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2014年2月25日 (火)

天誅組総裁の一人が 私のルーツ?

過日、本州在住の義姉(亡き兄の妻)からこんな手紙が届いた。

前略、・・・・・・・・・・・。
さて、突然ですが去る11月5日に奈良県東吉野村に行って来ました。

今年は藤本鉄石の百五十年忌になり、盛大な顕彰式典が行われたのです。台風26号で出席できませんでしたが、命日の11月5日にお墓参りして来ました。

今回で3回目ですが、百五十年前、鉄石が歩いたであろう山道を案内していただき、今更ながら困難な事であったと胸が痛くなりました。

顕彰会の方のお話では、京都東山の霊山寺(りょうぜんじ)に鉄石の首を祭ってあるお墓があると聞きました。来年春にでもその墓地と岡山市内の誕生の地に行ってみるつもりです。

哲夫が生前話していた事は、「明治新政府から従四位をもらったが、鉄石の長男と次男が淡路島で事件を起こして取り上げられたので、靖国神社合祀を断った」との事でした。

私は○○家(藤本家)の先祖、鉄石が「さきがけ」と言われる行動をした事を誇りに思います。

生前、○○武夫お父様にはたった一度、私の家へいらした時にお会いしただけですが、今でもはっきり覚えており懐かしい思い出です。小さな方でした。

私のお父様に対する親孝行はこれだけです。出来る限りお墓参りして報告してきたいと思います。

藤本鉄石 ○○家の誇るべき家系です。是非先祖を忘れないで下さい。・・・以下略・・・

さて、かつて我家には立派な家系図があった。紫色の紐で結ばれ桐箱に納められていたことを小学1年(昭和20年)であった私は鮮明に覚えている。それが過去ブロ(神棚と私)に書いた通りであるが、義姉は夫がそのような行為をしたことを全く知らないでいた。

0_3 私が義姉の手紙で知ったのは、藤本鉄石の三男が藤本武石、武石の娘がツネであること。

そのツネが仙台藩の上級武士(槍の指南役:指導者)A氏に嫁ぐが、下級武士の娘であることを理由に入籍されず藤本の姓のままでいた。(亡き母の話による)

そのA氏は明治になって北海道室蘭市輪西に入植し、購入した船に乗り昼間から酒を飲み、唄え踊れの遊興にふける男であったそうだ。また、羽織・袴姿で田圃の畦道を歩くなど、その姿は武士を捨てきれない哀れな末路であったらしいと母は語っていた。

A氏は、やがて貯えを食いつぶして死んでいったが、残された妻ツネは二人の子供を育てるために、金つば焼(和菓子の一種)をしながら細々と生活していたそうである。

そのツネの子が父の藤本武夫(師範時代に婿として母のもとに来る:私の誕生エピソード ①)である。

上の写真は父の享年43才の時のもの。現在8人いる兄弟姉妹の中でこの写真を持っていたのは次男だけであった。妹が兄から借りてきて複写したものである。

また、藤本鉄石の顕彰式典の案内文も同封されていたので貼っておく。
1_2
PCで検索してみると(藤本鉄石)についてウィキペディアで解説しているが、まさか鉄石がが私のルーツに当たるとは夢にも思っていなかった。

父のルーツについては亡き兄が父から聞いて知っており、義姉が現地で調査し、戸籍や過去帳(その家々の故人の戒名・俗名・没年月日などを記した、各家庭に伝わる系譜)の裏づけ資料を整え小樽の兄の元に送ってきたことがあった。

しかし、天誅組とは何なのか意味もわからず、今更、先祖がどうこうと言っても始まらない話であるとの認識で、その資料がどうなったかは不明なのだ。

私が知っているのは父:武夫には10才以上の姉(姓:猪子)がおり、札幌市琴似に住んでいる当時、よく小樽在住の父のもとに遊びに来ていたこと。また、猪子の叔母は1男2女をもうけ、長男は小樽で木材会社を経営し羽振りのよい生活を送っていたことぐらい。

2  母も私も、父が早く他界したので苦労を重ねたため、神仏を余り信じていなかった。しかし、自分の祖先を粗末にすることは好ましいことではないので、今度、関西方面に行ったときに、菩提寺や鉄石寓居址まで足を運びお参りしてこようと思っている。

それにしても、早くこのことを知っていたなら、これまで奈良に2回、京都に3回、岡山に1回旅行したことがあるので、その時お参りすることができたのに・・・・・・残念。

この写真を掲載しているページには“藤本鉄石(1816~63)は、岡山藩出身の尊皇攘夷派志士。脱藩して上洛、軍学者として私塾を開いた。文久3(1863)年、天誅組の挙兵にあたり推されて総裁となったが、諸藩の討伐軍の攻撃を受けて大和国吉野で戦死した。この石碑は藤本鉄石の寓居跡(京都)を示すのもである”と説明されている。

参考までに、藤本鉄石に関する映像資料がPCで取れたので貼っておく。
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Photo Photo_3

000 鉄石の雅号の一つである鉄寒士と記した掛け軸は息子が買い求めて送ってくれたものであり、我家の床の間に飾っている。

このブログ記事は妹や娘・息子・孫達にも、このことを知っていて欲しいと思ってUPした。
<追記> 現在85歳になる姉の話によると、「父さんは○○家に養子としてお母さんのもとにきたが、私の家系はすてたものではないのだよ」とよく話していたとのこと。

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コメント

 天誅組のその後、吉野、岡山などなど、我が家の歴史について私の聞いていた話をたくさん思い出せそうです。ありがとうございました。祖先は出会っていたこともあるのかもしれません。
 歴史は勝者が創るのです。それでいいのでは。敗者は庶民を相手にせざるを得ませんし、その方がどれだけ満足できるエンディングになれるか、その結論を考えたら簡単に良い悪いは言い切れます。

 追記です。妻の実家は九州、チジワミゲルをご存知ですよね。昔、若者をローマに使徒として昔派遣した大冒険が日本にありました。その一人、成功を収めたミゲルさんは妻の祖先または近い親戚だったようです。
 九州の北部の湾に、その栄誉をたたえたのか、はたまた旧家だったのか、千々岩湾と言う名称の湾があります。地図帳にもあるはずです。
 義父の弟はそれを当方の結婚式で自慢していました。きっと我が家の祖先に対抗して調査したのだと妻と大笑いをしたことがありました。皆さんすでに帰らぬ人になりました。寂しいです。
 また追記、義父だけでなく、その父も兄弟も皆さん酔うと黒田節を歌い、踊っていました。私たちの結婚式でも。
 追記の追記。対抗したのか、妻の母方の祖母は謡を披露してくれました。歌集をお祝いにくれたのです。
 そこに書かれてもいたのですが、家系は家や義父の家系以上に三好の町の発展に貢献したようです。郷土史にも書いてありました。

 ここから本当のまとめです。我々だけではないのでしょう。日本中に国を憂い、将来に託した人がいて、今の日本があるのです。皆さんの先祖は素晴らしい人だった。敬うべきは先祖でしょう。

投稿: tsuguo-kodera | 2014年2月25日 (火) 06時58分

tsuguo-koderaさんへ
早々のコメントありがとうございます。
“日本中に国を憂い、将来に託した人がいて、今の日本があるのです。”
とのお言葉に心が揺さぶられました。
情報に疎いと思考範囲も狭くなりますもね。
いずれにしても、PC時代ですので調べることができて
嬉しいです。チジワミゲルについても調べてみます。

投稿: appochan | 2014年2月25日 (火) 07時46分

appochanさんの教育者としてのルーツはそこに
あったのですね。
坂本竜馬を彷彿させるご先祖様、お墓参りが楽しみ
ですね。

投稿: knock | 2014年2月25日 (火) 10時17分

knock さんへ
気が短く良いと思えば直ぐ行動に移す性格は先祖の血に似たのではないかと思うのです(笑い)。
父も新卒時代(小樽市立長橋小学校)、校長にたてつき不意転を食らったり、長男、次男も上司との折り合いが悪かったせいか、結婚してから転職しているのです。
血は争えないと思っています。いずれにしても、機会をみて墓参りをしようと思っています。

投稿: appochan | 2014年2月25日 (火) 13時33分

拝見していて素晴らしい家系のご出身なのがわかりました。
うちの父方は津和野藩士、母方は辿ると里見氏に繋がる材村地主です。母方は江戸時代には苗字帯刀御免でした。
北海道には屯田兵の子孫の方々が沢山います。

投稿: かげちゃん | 2014年2月25日 (火) 19時46分

かげちゃんさんへ
フロンティア精神で北海道にきた藩士達の中には、努力して名をあげた人材が結構いるようです。
また、同郷の絆の深さにも驚きです。
郷土愛を云々といわれますが、苦楽を共にする中から醸成されてくるように思うのです。
私も孫達に誇れるような生き方をしたいと思っています(笑い)。

投稿: appochan | 2014年2月26日 (水) 06時40分

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