カテゴリー「学問・資格」の6件の記事

2013年2月21日 (木)

いま人気の「自習室」

中学校から帰って来たばかりの隣の子(3年生)が、また出かけて行った。てっきり学習塾へ行ったのかと思っめたら、塾にあらず「自習室」へと。

自習室の存在を知った私は、慌ててPCで検索してみた。東京でオススメの自習室ランキングを見て驚いた。勿論有料であり経営がなりたっているからだ。

隣の子は、普段通っている学習塾にある「自習室」を利用しているとのこと。家で勉強するより落ち着いてできるのそうである。

確かに、TV・DVD・ゲーム機器・音楽・雑誌・冷蔵庫・飲料水・ベットなどの誘惑がなく集中して自学自習ができるらしい。

これまで保護者は子どものためを思って、マイホームを建てる時に、子どもの部屋も用意し、学齢に達すれば本立て付きの学習机を揃えてやり、学習環境の整備に努めてきたはずであるのに、そこでの学習を嫌い、学習塾の「自習室」(無料)に通うとはおかしな現象である。

大人が資格試験などを取得するための勉強を、駅周辺の有料「学習室」を利用するのは分るが、中学生が「自習室」を利用するようでは、先行きが心配になってくる。

それにしても、お金儲けの一つとして「自習室」を考えた人は、先見性のあるベンチャー企業主であると感心する。でも、おかしな世の中になったものだとも思う。学校や市立図書館での自学自習は皆無に近い状況であり、札幌市立図書館は閲覧室はあるが自習は原則禁止されているようである。

ただし、生涯学習センターでは無料で「自習室」が利用できるらしい。

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2012年2月13日 (月)

津波から生還た67歳女性 高卒から大学へ

道新(12日朝刊)に掲載されたある記事に感動した。先ず、リード文を紹介しよう。

宮城県気仙沼市の仮設住宅で暮らす67歳の女性が今春、4年間通った定時制高校を卒業する。11カ月前の東日本大震災で津波にのまれながら、一命を取り留めた。「せっかく助けられた命。希望を忘れず生きていきたい」。学ぶ意欲はますます高く、卒業後は大学に進学を決めている。

以下、掲載された内容を列挙してみる。

  • 気仙沼市に生まれる。子供のころは外交官を夢見ていたが、高校進学は経済的理由で断念した。「すまないね」。亡き母が小銭を机に並べ、涙を流した姿がわすれられない。
  • 中卒後、群馬県の工場に就職し、結婚。1女1男を育て上げた。
  • 24歳だった娘を交通事故で亡くす。
  • 5年前、夫が亡くなり、父の介護のため気仙沼に戻った際、新聞で定時制高校の生徒募集の記事をみて、「母に報いるため、いつか高校に行く」と思い続けた50年越しの夢を果たそうと、入学を決めた。
  • 21年前の交通事故で四肢のまひや網膜剥離などの後遺症が残る。
  • 休まず通学し主要教科の成績はオール「5」の優等生。
  • 3・11の津波にのまれたが、男性の投げ入れてくれたロープに懸命にしがみつき、助かった。
  • 市内在住の妹夫婦は犠牲になった。
  • 落ち込み、眠れない日々が続いたが、医師や寄り添ってくれた人たちを支えに立ち直った。
  • 11月に東京福祉大の推薦入試を受験。合格を果たした。
  • 春からは、亡父と暮らした自宅が残る群馬県伊勢崎市に移り、東京福祉大の同市内のキャンパスで「精神保健福祉士」の資格取得を目指すコースで学ぶ。

彼女の言葉。「生きていることに感謝です。命がある限り、夢を持ち続けたい」。この記事は、「不撓不屈」「向上心」など、道徳の心情教材として利用できると思った。

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2010年1月 2日 (土)

へえー!こんな人もいるんだ!

あるパーティーで隣に座った人物(B氏)が、私にこんな語をしてくれました。

・東京の大空襲で全てを失い、失意の気持ちで親戚がいる北海道へ行く覚悟をした。

・上野駅から列車を乗り継ぎやっとのことで青森駅に着いたが、連絡船への乗船時刻にはまだ間があった。

・『かけそば』でも食べようと思って駅前のある食堂に入ると、店の主人に「これから何所へ行くのか」と声をかけられたので、事情を説明するとこの家に住み込まないかと勧められた。

・この食堂には私と同年代の息子がいたが、数年前に病死したがいまだ諦めきれずにいる。息子の部屋は当時のままであり机も椅子もある。貴方を息子のつもりで育てたいので、何とか私の願いを叶えて欲しいと懇願された。

・毎日ひもじさを味わっていた私は、その言葉に甘えて居座ることにした。

・店の夫婦は私を息子のように可愛がってくれ、旧制弘前中学校(現:弘前大学)へ通学させてくれた。

・卒業後、いろいろな仕事を経験したが最終的に現在の会社を興し、何も不自由のない生活を送っているが、お世話になった青森の里親も亡くなり、心にぽっかりと大きな穴があいた。

・数年前亡くした妻が枕元に立ち、ある株を買うように勧めたのでそのようにしたら、何と数時間でまとまったお金が入った。しかし心は満たされないでいた。

・何か社会に恩返しの出来ることはないかと常日頃考えていたその矢先、ある共和国での体験から念願の夢を叶えることにした。

B氏の体験とは、赤道直下にある『世界で一番幸せな国』と云われているA共和国(多数の島々から成り立っている国)の保養地のプールで白人による人種差別を受けたのです。

主権者であるA共和国の人達が、何故白人に対して卑屈にならなければならないのか?「A国が真の独立をするためには、誇り高いA国人を育てなければならない」。

「私を育ててくれた亡き里親への恩返しに、A国人を日本に連れて行き教育したい」と思い話を進めたところ、あるホテルに勤めている21歳の女性Eさんに白羽の矢がたった。

B氏はEさんの両親も日本に招待し、留学の了解を得たのです。

B氏はEさんの留学期間に要する生活費・通勤費・学費・旅費など一切を負担。

そのEさんは、この3月で2年間の留学(札幌にある語学専門学校)を終え帰国する予定。日本で多くの友達もでき楽しい学生生活を送っているとのこと。

なお、B氏はA共和国でEさんの家の隣に約1,000㎡の土地を買い求め、そこに日本式家屋を建て、B氏が居住している町の人達やEさんの友達がA共和国を訪問した時に、自由に寝泊りして貰うとのこと。

この日本村?はもう出来上がっているのです。何か心温まる話だとは思いませんか!?

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2009年3月28日 (土)

資格・就職と時間割編成

私は学芸大学の二類小学課程に入学したのですから、小学校教諭二級普通免許状を取得すれば教員になることができるのです。取得単位数の基準が62単位ですから、1年間で31単位。となれば余裕ある時間割を組むことができ、アルバイトの時間確保に役立つわけです。

ところが教員をしている兄の話によれば、中学校の免許状も持っていると就職に有利になるので、多少辛いかもしれないが小学校・中学校の両方の免許状を取得しておくべきであると助言してくれたのです。

入学した翌日から単位取得と時間割編成の仕方についてのガイダンス指導があり、全員がどれかの専攻学科に所属することになっているのです。私は勉強嫌いでしたので体育科ならペーパーテストもないだろうから楽できる、と思い所属を申請しました。

帰宅後、兄に体育科を専攻することにしたと報告すると「体育科を専攻するということは体育科の免許状をとることになり、陸上、球技、マット運動、スキーや水泳などあらゆる運動について学習するんだよ。だから体育の得意な人が専攻することになるのだ。お前は特別得意な方でないから苦労するよ」と教えてくれたので再度考えてみることにしました。

まず、どの教科が一番基準単位数が少ないかを調べてみると数学科で、わずか16単位。もともと数学のみは自信がありましたので、急遽、専攻学科を体育科から数学科へと変更を申出たのですが、時すでに遅く、私は体育科所属と学生必携ガイドブック?に印刷されおりました。

大学は小学・中学・高校と違い、何年何組と所属が決まっているのではなく、専攻学科の研究室がホームルーム代わりになっていたのです。ですから私の場合は最初の申請が体育科ですのでそちらの研究室へ行かなければならないわけですが、途中から変更したものですから数学科の教官にまだ認知されていなかったのです。

このことも兄に報告すると次のようなことを助言してくれました。

① 変更したことをそれぞれの教官に急いで報告しておかなければならないこと。

② 時間割を作成するに当たっては、基準単位のみの履修ではなく、多めに履修し

 ておくと単位がとれなかった科目が出た時に助かること。

③ 1年生の内にできるだけ多くの単位をとると2年生の後期は凄く楽になること。

④ 1年生は勉学に励みアルバイトは夏季・冬季休業日に行うこと。

以上の助言に従い、時間割を編成したのですが、週に1回のみ5校時の授業をとらなければならないことになり、帰宅時刻が9時過ぎになるという厳しいものになりました。しかし、へこたれる訳にはいかないのです。小中学校両方の免許を取得し、2年後には一発教員になり、家計を助けたいとの意欲に燃えていたのです。

[注釈] 大学で学ぶ姿勢がどうであるかによって、その後の人生が決まってくるものです。目的を明確化させその具現化のために励むことが大切です。友達の中には、受験勉強が終ってほっとし、麻雀やパチンコ、中には特定の女性と仲良くなり勉学を疎かにして単位数不足により就職できなかった人もいたのです。

単免(タンメン:1つの免許状)は複免(フクメン:2つ以上の免許)より不利です。単免でも部活動で活躍し一芸に秀でていれば別問題です。特に中学校以上の場合は、野球やサッカーの指導ができる先生とか吹奏楽や合唱指導のできる先生などを教育現場で求めていることが多いのです。そうした場合は単免でも有利になります。

教育大学は教員になるための学校なのです。他に職を求めようなどという安易な気持ちは禁物です。このことは、校長や教育長になってから痛切に思ったことなのです。

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2009年2月26日 (木)

ある校長の物語 ②

今日の基礎づくりをしてくれた高校に感謝。ふとん一組、トランク一つさげて寄宿舎

へ。寄宿舎の生活を一口では語ることはできないが、多くのよき友との出会いや

いろいろな体験があり、私の視野を広めてくれましたし、私の青春そのものであり

充実した日々でした。

高校といっても軍馬補充部の跡地を校舎にしたものであり、学習というよりは環境

づくりの作業が中心でありました。農家育ちの自分にとっては、農作業の準備、家

畜や農機具の名、取り扱いも知っておりましたので、それを実践することなので優

越感を覚えました。反面、学習や読書は他より劣っていましたが、一貫した農作業、

家畜との触れ合い、真夏の炎天下、汗とほこりにまみれ、虫にさされ、放牧の牛馬

が逃げないようにバラ線張りなど苦しい作業もありましたが、これらの作業を通じて

「勤労の尊さ」「生命の神秘」「他の人の心の痛み」などを理解できる基礎工事を、

しっかり作ってくれた高校に感謝しております。

世相も変わり、家族の勧めもあって獣医をあきらめ、教師を志して学芸大学へ。

家業も酪農家へと転換。高校・大学を通じて夏休みは重要な労働力。家畜の干草

つくりに家族の一員として家事労働の毎日でした。また、冬・春休みは牧場の雑木

を木炭にする炭焼きの手伝い(植林のため)。樹木の伐採、炭焼き釜の作り方から

木炭の出来具合まで貴重な体験を通して、家族の絆、家庭経済を支えるものなど

を学び取ったが、私にとって一番大切なことは「耐えること」を身につけたことだと

思います。

教師への道。昭和32年3月、4年間の寄宿舎生活も終わり、家族に卒業と教師に

なれたことの報告。隣近所の人達が集まって教師への門出を激励してくれました。

釧網本線にゆられ、オホーツクの流氷を眺めながら初任地紋別へ・・・・・・・・・・・。

[注釈] 軍馬補充部とは軍馬の供給、育成、購買をはじめ資源調査を担当する

軍機関のことで、日露戦争の後に標茶町に置かれた。また、寄宿舎は一部屋に

4人程度で宿泊していたが、最近の教育大学では2人部屋が主流になっている。

しかし、学生の個室入居志望が強く、寮の部屋が空いているという声も聞こえて

います。なお、この話の人は、いつも笑顔を絶やさず人ざわりのよい人物でした。

自分の苦労話を語ったことがなかったので、普通の家庭に育った人だと思ってい

ました。彼は北海道のある支庁の大規模中学校の校長で退職しましたが、

生徒指導にかけては敏腕をふるった教師だったのです。

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2009年2月25日 (水)

ある校長の物語 ①

過日、我が家を訪問して下さった知人が、息子さんがやっと新採用教員として道北

のある市に赴任しているとのこと。教員採用試験に数回挑戦し苦労していた話を聞

きながら、私はある先輩校長のことを思い出しました。そこで、彼の回顧録の一部

を紹介します。

忘れられない少年の頃、私は釧路市より30kmほど離れた右に雄阿寒岳、左に

雌阿寒岳を眺める自然豊かな鶴居村に育ちました。今では車で40分ほどのところ

ですが、当時、冬は陸の孤島と化し、夏は馬が曳くトロッコで往復10時間位と記憶

しているのが唯一の交通機関でした。ですから子供の頃は7~8時間かけて歩いた

ものです。家は牛馬を飼い、畑作の貧農でありました。幼少のころから家畜に触れ

家族の野良仕事を手伝い、馬車に家畜用の青草を積み、その上に乗り、星空を眺

めながら一日の労働を終え、家路にという記憶が懐かしく脳裏をかすめます。

高等科1年(13歳)の夏に終戦となり、22年六・三制により新制中学校のスタート

しかし、学校もなく先生もいない、教科書もなければ文房具もなし。それでも5月に

入学式があり、校長先生の開校の言葉だけがぼんやり浮ぶ程度。男女合わせて

7~8名いた生徒も途中で自然退学。3年間の卒業証書をいただいた生徒はいな

かったと思います。

私も昭和22年9月から、村役場の使丁として雇用され、朝早くから役場内の清掃

に暖房用の炭火おこし、そして出勤の職員や来客にお茶のサービス、あとは謄写

版による印刷、使い走りの毎日でした。

そんな時、共に学び共に遊んだ同年代の旧制中(女)学校を卒業して、机にすわり

事務をとる姿を見て、心の中に自分も高等学校に行きたいと強く思った。しかし、

戦前、戦中、戦後を通して労働と避難の仕方の連続で、学習を通しての知識もなく、

真分数の足し算すらできなかったことから、合格への不安と苦しみが続きました。

そんな自分を親父は気付いていたのだろう。ある日、晩酌をしながら農業高校に

行って獣医にでもなれよの一言がとても嬉しかった。これは、今は亡き農業委員

会の事務局長さんが、親父に高校に進学させてはと言ったようです。又、受験問

題集なども紹介してくれました。ここからランプの下での独学が始まり、昭和25年

3月、標茶農業高校に合格。その時の喜びと感動は終生忘れることは出来ません。

                                         <つづく>

[注] 鶴居村は天然記念物タンチョウの生息繁殖地帯として有名なところ。

また、標茶(シベチャ)町は釧路市と阿寒国立公園の中間に位置した酪農王国。

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