観的・楽天的に考えるよう

になっていったきっかけの一つではないかと思うのです。

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2009年7月16日 (木)

支部情宣部副部長となる

よく組合員はよき教師」として頑張らなければならないと思っていた矢先に、北海

道教職員組合(略;北教組)本部役員を経験し、若干43歳で新採用校長となった

T校長の勧めで、北教組A支部の執行委員となり情宣部副部長をおおせつかった

のです。

副部長といっても部員が一人もいなく、部長は書記次長が兼務なるです。仕事は

組合活動の様子を「組合便り」にして伝えることなのです。

A支部は幾つかの町村の組合員で構成され、支部長、副支部長、書記長、書記

次長は支部代議員による選挙で決定するのです。その他の執行委員は各町村よ

り1名ずつ選出される仕組みになっていました。私はまだ25歳の未熟者でしたの

で、何事も前向きに取り組まなければならないと思いながら取組んでいました。

さて、執行委員になったのはいいのですが、執行委員会で論議される内容や組合

用語があまり理解できません。そうこうしている内に札幌市の大谷ホールで本部

総会が開催されました。私は情宣部ですので審議内容や議決事項等を記録して

支部内組合員に速報として配布しなければならないのです。

2階の傍聴席で緊張しながら速記します。各支部の代議員がうちわを振りかざして

発言を求める姿や、堂々々とした質問者や答弁する本部役員の姿に感服してお

りました。

家に帰り5mmの原紙に鉄筆でガリをきるのです。見出しやリード文をどう記述する

か悩みましたが、素原稿を校長に見ていただき訂正願って速報を作ったのです。

校長が組合員であり、しかも北教組本部の役員経験者でしたので、指導助言を仰

ぎながら情宣活動に精を出すことができたので大変助かりました。

この時の経験が素地となって、後に「学校だより」の編集に携わったり、一晩で原

を5枚きるほどの技能がいつの間にか身についていたのです。

仕事は「やらされるのではなく、やらせてもらう」との考えで取組むと、それが、

いつの間にか力になっているものであることを、約47年間の教育界で培ったこ

となのです。即ち、能動的な取組が大切であるということなのです。

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2009年7月15日 (水)

早死にした マージャンの達人 

昭和38年のことです。学校の近くにいる消防団長さんが校長住宅に来られて、

「マージャンのメンバーが一人足りないので誰か一人来てくれませんか?」

と要請したのでした。本校では男教員は全員マージャンをしますが、呼びにこられ

た人は大変上手との評判の人だったのです。ですから校長を始め先生方は部落

からのお誘いを嫌がっていたのです。

ところが、校長が仲人をしたM先生が遊びに来ていたので、彼に行くようにと校長

が促しました。私はM先生を消防団長さんの家へ案内したところ、早々とゲームが

開始されました。

私はM先生の後で観戦する予定でいました。驚きです。マージャン稗を持ってきて

ひと目見ると直ぐ伏せてしまうのです。その後、稗を持ってくるのですが1度も見な

いで伏せ、いらない稗を捨てるのです。しばらくしてリーチ(後1稗で上がるという

宣言)をかけるのです。他のメンバーは恐れをなしてしまいました。

結果的にこのマージャンは東、北1回戦で終わってしまったのです。部落の人達は

こんな達人がいるとは思ってもいなかったと驚き、恐ろしくなってもうM先生とはお相

手できないと白状したのです。

このM先生には、三日三晩マージャンをやり通したという武勇伝があり、囲碁も四・

五段の腕前だったのです。囲碁は打ち終わった後に、記録を見ないで盤面を一手

一手打った順番に再現することができるのです。それ程の記憶力があるものです

から、僅か手元に13稗置くマージャンでは、いちいち見なくても記憶できるのだそ

うです。

また、稗を見なくても手で触っただけで何の稗か分るのです。凄い達人です。

なお、M先生は確か脳梗塞を患い34歳の若さで急死を遂げたのです。

彼の死は、不摂生な生活を続けると我が身を滅ぼすことを教えてくれたような気

がします。

なお、その後、M先生の息子さん達が囲碁で実力を発揮し、中学時代・高校時代

に団体戦で全国優勝を遂げたのです。次男坊は北海道囲碁選手権大会に常連

出場し優勝経験もあるのです。さすがM先生の子であると思うのです。血は争そえ

ないものですね。

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2009年7月14日 (火)

同じ教員の子でありながら

私が勤めて5年目(昭和38年)のこと。やっと後輩に当たる教員が着任しました。

しかも私と同じように教員の子なのです。たまたま妻子を持つ教員が赴任してきた

ため、独身の私は、教員住宅を明渡さなければならなくなったのです。仕方があり

ません。S先生と下宿することになり8畳間に共同で住むことになったのです。

私は、夜具1組と兄からもらったラジオと自炊に必要な炊飯器と鍋、フライパン、

まな板、包丁などを持っている程度です。ところがS先生はセミダブルベット、

レオを持って着任したのです。

同じ小学校の教員を父に持ちながら、私は10兄姉妹(妹1歳で病死)の6番目、S

先生は三人弟妹の長男なのです。おまけに私の父は43歳の若さで病死しましたが

S先生の父は現役校長なのです。ですから経済的に余裕がありベットなども用意で

きたのです。

ところが翌年のことです。また教員住宅が空いたとのことで急遽入居して欲しいと

の教育委員会の要請により、S先生と共同自炊に入ったのです。

彼の父は近隣の町の校長でしたので、土曜日の午後には親元に帰るのですが、

私は小樽市であり、入院している教え子の見舞いなどで夏休みや冬休み以外は

することができなかったわけです。ですからS先生が羨ましかったです。

このS先生は後に札幌へ転出したのですが、体調を崩してしまい、やがて年賀状の

やり取りも途絶えてしまったのです。

私は、職員録(各学校に勤めている教職員の名前を掲載している冊子)でS先生の

名前を探したのですが見当たりませんでした。札幌は政令指定都市ですので教職

員の人事異動は札幌市内だけなので、他の地域へ転出しないわけです。

いずれにしても、教員を辞めたと理解しております。私は共同自炊をした二人の先

生とも会うことができないのでとても寂しいです。

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2009年7月13日 (月)

学校生活協同組合の不正を見抜く

農村の小規模校には事務職員が配置になっていませんでした。従って、教職員が

学校事務を分担していたのです。この話は昭和38年度のことでが、私の分担は

経理事務です。月給から組合費や学校生活協同組合(略:学協)からの物品購入

代金を差し引きし支払うのです。

ところが、先月支払っているにもかかわらずまた学協から請求書がきたのです。

不思議に思って問い合わせたところ、事務の手違いであるのでお許し下さいとの

こと。

ところが2ヶ月後もまた同じ内容の請求書が届くのです。月賦で購入していますの

で支払額は毎月同じですが、入金の領収書が送られてこないのです。私は、学協

の事務員が不正をしているのではないかと思い、総代会でこのことを指摘し事務

の適正処理について質しました(・A・)イクナイ

すると事務方のトップが答弁にたち、今後そのような手違いが起こらないよう指導

を強化し、この件に関しても速やかに対処するのでお許し願いたいとのことであり

ました。そして、総代会の決算報告は単年度大幅な黒字との報告でしたが、私は

疑っていたのです。

議案審議後に懇親会(慰労会)が開かれれ、ビールやお酒、刺身や天ぷらなどを

盛り付けたオオドブルが幾つも用意され飲めや食えの大賑わいです。

さて、次の年のことです。学協の赤字問題と事務方トップの着服問題が表面化し、

全組合員が注目する問題へと発展していったのです。ところが渦中の人物が行方

不明とのことで、問題解決が伸び伸びになってしまったのです。 

ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

確か学協の理事長は北教組支部の委員長であり、国政選挙の運動資金に学協

のお金が使われたのではないかとの疑いの声が、他の派閥から上がりました。

また、この問題をネタにA市の中心校の校長ポストを我々の派閥に譲れとの人事

問題にも絡めてくる派閥も出現してきたそうです。

この問題学協は北海道学校生活協同組合に吸収合併されて問題解決がなされ

ましたが、私達学協組合員は出資金が没収されたばかりでなく、教頭等の管理職

は確か2万円を強制的にカンパさせられたのです。

この話は余りにも生々しく、その当時の理事長も確か87歳で元気にしておりますの

で、詳細を述べることは差し控えます。しかし、当時のドサクサまぎれに高額物資を

購入し、代金を未払いのままでいた教員がいたり、利率の高い出資金で一時的に

利ざやを稼いだ教職員がいたのも事実なのです。

私は、25歳でこのような問題に出くわしたものですから、教頭、校長時代の会計

業務に対する監査の厳しさには定評があったのです。また、金銭着服疑いのある

事務官が異動してきた折に、前任校の問題解決を図った事例もあるのです。

この問題も当事者が現役ですので触れないことにします。

どの時代も金銭トラブルが多いわけですが、要は危機意識の欠如からくる監視や

監査体制の甘さがあるわけです。校長・教頭は、学級費・教材費・クラブ活動費・

給食費・見学旅行費・PTA会費などを取扱う教員や事務職員に対しても、適正処理

がなされているかどうか絶えずチェックする必要があるのです。チェク体制金銭

事故は高い相関を示すのです。

《70歳を超えたこの私の背中をクリックで後押しして下さりありがとうございます。》

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2009年7月12日 (日)

辛さに耐える親と子

44歳の妻と9人の子ども達を残して43歳の若さで逝ってしまった父。その後の家

族の様子はこれまで数回にわたって書いてきましたが、10年後の我が家の様子は

どうだったのでしようか。直ぐ下の妹Y子の手記から関係部分を紹介します。

私が高校を卒業し石油会社の経理課に就職した頃から、母が笑顔を見

せることが多くなってきました。そして、自分の着物なんか買ったこともな

かったのに、買い物から帰るなり反物をながめながら喜んでいる姿を見

かけることがあったのです。

私が二十歳の時、結婚して欲しいという人が現れました。また、一緒に暮

らしていた兄(三男)にも結婚話がでてきたのです。母は一人でも片付け

た方がいいと考えていたようです。

まもなく結納が交わされたのですが、私はぎりぎりまで家にいたく、相手に

1年も待ってもらい翌年の1月、21歳で結婚しました。

また、兄は3月に結婚と決まりましたが、兄の負担を少なくさせようとの

結論が出、母と末の妹(6女)は札幌の兄(次男)の所へ行くことになり

ました。そして、まだ高校へ通っていた妹(4女)のM子は今迄通り三男

の所でということになり、2月に母と末の妹は引っ越して行ったそうです。

あの気丈な母が声を出して泣いていたのを見たと聞いたのは、大分

後の話です。

一方、妹のM子も寂しかったのでしょうね。日曜日や祝祭日には必ず結

婚したばかりの私の家におりました。お喋りをして気が晴れるのか夕方

になると帰って行きました。

また、直ぐ上の姉が、私が料理も何も知らないので心配して様子を見にき

てくれたり、時々買い物を手伝ってくれ、優しく接してくれていたので私は

しくありませんでした。

そういうわけではないのでしょうが、妹のM子は結婚しても私の近くに

み、お互いベタベタと行き来をすることもないのですが、安心感がある

は不思議です。

姉妹や兄の結婚話が出たとき私は田舎の教員であり、めったに帰省することがな

かったため当時の我が家の様子が分らなかったのです。また、各家庭には電話が

なく、今のように便利な携帯電話などもない時代(昭和38,39年頃)でしたので、

手紙以外情報を得ることができなかったのです。そんなわけで、妹達が離れ離れ

になり寂しい思いをしたことをごく最近知ったわけです。

しかし、その妹達も今はそれなりに幸せな生活を送っておりますので嬉しく思ってお

ります。

親子、姉妹の別れの辛さの内容です。いつも応援のクリックありがとうございます》

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2009年7月11日 (土)

「赤鼻のセンセイ」 院内学級物語(TV)

昭和38年度のことです。私は教員として初めて1年生を担任しました。僅か13名

の児童なのに単式学級(単一の学年の在学生で編制する学級)なのです。随分少

ないことに戸惑いがありましたが大変楽でした。テストの採点も十数分で済みます

し、児童とのふれ合い活動も十分確保することができたからです。

ただ、知的障害と情緒障害をあわせ持つ児童が一人おりましたが、私になついてく

れましたし授業妨害をすることも少なかったので助かりました。

勿論、保護者も教育熱心で協力的でありましたので、教育効果がめきめきと上がっ

てきました。

ところが、一番理解力があり大人びいた子どもであるH君が、3学期から札幌医科

大学病院小児病棟に入院してしまったのです。病名はよく分らないとのことで曽祖

父母・祖父母・父母(三世代同居家庭)が唯一人の子どもである曾孫・孫・息子に当

たるH君に対して大変心配していました。

私は担任として何とか元気づけようと思い、クラスの友達全員でお手紙をやった

り、絵を送ったり、私や校長が見舞いに行ったりしました。しかし、治療の効果がな

かなか現れてきません。

ここにH君のお手紙を紹介します。

みなさんお手紙ありがとう。みなさんは元気でいいね。ぼくは一月に入院

してから4ヶ月も病院にいるんだよ。病院にも慣れて友達もできたけれど、

やっぱり学校の方が知っている人がぐんと多くていいよ。時々いろいろな

人がお見舞いにきてくれます。もう、病院はこりごりになりました。みんな

と一緒にランドセルをしょって学校へ行きたいです。

病院ですっかり病気を治して退院できるまで待ってて下さい。この間、校

長先生がお見舞いに来てくださって、本をもらいました。学校の運動場に

ブランコと滑り台とジャンギルジムを作ると言いました。僕が退院して学

校へ帰る頃には、もうできているかも知れませんね。

みんな一人一人にお手紙を出したいけれど疲れるので皆で読んで下さ

い。  では、この辺で、さようなら。

  2年生の皆さんへ

                  ※読み易いように平仮名を漢字変換しております。

この時代はまだ院内学級(病弱児に当たる子どもたちが入院中、教育を受ける機

会を提供される教室で、特別支援学校から教師が派遣されて教育的支援にあたっ

ているが、その教師が担当する教室)が設置されていない時代ですので、ご両親な

どは学力問題でも相当悩んでおりました。

私は、月に一度位しか見舞いに行けませんでしたので、ワークブックなどを事前に

渡しておき、学校での学習進度などはお手紙で知らせていました。

H君は肝臓障害でしたが、確か9ヶ月後に退院してきました。もともと知的理解の

早い子でしたし、まだ2年生で学習内容も難しくなかったので、学習面で支障をき

たすことがありませんでした。しかし、体力が可なり衰えているため、休み時間での

遊びや体育の授業には相当に神経を使ったことを思い出します。

現在は、障害児に対していろいろな学級が開設されております。視覚障害、聴覚障

害、知的障害、情緒障害、言語障害、肢体不自由、病弱者への特別支援教育が

制度化されております。各市町村教育委員会が就学指導委員会を開き、各専門

分野の方々の意見や助言を生かして判定することになっているのです。

障害をもたれている保護者の皆さんは、障害児学級開設のため早めに教育委員

会に情報提供することが望ましいです。教育委員会では学級開設に伴う教員の配

置、備品・教材等の整備のための予算獲得のため定例議会や臨時議会で補正予

算内容を説明し、承認を得なければならないのです。

ですから、今日申し出たから数日中に開設されるというものではないのです。ご理

解下さい。

なお、参考までにご紹介しますが、7月8日から放映されたテレビ・ドラマの新番組

赤鼻のセンセイ」が院内学級内における生徒と先生の関係等を面白可笑しく取り

上げています。教員の難しさも理解できるドラマです。

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2009年7月10日 (金)

汽車に乗っての全校遠足

遠足とは歩いて行くものとばかり思っていましたが、新任校長の発案で汽車で行

くことになりました。このことの一部は、「僅か500mで 遠足?」(2008.11.13の

ブログ)で書くましたが、その当時、汽車利用の遠足は画期的な発想であり注目さ

れたのでした。

しかし、汽車利用と言っても学校から駅まで約3km、野幌駅から原始林まで

約1.5km位ありますので、往復で9km歩くことになりますので可なりの距離な

のです。学年の発達段階を考えれば当然無理な距離であり、今なら新聞ダネ

なっていることでしょう。

要は目的なのです。見渡す限りの田圃(タンボ)に囲まれた学校であり、山も林も

ない地域です。小川もなく田圃の畦(アゼ)以外は小道すらないのです。

子ども達の体験を拡充してあげようとの目的と、より多くの感動を与えてやろうとの

考えから実施したのです。

実施後の2年生のある子どもの感想文を紹介します。無謀な遠足だったかどうか、

評価して欲しいのです。

十月に学校で野幌原始林へ遠足に行きました。汽車に乗って行きました。

原始林に着くと皆でチャンバラや丘に登ったり、エビを獲ったりして遊びま

した。お昼になってお弁当を食べました。誰かがのりゆきちゃんのおでこで

玉子を割りました。先生がやるとカンという音がしました。

お弁当を食べていると、雨が降ってきました。だから皆で橋の下で食べま

した。皆入るので、橋の下がびっしりになりました。

    お弁当が終わると、校長先生が火を焚きました。どの学年もごみをたくさん

    拾って燃やしました。そして楽しく過ごしました。(昭和39年 記)

※読み易いように平仮名で書かれている部分を漢字に変換してあります。

※※ 「引用」の操作を間違えてしまい、直すこともまだわかりません。お見苦しい

    点をお詫び致します。

クラス会でも話題になった遠足です。いつも応援のクリックありがとうございます》

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2009年7月 9日 (木)

学校が燃えている!

教員をしていた父の口癖は「金と女と火事には気をつけよ!」でした。特に教頭

時代に学芸大学(今の教育大学)に在学中の息子に話すのでした。

お金と女に関する不祥事は首か不意転(希望しない不意の転任)を覚悟しなけれ

ばならないし、火事を起こし御真影(天皇・皇后の写真)や教育勅語学籍簿(児

童生徒の戸籍的な機能を果たす学校の公簿)を消失させてしまえば、間違いなく首

になるとのことです。

終戦と同時に御真影と教育勅語は学校から姿を消してしまいましたが、戦前から

教師をしていた父はいつも上司から言われていたのでしょう。

さて、昭和37年の晩秋の頃です。私達はグランドの端に建っているある教員住宅

の1室でマージャンをしていました。ところが、夜の9時半頃です。サイレンの音が

聞こえてきたので玄関のドアを開けました。すると校舎全体が真っ赤に染まってい

るではないですか。慌てた私は

「大変だ!学校が燃えている!」と声を出し、「学籍簿を外に出さないと大変だ!早

く行こう!」と怒鳴りました。

ところが、若干43歳の校長は一瞬のうちに真っ青になり、

「あゝ駄目だ!俺はもう駄目だ!」との声を連発し、頭をマージャン卓につけたまま

動かないのです。恐らく腰をぬかしていたのではないでしようか。

しかたがありませんから3人で急いで外に出て見ると、様子が変なのです。校舎か

ら煙が全く出ていません。不思議に思って回りを見渡したら、学校の向かい側に位

置する農家の納屋が燃えているのです。その火事が校舎の窓ガラス全面に映って

たのです。

先ずは一安心して戻り校長に報告すると、

「あー良かった!私はもう首になると思ったよ。良かった!良かった!」

とやっと精気を取り戻したのでした。

実は、今夜の夜間巡視の当番は校長だったのです。早速、

「学校の巡視に行ってくるからか。」としっかりした足取りで出向く校長だったので

す。恐らく校長も戦時中に教員になっていましたから、私の父と同様な指導を上司

から受けていたのでしよう。火事イコール首(解雇処分)という図式が一瞬過ぎった

ことでしよう。

私は、今でもサイレンの音を聞くと、幼い時に山火事を起こしたことと、敵機来襲

伴う避難のこと、そしてこの校長の言動を思い出すのです。

現在の学校は火災報知機、熱感知器、煙探知機が設置され、それが消防署と直

結しているため火事の初動体制が速やかであり、防火扉の設置、夜間警備員の

配置などで安全面に万全を期しているのが実態です。ありがたいことです。

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2009年7月 8日 (水)

「良き組合員は良き教師」の実践

日教組が「良き組合員は良き教師」と言っており、さらに「教師の倫理要綱」という

ものがあって、団結の重要性を唱えた文言が堂々と職員室に掲示されていた時代

のことです。当時は校長も組合員で役員を務めている地域が多かったわけです。

日教組の組織は、頂点に日本教職員組合(略:日教組)があり、その下部組織に

都道府県教組(各支部を束ねた組織)、支部(市や幾つかの支会を束ねた組織)、

支会(市町村毎の組織)、分会(学校班)となっています。まるで軍隊のような組織と

言っても過言ではありません。

学生運動の動員をよくエスケープしていた私が、教員になってから組合員の校長

の姿勢や優秀と言われていた先輩達が、北海道教職員組合(略:北教組)の役員

や教育研究団体の会長や事務局長、教育研究所所長・所員、北海道教育委員会

の指導主事、市町村教育委員会教育長などで活躍している姿を見ておりましたの

で、私もゆくゆくはそう有りたいとの願望を強く抱くようになっていたのです。

それで、新卒4年目に分会推薦を受け支会の執行委員になり、厚生部を担当する

ことになりました。所謂、教職員の福利厚生面の事業を企画推進するのです。

先輩のH先生の助言を受けながら、次の三事業を企画し推進しました。

1 石炭を特別価格で販売・斡旋する

 ・4月中に希望を募り5月10日まで代金を支払うと市販より3割程安く販売できる

  こと。

 ・代金は校長会長名義で信用金庫より融資を受けて一括業者に納入し、寒石炭

  手当てが支給されたときに一括、校長会へ返還する。

2 親睦事業の推進を図る。

 ・登山の実施。

 札幌岳(標高1,293m)登頂後、定山渓温泉(渓泉閣)で1泊する。

 ・キャンプの実施

  目的地は支笏湖モーラップでキャンプし、ファイヤーを囲みながら親睦を図る。

以上の事業内容でしたが大変好評を博し、次年度以降も継続されることになった

のです。

イデオロギー闘争とは違い、組合員の生活に直結する事業や活動の展開は、多く

の組合員の賛同を集めることができたのです。こんな内容も組合活動の一つだっ

たのです。

注釈〕 石炭価格については、炭鉱の山元に5月上旬までに代金を払うと、割戻

金が還元されることと、売炭所への入荷は台車で山積みになって運搬されるので、

約1割近く量が多く入荷されるとのこと。それに、信用金庫から借りた石炭代金の

利息を計算して、石炭の種類別に斡旋したのです。昭和37年の頃で、良質な塊炭

が1トン5,200円だったと記憶しています。しかり随分安いとのことで、教職員仲

間の奥さん達にも喜ばれたのです。

現在、北海道のある支会では、灯油、ガソリンを販売する業者を指定し、組合員で

あれば特別価格で売ってもらえるよう協定を結んでいるところもあるのです。

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2009年7月 7日 (火)

ミルク給食の実施

現在、全国どこの地域へいっても学校給食が実施されており、それが当たり前にな

っておりますが、昔はどうだったかその一部の内容(昭和37年A町教育振興会の

冊子より:私が勤めていた地域)を紹介します。

昭和22年度、本道の一部で小学校の補食食給食が始められてから既に

15年を経過したが、この間に学校給食も、児童の肉体的な発達を助けよう

とする消極的な立場から、次第に学校教育の実践の機会としての積極的

な立場をとるようになり、昭和29年、学校給食法の制定、更に昭和33

年、教育課程の改定に伴い、学校行事の領域に位置づけられた。

その目標はこうである。

1 日常生活の食事について、正しい理解と望ましい習慣を養う。

2 学校生活を豊かにし明るい社交性を養う。

3 食生活の合理化、栄養の改善及び健康の増進を図る。

4 食糧の生産、配分及び消費について正しい理解に導く。

現在、完全給食の普及率は急速に高まり、昭和36年9月の調査によれ

ば、全国の給食人員は900万人に及んでおり、本道もこの全国的な傾向

に対応して逐年実施校が増加している。

A町では、プロジェクト・チームを編制して『学校給食の現状と問題点』を研究し、

PTA会員の意識調査、学校給食推進のあり方について調査研究をしたのです。

当時の国の動向は、文部省において昭和38年度から全国の小中学校の全児童

生徒に対してミルク給食を行うことになり、給食未実施校も6月から脱脂粉乳給

を開始しなければならないようになっていったのです。

私の勤めていた町(昭和36年に村から町へ)は、昭和38年度よりミルク給食が

実施され、児童が大変喜んだのです。なお、農業繁忙休暇中でも実施しましたの

で、わざわざ牛乳1本をとりに子ども達が学校へ来る年もあり、牛乳といえどもそれ

ほどの価値があったのです。

今は、アレルギーの子には与えておりませんが、コーヒー牛乳なら飲むけれど普

通の牛乳を嫌う子がいて、その処理の仕方についていろいろな問題が派生してい

るのが学校現場の実態です。

飽食時代を喜んでいいのでしようか。これも光と影の部分がありますが、要は子ど

も達を健やかに育てるにはどうなければならないかの問題になるわけです。

子育て中の皆さん、食生活のあり方についてもっと真剣に考えていかなければな

らないと老婆心ながら忠告したいのです。

注釈〕 学校給食には完全給食と補食給食、ミルク給食の三種類があります。

完全給食とは給食内容がパンまたは米飯(これに準ずる小麦粉食品、米加工食

品その他の食品を含む)、ミルク及びおかずである給食をいいます。

補食給食とは完全給食以外の給食で給食内容がミルク及びおかず等である給食。

ミルク給食とは、給食内容がミルクのみである給食をいいます。

なお、脱脂粉乳とはスキムミルクともいい、保存性がよく、蛋白質、カルシウム、乳

糖などを多く含んでおり、栄養価が高いことから戦後しばしば学校給食に取り入れ

られたのです。

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2009年7月 6日 (月)

複式学級から 東大大学院教授へ

教職員の人事異動にともなって又もや下宿を余儀なくさせられた私ですが、職場

の先輩の奥さんの実家が近くにありましたので、懇願して入居させてもらいました。

この下宿先は昔の地主あり、戦後の農地解放で殆どの田畑は小作人にただ同然

で取られてしまったのです。従って僅かな田畑を小作人に貸し与え、秋に小作料の

代わりに年貢米を貰い、父親は銀行へ勤め、祖父が鶏の雛を育てて売り、小遣い

にするという具合でした。

その下宿の長男坊E君が小学校に入学してきた春のことです。児童会総会が開催

され全校児童(約90名)が集まりました。そして書記局から提案がありました。

誰一人として質問も意見もなく数分過ぎました。すると、E君が挙手をして堂々と意

見を述べたのです。

新入1年生が児童総会で意見を述べたのは、開校以来ではないかと話題になりま

した。

後でE君から聞いた話ですが、上級生から「お前、1年生のくせに生意気だぞ!」と

いじめに遭ったそうです。

このE君は大の野球好きで、暇さえあればグランドで野球ばかりしていたのです。

ある時、お母さんが

「先生、家のEたら野球ばかりしていてさっぱり勉強しないのだけど、ちゃんと覚えて

いるのだろうか?心配だから少し見てやって下さい。」と言うものですから、E君に

国語と算数の教科書を持ってこらせ、質問しました。

ところが、本はすらすら読め、習ったところまでの漢字は全部書けるし、計算も文

章題もきちんとマスターしているのです。要するに授業中に全て覚えてしまってい

たのでした。

お母さんに現状を報告すると、「そうかい、そうであれば好いのだけれど!」と安心

した顔をしていました。

E君達は確か小学4年生まで複式授業(2学年以上の児童生徒をひとつにまとめ

た学級での授業)でしたので、多学級の児童に比べてハンディがあるのです。

しかし、E君には関係なかったのでしよう。中学校は町制になったばかりの地元の

学校へ進み、その後、函館にある私立高校、そしてストレートで東大に合格してし

まったのです。

野球好きのE君は東大でも野球を楽しむかたわら研究に精を出し、最近はNHKの

テレビでも取り上げられるほどの活躍をしているのです。

E君の専門は光触媒学、環境科学、エネルギー変換であり、現在東京大学先端科

学技術研究センターの所長であり、内閣総理大臣賞をはじめ数々の賞を受賞し、

巷ではノーベル賞候補に相応しいとの声が上がるほどの研究成果を収めているの

です。

昨今、学校統廃合で複式学級が減少しましたが、子どもの学力は学校の規模でも

地域でもありません。本人の素質、やる気、努力が関係していると思うのです。

ある町で、複式学級は学力が低下するので学校を統合したいと議会で述べた教

育長がおりましたが、それは大きな間違えであることを指摘したいのです。複式授

業を受けた子どもは、多級校の子どもより自学自習や自主性、主体性が育てられ

ておりますので、素質があれば意外なほど力を発揮するものなのです。

E君の事例は珍しいですが、北海道でも名を上げた人物の中に小規模校や複式

学級で教わった人物が結構いるという事実に注目したいのです。

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2009年7月 5日 (日)

親切に支えられた フランス旅行

南フランス旅行の4日目のことです。

ルノワールが晩年過ごしたレ・コレット(小さな丘)という愛称で呼ばれる家

(Musee Renoir)や庭、レオナール藤田の作品を鑑賞したくて、マントンから電車で

カーニュ・シュル・メール(Cagnes-sur-Mer)という町(人口約4,8万)に行き

ました。

駅前でインフォ メーション(案内所)はどこか?とある老婦人に聞きました。

『地球の歩き方』というガイドブックの地図上の案内所を示しながら道を聞いたの

ですが、15分程歩いても見つかりませんので、また、2人に聞きました。すると、

私達は逆方向に進んでいることがわかりました。しかたがありません。また逆戻りし

て駅の方へ行き、交差点の近くで乳母車を押しているマダムに聞きました。

すると、側を通りがかった紳士が地図を見ながら英語で教えてくれ、インフォメー

ションまで案内してくれたばかりでなく、私達が最初に見学する場所の近くまで、

わざわざ同伴してくれたのです。

Photo_4

さて、グリマルディ城(Chateau Muse Grimaldi)内にある地中海近代美術館にた

どり着き、

Photo_5

その後シャトルバスでターミナルへ。また、人に聞きながらレ・コレットまで

行ったのです。

無事見学を終え、駅からニース(Nice:人口約35万人)へ行きました。

港からプチトラン

Photo_2

旧市街地の細い路地を通って城跡のある丘に上がり、眺望を

楽しんだ後、メーンストリートを散策しながら電車に間に合うように市電に乗り駅に

着きました。

Photo_3 Photo

ところが、予定時刻になっても電車が来ないのです。その内にマントン行きの電車

がプラットホームへ入ってきたのでそれに乗りました。しかし5分経っても動きませ

ん。15分経っても発車しなく乗客が降車し始め、駅舎に戻ったり別のプラットホー

ムに移動したりするのです。

娘が「電車が発車しないのはどうしてですか?」と犬を連れたマダムに尋ねました。

マダムの話ではフランス国鉄のストで、間引き運転をしているのだとのこと。

そして「貴方達は何所へ行くのですか?」聞かれたので、「マントン」(Menton:人口

約3万人)と応えたところ、

「私もマントンへ帰るので離れないようにしなさい」と言ってくれたのです。

電車は約90分遅れて到着しました。親切なマダムのお陰で無事に帰って来ること

ができました。

今日は1日、約7人の人の親切に支えられて、予定していた見物を終えることがで

きたのです。昨今の日本の世相と単純に比較することは出来ませんが、南フラン

ス人の親切ぶりは日本ではなかなか見受けられないと痛感したわけです。

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2009年7月 4日 (土)

薬物混入事件 37後に真相が ②

薬物混入事件の犯人であることを白状したB君が、また立ち上がりました。

B君 「もう少し言わせて下さい。

    実は、あの時、僕は風邪をひいていて鼻の下がヒリヒリするのでメンタームを

    付けていました。だから一寸した悪戯のつもりでしたのですが、町内でも大

    変な話題になり、問題がずんずん大きくなっていったので、恐ろしくなり白状

    することが出来なくなったのです。」

    「それで、罪滅ぼしのつもりで、クラス会の万年幹事をやらせてもらっていま

    すが、毎回、今度こそは白状しよう白状しようと思っていたんです。

    でも、勇気がなくて出来ませんでした。今日、こうやって白状でき、胸のつか

    えが少し下りたような気がします。

    皆さん、本当にご免なさい!」

皆  「B君、よく白状したね。辛かったでしよう?」

    「A君、貴方も偉いはね。よく許してやったね。流石ね!」

女の友 「男の人って素晴しいですね。お互いに許しあえるなんて。私だったら、

    死ぬまで恨んで恨んで、恨み殺すかも知れないわ。」

との声で会場一杯に笑いが起こり、また、ビールやお酒が追加されました。

このことから、疑わしきは罰せず憶測で決め付けないこと重大さを骨身に沁

みて感じました。

昨今、「いじめ問題」が日常茶飯事のように取り上げられています。

被害者の親は、

「加害者を早くみつけることが出来ないなんて学校側の怠慢です。」と攻撃してきま

すが、「疑わしきは罰せず」の原則を守ることの重要性を私は訴えてきました。

学校現場における犯人捜しの難しさ事例です。応援のクリックありがとうございます》

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2009年7月 3日 (金)

薬物混入事件 37後に真相が ①

さて、薬物混入事件が発生してから37年後に予期しないことが起こったのです。

私にとって初めての卒業生であるG君達が、社会人としてスタートを切った頃に

クラス会が開催され、5年毎の開催と万年幹事はB君と決定されました。

そして教え子が50歳になった年のことです。

私の教育長就任祝いも兼ねて、故郷にある某温泉ホテルでクラス会が開催されま

した。やがて宴たけなわに近づいた頃、初めて出席したA君が私の側に座りました。

A君 「先生、あのメンソレターム事件の犯人は、今でも僕だと思っているのですか

   ?」と問いました。

A君は俗に言う頭のいい子でしたが、時々教師の目を盗んで結構悪さをしていたの

で、この事件も彼の仕業とばかり、私は思っていたのです。

私  「申し訳ないが、その後、名乗り出るものがいないから、やはり君かと思

    っているよ。」

A君 「そうかい。僕でないのだけどなあー。」

すると、そのやり取りを聞いていたB君が、すっと立ち上がり

B君 「皆さん、ご免なさい。メンターム事件の犯人は僕、Bなのです。A君ご免なさ

    い!ご免なさい!今まで言えませんでした。」

A君 「B!お前だったのか。全然知らなかったよ。よく白状したな。もう謝らなくて

    もいいから。時効だ!時効!時効!もういいから、一緒に飲もう!」

私  「A君、ご免。君の心に取り返しのつかない深い傷を付けてしまい申し訳ない。

    いくら謝っても、許してもらえる問題とは思っていないが、とに角、申し訳あり

    ません。」

A君 「先生、もういいです。疑いが晴れたのですから。でもね、先生!僕はずっと

    恨んでいましたよ!」

またB君が立ち上がりました。

犯人であることを白状したB君は、一体何を言い出すのでしようか?

                                          (つづく)

取り返しのつかない出来事の報告です。いつも応援のクリックありがとうございます!》

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2009年7月 2日 (木)

薬物混入事件 保護者の変容

メンソレターム(塗り薬)を混入させたサンドイッチを口にしたG君を卒業させてから

3年後のことです。

私は近くの町の小学校(26学級)に転勤し下宿生活を送っておりました。

ある日の夕方、

「先生、お客さんですよ!」と3階に住んでる私に、下宿のおばさんの大きな声。

急いで玄関に出てみると驚いたことにG君のお父さんが立っているではないですか。

私     「あら、G君のお父さんではないですか。その節は大変申し訳ありません

      でした。」と頭を下げました。

G君の父 「先生、そんなに頭を下げないで下さい。今日は大変嬉しいことがありま

      したので、ご報告に参りました。実は息子がA市の○○高校に合格した

      のです。先生に喜んでもらいたくて、ご報告に参りました。」

私     「それはそれは、おめでとうございます。こんな嬉しいことはありません。

      本当に良かったですね。玄関先ではなんですから、どうぞ中にお入り下

      さい。」

G君の父 「いや、そんなわけにはいかないのです。先生を交えて息子の入学祝を

      家族皆でしたくて、家内が料理を作って待っているのです。

      先生、今日は泊りがけで我が家に来て下さい。お願いします。馬そりで来

      ましたので乗っていって下さい。明日、また馬そりでお送りしますから。」

G君の父の申し出に従って、私は約1時間半シャンシャンと鈴のなる馬そりに揺ら

れて、大平原を進んで行きました。沈み行く真っ赤な太陽と茜色に染まった雪原を

ぼんやり眺めながら、これまで味わったことのない安堵感に浸っておりました。

G君の家に着くと皆が歓待してくれ、特にお父さんは私に対して辛く当たってきたこ

とを深く詫びたのです。お互いに杯を交わしながらこれまでのワダカマリが消え失

せ、和気あいあいの時を送ったのです。

翌日馬そりで送ってもらいながら、純朴で純真な人の心に触れ、いつしか涙がこぼ

れ出ていた私でした。

しかし、それから37年後にこの薬物混入事件の真相が明らかになったのです。

                                            (つづく)

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2009年7月 1日 (水)

薬物混入事件 学校現場で勃発 ②

私は新卒4年目。6年生担任の2月で感冒の流行っている時期でした。

家庭科の調理実習でサンドイッチ作り時に起きた事件です。学校は農村の

複式学級のある全校で5学級しかない小規模校でした。

家庭科室もなく水道もない学校で、調理実習は教室で行い、皿や包丁・まな板

などを洗うには教室から一番遠い水飲み場(井戸水をポンプ・アップして汲み砂・

小石・シュロの葉など泥炭混じりの水をこす所)へ行かなければなりませんでした。

私は包丁による怪我のことばかりを気にして、教室と水飲み場を数回移動しながら

指導しておりました。

ですから、まさか玉子のサンドイッチにメンソレターム(肌荒れなどを治す塗り薬)を

混入させるなどとは、夢にも思っていませんでした。

このクラスは、新卒で受け持った3年生の時から既に『いじめ』がありましたが、

私は学力向上を最優先し(標準学力検査で主要4教科は全国平均より5~15点も

上回った)、いじめに関わっての生徒指導は余り深刻に考えていませんでした。

事件後、誰が犯人か、23名の児童一人一人に問いただしました。

しかし、名乗り出る者はいなく、白状する子もいませんでした。私は、ずる賢いA君

を犯人と思っていましたが、A君は

「僕でないよ!僕でないってば!」とガンと否定するばかりでした。

問題が未解決のまま、私はその学校に2年間留まっていました。

私は地域の信頼を回復するために何事も精一杯に取り組みました。そして2年後

に電車で二つ目の駅に当たるB町立小学校(25学級)へ転勤になりました。

PTA主催で送別会を開催してくれましたし、部落全戸数がPTA会員でありますの

で、一軒一軒お礼の挨拶に伺いましたが、G君の家だけには行くことができませ

んでした。何故ならまだ私を許してくれていなかったからです。

G君の家だけが餞別をくれなかったし、挨拶を交わすこともなかったのです。

しかし、それから3年後この事件は意外方へ展開していったのです。

                                           (つづく)

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